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思惑
六十一.後押の官兵衛
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天正十年六月二十一日 申の刻
「今宵のうちに追いつかんと、三七殿が煩いからのぉ・・・。」
そう云って恒興は佐和山に向かって、安土を経つ。恒興は秀吉と面会した後、安土城下の盗賊に荒らされた自分の屋敷を片付け、昨夜はそこに泊まった。翌昼過ぎに秀吉が訪れたが、二人は取り立てて大事な話をすることもなく、ただただ互いの屋敷の修繕具合を気にかけるだけの刻を過ごした。秀吉は屋敷門に差し込む西日に目を眩ませながら、恒興を見送る。呆然と立つ秀吉の頭から昨日の恒興の警告が離れられない。そこへ荷車に乗って家来に引っ張られる官兵衛が立ち寄る。
「小一郎殿からの報せじゃ。修理亮殿が長浜を通り過ぎて岐阜へ向かったそうじゃ。先に岐阜を平らげといて、信孝様を城に迎え入れようとしとるみたいじゃあ。」
恒興隊が離れていくのを見つめながら、秀吉は官兵衛にぼそと尋ねる。
「三七殿と親父に間者を張りつけちょるんかぁ。」
官兵衛の返は決まっているのだが、秀吉自ら確認するのは意外である。
「何かあったのかぁ。」
「別段・・・。ただ勝三郎にわしらの命が危ないと脅されただけじゃぁ。」
「物騒じゃのぉ。そんで筑前殿の命を狙っとるんは信孝様と修理亮殿というわけかぁ。どうするぅっ、清洲へはよおさん連れていくかぁ。」
「いやっ、予定通り、二百くらいでえぇ。取りあえずわしに翻意がねぇことを示す。秀勝殿にも長浜で待機してもらう。秀勝殿がおると、あの御人らはより一層機嫌が悪くなるからのぉ。」
「えぇのかぁ。秀勝殿の方が不機嫌になるんでねぇかぁ。」
「途中、長浜に寄ってよぉ話す。まぁっ、丹波を拝領するんは間違いねぇじゃろうから、小一郎に銭勘定の手解きでも習わせとくかのぉ。」
「小一郎殿も留守番かぁ・・・。でっ、わしは何をすりゃぁいい。」
「三七殿と親父以外のところにも間者を潜らせんといかんかもしれん。わしの側についちょってくんろ。」
淡白な秀吉の返に官兵衛は意外である。
「筑前殿にしては打つ手が少ないのぉ。」
「正直云うて、困っちょる。三七殿らのこともそうじゃが、実は三河と北信濃からの書状にも頭を痛めちょる。」
「三河っつうのは徳川かぁ。北信濃というのは・・・。」
「真田じゃあ。徳川は甲斐を、真田は信濃の南を攻めるのを認めてくれと云ってきておる。どちらもついこないだまで大殿の領じゃったところで、今は北条に唆された一揆勢がのさばっとるぅ。」
「勝三郎殿に相談したんかぇ。」
「いやっ、勝三郎に東に手を出すなと釘を刺された矢先じゃったんで、云えず終いになってもうたぁ。」
相談くらいなら刻はあったろうに、何故か言い訳がましい秀吉を疑う官兵衛は、少しからかい気味になる。
「筑前殿が認めてやったらえぇではないかぁ。一益殿らがもはや撤退したのなら、彼らに奮闘してもらえれば、当分、東に悩まされることはねぇだろう。」
秀吉が溜息混じりに云う。
「何でわしがそれを認める権限を持っとるんじゃぁ・・・。」
「そっ、そりゃぁ確かに・・・。じゃが徳川も真田も大殿の仇討を成したのは筑前殿だと解っとって、それはすなわち筑前殿が織田の一番家老と見做されとるんであって、じゃから筑前殿に頼ってきとるっつうことなんじゃろう。」
「東の領のことでわしを頼られても迷惑なんじゃぃ。わしが一人で決めるこつなぞでけんし、かと言って、こんこつを三七殿や親父に報せれば、あの御人らは『そんな書状を受け取るなんぞっ、御前、何様のつもりじゃぁ』っちゅうて激怒するじゃろうてぇ。」
官兵衛は苦笑する。
「そんなこと云われてもなぁ・・・。」
「宿老になっても大人しゅうしとこうと思うちょったのに、ますますあの御人らに忌み嫌われ、このままじゃと勝三郎のいう通り、わしは殺されてまぅわぁ。」
「何もせんでも命が危ういとは、辛い立場よのぉ・・・。そんで、どうするんじゃぁ。」
「勝三郎も五郎左殿も云うとったなぁ・・・、覚悟を決めなあかんのかもしれん。」
「何を覚悟するんじゃ・・・。」
「それがわしの中でもはっきりせんのじゃあ。」
煮え切らない秀吉に官兵衛は苛立つ。
「話を整えてみるかぁ・・・。いつもの筑前殿なら、殺られる前に殺られんようにする。まぁ、筑前殿は誅殺よりかは謀略が好みじゃろうてぇ。」
「何か引っ掛かる物云いじゃが、まぁ否定はせんっ。」
「じゃが相手が信孝様であることに迷われとる。そうじゃろぉ。」
「大殿の御曹司じゃぞぃ。京では何とか誤魔化したが、こん先もと考えると・・・。」
「ところで織田家中で、信雄様と秀勝殿は信孝様をよろしゅう思っとらんようじゃのぉ。今だけでのうて、これからも御二人が信孝様と仲良うなるとは到底思えん。周りもそう思うとるじゃろう。然ればわしらはどちらかを選ばんといかんということじゃなっ。」
「理屈はそうじゃがぁ・・・。」
「母方の御血筋から云うて信雄様や秀勝殿の方を大切にするのが筋じゃろう。ならば答えは一つよっ・・・。この際、信孝様を見限れぇ。」
「お主、簡単に云うなぁっ・・・。」
「『覚悟』というのは、そういうことでねぇかぁ。おね殿も御母上も小一郎殿も家来衆どもも、皆の命を守ろうとするならば、筑前殿がそう割り切るしかねぇじゃろう。実は勝三郎殿も惟住殿も、筑前殿がそう踏ん切るのを待っとるんじゃねぇのかぁ・・・。」
「今宵のうちに追いつかんと、三七殿が煩いからのぉ・・・。」
そう云って恒興は佐和山に向かって、安土を経つ。恒興は秀吉と面会した後、安土城下の盗賊に荒らされた自分の屋敷を片付け、昨夜はそこに泊まった。翌昼過ぎに秀吉が訪れたが、二人は取り立てて大事な話をすることもなく、ただただ互いの屋敷の修繕具合を気にかけるだけの刻を過ごした。秀吉は屋敷門に差し込む西日に目を眩ませながら、恒興を見送る。呆然と立つ秀吉の頭から昨日の恒興の警告が離れられない。そこへ荷車に乗って家来に引っ張られる官兵衛が立ち寄る。
「小一郎殿からの報せじゃ。修理亮殿が長浜を通り過ぎて岐阜へ向かったそうじゃ。先に岐阜を平らげといて、信孝様を城に迎え入れようとしとるみたいじゃあ。」
恒興隊が離れていくのを見つめながら、秀吉は官兵衛にぼそと尋ねる。
「三七殿と親父に間者を張りつけちょるんかぁ。」
官兵衛の返は決まっているのだが、秀吉自ら確認するのは意外である。
「何かあったのかぁ。」
「別段・・・。ただ勝三郎にわしらの命が危ないと脅されただけじゃぁ。」
「物騒じゃのぉ。そんで筑前殿の命を狙っとるんは信孝様と修理亮殿というわけかぁ。どうするぅっ、清洲へはよおさん連れていくかぁ。」
「いやっ、予定通り、二百くらいでえぇ。取りあえずわしに翻意がねぇことを示す。秀勝殿にも長浜で待機してもらう。秀勝殿がおると、あの御人らはより一層機嫌が悪くなるからのぉ。」
「えぇのかぁ。秀勝殿の方が不機嫌になるんでねぇかぁ。」
「途中、長浜に寄ってよぉ話す。まぁっ、丹波を拝領するんは間違いねぇじゃろうから、小一郎に銭勘定の手解きでも習わせとくかのぉ。」
「小一郎殿も留守番かぁ・・・。でっ、わしは何をすりゃぁいい。」
「三七殿と親父以外のところにも間者を潜らせんといかんかもしれん。わしの側についちょってくんろ。」
淡白な秀吉の返に官兵衛は意外である。
「筑前殿にしては打つ手が少ないのぉ。」
「正直云うて、困っちょる。三七殿らのこともそうじゃが、実は三河と北信濃からの書状にも頭を痛めちょる。」
「三河っつうのは徳川かぁ。北信濃というのは・・・。」
「真田じゃあ。徳川は甲斐を、真田は信濃の南を攻めるのを認めてくれと云ってきておる。どちらもついこないだまで大殿の領じゃったところで、今は北条に唆された一揆勢がのさばっとるぅ。」
「勝三郎殿に相談したんかぇ。」
「いやっ、勝三郎に東に手を出すなと釘を刺された矢先じゃったんで、云えず終いになってもうたぁ。」
相談くらいなら刻はあったろうに、何故か言い訳がましい秀吉を疑う官兵衛は、少しからかい気味になる。
「筑前殿が認めてやったらえぇではないかぁ。一益殿らがもはや撤退したのなら、彼らに奮闘してもらえれば、当分、東に悩まされることはねぇだろう。」
秀吉が溜息混じりに云う。
「何でわしがそれを認める権限を持っとるんじゃぁ・・・。」
「そっ、そりゃぁ確かに・・・。じゃが徳川も真田も大殿の仇討を成したのは筑前殿だと解っとって、それはすなわち筑前殿が織田の一番家老と見做されとるんであって、じゃから筑前殿に頼ってきとるっつうことなんじゃろう。」
「東の領のことでわしを頼られても迷惑なんじゃぃ。わしが一人で決めるこつなぞでけんし、かと言って、こんこつを三七殿や親父に報せれば、あの御人らは『そんな書状を受け取るなんぞっ、御前、何様のつもりじゃぁ』っちゅうて激怒するじゃろうてぇ。」
官兵衛は苦笑する。
「そんなこと云われてもなぁ・・・。」
「宿老になっても大人しゅうしとこうと思うちょったのに、ますますあの御人らに忌み嫌われ、このままじゃと勝三郎のいう通り、わしは殺されてまぅわぁ。」
「何もせんでも命が危ういとは、辛い立場よのぉ・・・。そんで、どうするんじゃぁ。」
「勝三郎も五郎左殿も云うとったなぁ・・・、覚悟を決めなあかんのかもしれん。」
「何を覚悟するんじゃ・・・。」
「それがわしの中でもはっきりせんのじゃあ。」
煮え切らない秀吉に官兵衛は苛立つ。
「話を整えてみるかぁ・・・。いつもの筑前殿なら、殺られる前に殺られんようにする。まぁ、筑前殿は誅殺よりかは謀略が好みじゃろうてぇ。」
「何か引っ掛かる物云いじゃが、まぁ否定はせんっ。」
「じゃが相手が信孝様であることに迷われとる。そうじゃろぉ。」
「大殿の御曹司じゃぞぃ。京では何とか誤魔化したが、こん先もと考えると・・・。」
「ところで織田家中で、信雄様と秀勝殿は信孝様をよろしゅう思っとらんようじゃのぉ。今だけでのうて、これからも御二人が信孝様と仲良うなるとは到底思えん。周りもそう思うとるじゃろう。然ればわしらはどちらかを選ばんといかんということじゃなっ。」
「理屈はそうじゃがぁ・・・。」
「母方の御血筋から云うて信雄様や秀勝殿の方を大切にするのが筋じゃろう。ならば答えは一つよっ・・・。この際、信孝様を見限れぇ。」
「お主、簡単に云うなぁっ・・・。」
「『覚悟』というのは、そういうことでねぇかぁ。おね殿も御母上も小一郎殿も家来衆どもも、皆の命を守ろうとするならば、筑前殿がそう割り切るしかねぇじゃろう。実は勝三郎殿も惟住殿も、筑前殿がそう踏ん切るのを待っとるんじゃねぇのかぁ・・・。」
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