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仇討
三十五.先見の参謀
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小一郎は眼を丸くする。
「なっ、なしてそないな事、今更訊くんじゃ。」
官兵衛の眼が優しくなる。
「大殿と殿が亡くなられたと訊いたときの筑前殿の狼狽ぶりは今でも眼に焼き付いとる。それだけ其方らにとって、大殿は大事なお方じゃったんじゃろう。わしは正直なところ、これまでかと思うた。主人を変えることも頭をよぎった。お主らを可哀想じゃとも思うたわぃ。しかしそれから一刻足らずわしが安国寺の坊主の相手をしておる間に、筑前殿は元の姿に戻っておった。いやっ、それどころか筑前殿の打つ手は冴えに冴え渡っておった。坊主を手玉に取り、宇喜多と家次殿を鼓舞し、摂津衆を取り込み、秀勝殿を覚醒させ、藤孝殿の足を止めた。もちろんこの十日足らずでここまで来れたんはお主のおかげじゃ。じゃがその間に筑前殿は確実に日向守を討つ手立てを着々と打っとった。わしの知らん間にじゃ・・・。」
小一郎は唾をごくりとする。
「そうっ、ここまで完璧すぎるんじゃ・・・、信じられんくらいにのぉ。わしには何となくじゃが、筑前殿がこれまで培ってきたもの全てを注ぎ込んどるように見えるんじゃ。まるで此度の戦を最後にしようとしとるかのように・・・。」
官兵衛の鋭い指摘に、小一郎はばつが悪くなってくる。
「兄弟水入らずの話にわしが首を突っ込むのも野暮だと思うて今まで訊かなんだが、ここまできたら、あの日何があったか気になってしょうがねぇんじゃ。ここだけの話じゃ、教えてくれんかぁ。」
小一郎は自分がやけに汗をかいているのを自覚する。おそらく暑さだけではないのであろう。眼だけを上に向け、返しに困惑する。
「どっ、どうしても応えなあかんかぁ・・・。」
官兵衛の眼が一気に鋭くなる。
「是非に・・・。」
真面目に嘆願する官兵衛も珍しい。軍師の性なのであろうか。
「本当に、ここだけの話にしてくれやぁ。」
官兵衛がこくりと一つ頷くと、小一郎の長い告白が始まる。
「わしらがここまで来れたんは、官兵衛殿が云うように大殿のお陰じゃ。兄さぁが必死に大殿の気を引こうとしたのが始まりじゃった。草履取りの兄さぁはいつしか戦場にも連れて行ってもらえるようになり、そこでも従順に大殿の使い走りを果たしたもんじゃから、大殿にますます可愛がられるようになった。大殿は兄さぁの行く末を案じて、『木下』を名乗るように世話すると、次には織田の御家来の元で勘定や馬引として働くよう命ぜられた。じゃがそんときの兄さぁの扱われようは酷いもんじゃった。同輩には平気で銭を盗られたり、身に覚えのないことで盗人と訴えられたり、上の輩にも寝させてくれんほど無茶な仕事を押しつけられたりして、兄さぁを人として見てくれるんは犬千代殿くらいしか居らなんだ。その犬千代殿が大殿に勘当されると、ますます兄さぁの風当たりは悪ぅなっていったんで、こっそりと宿老の林殿に主人を変えてもらうよう取り入ってたわぃ。度々変えてもらったんじゃが、状況は一向に変わらなんだがのぉ。意外に思うかもしれんが、こん頃が兄さぁの一番辛い刻だったんじゃ。こん頃、兄さぁは『早う足軽大将にならんと身が持たん』とよぉぅぼやいとったわぃ。」
官兵衛は静かに聴き入る。
「兄さぁは酷い扱いを受けながらも、必死に歯ぁ食いしばって働いたもんよ。普通ならわしらのような百姓上がりのもんがどんだけやっても、いつまでたっても獣扱いよぅ。そぅ、それこそ地獄じゃ。じゃが大殿は見とったんじゃ、兄さぁの働きぶりを。そのうち大殿はどんどん兄さぁを出世させ、兄さぁはそれに応えるべくますます働き、兄さぁはまさに地獄から這い上がっていったんじゃ。ついには足軽大将どころか、城持ちで評定に列席でけるようにまでなったときにゃあ、夢のようじゃったわぃ。大殿がいないこの世なんて、わしらにとっては永遠の地獄なんじゃ。」
小一郎は再び竹筒の水を一口飲む。
「じゃからあん刻わしは兄さぁに日向守を討ったら、百姓に戻りゃぁいい、と云ったんじゃ。正直云って、大殿と殿がいなくなってあの頃に戻るんじゃったら、わしはそうした方がえぇと思ったんじゃ。そしたら兄さぁは気が晴れたようになって、らしく動いてらしく喋るように戻ったわぃ。」
官兵衛はいつの間にか腕組みをし、眼を閉じている。
「寝とるんかぁ・・・。」
官兵衛はゆっくり眼を開け、返す。
「なるほどなっ。だから太っ腹のばら撒きというわけかぁ・・・。合点が入った。」
小一郎はじっくり考え込む眼つきの官兵衛の感想が気になる。
「つまらんかったかぁ・・・。」
「いやっ。そんでお主らは日向守を討ったら本当に百姓に戻るつもりか。」
小一郎は消えかけてきた囲炉裏の灯を見つめ、応える。
「あぁっ。おそらく兄さぁはするつもりじゃろう。」
官兵衛も囲炉裏の方を向き、鼻で笑う。
「ふんっ、甘いのぉ。日向守を討ったとして、今更百姓に戻れるとでも思っとるんか。」
官兵衛の毒に小一郎は眼を丸くする。
「お主ら兄弟は分かっとらんのぉ。確かに大殿と殿が居らなければ、お主らの周りは地獄の鬼ばかりなんじゃろう。じゃが同時にお主らはこれまでたくさんの味方も作ってきたっちゅうことに気付いとらんようじゃなぁ。前田然り、誼を結んだ宇喜多や池田然り、秀勝殿に至っては自らお主らの味方だと宣言されよったわぃ。もちろん家来衆もそうじゃし、お主らが口説いた水軍らもじゃ。そして何よりもわしも半兵衛殿もお主らの味方じゃ。」
半兵衛とは亡くなった竹中半兵衛重治のことである。この名前の重みを感じずには居られない小一郎は眼が潤み、言葉を発せられない。官兵衛は小一郎から竹筒を取り上げ、全ての水を飲み尽くす。
「大殿が身罷られた今、次に世直しする者として期待されとるんがお主ら兄弟じゃ。そう考えるもんは山ほどおるぞぉ。そんな皆々の期待をお主ら裏切れるんかぁ・・・。まっ、まぁ、約束通り、今の話は誰にも云わんどこう。じゃがわしがわざわざ諌めんでもお主らは自ずと身を持って思い知ることになるじゃろう。」
官兵衛は最後の毒を放つ。
「早速、明日にもな・・・。」
「なっ、なしてそないな事、今更訊くんじゃ。」
官兵衛の眼が優しくなる。
「大殿と殿が亡くなられたと訊いたときの筑前殿の狼狽ぶりは今でも眼に焼き付いとる。それだけ其方らにとって、大殿は大事なお方じゃったんじゃろう。わしは正直なところ、これまでかと思うた。主人を変えることも頭をよぎった。お主らを可哀想じゃとも思うたわぃ。しかしそれから一刻足らずわしが安国寺の坊主の相手をしておる間に、筑前殿は元の姿に戻っておった。いやっ、それどころか筑前殿の打つ手は冴えに冴え渡っておった。坊主を手玉に取り、宇喜多と家次殿を鼓舞し、摂津衆を取り込み、秀勝殿を覚醒させ、藤孝殿の足を止めた。もちろんこの十日足らずでここまで来れたんはお主のおかげじゃ。じゃがその間に筑前殿は確実に日向守を討つ手立てを着々と打っとった。わしの知らん間にじゃ・・・。」
小一郎は唾をごくりとする。
「そうっ、ここまで完璧すぎるんじゃ・・・、信じられんくらいにのぉ。わしには何となくじゃが、筑前殿がこれまで培ってきたもの全てを注ぎ込んどるように見えるんじゃ。まるで此度の戦を最後にしようとしとるかのように・・・。」
官兵衛の鋭い指摘に、小一郎はばつが悪くなってくる。
「兄弟水入らずの話にわしが首を突っ込むのも野暮だと思うて今まで訊かなんだが、ここまできたら、あの日何があったか気になってしょうがねぇんじゃ。ここだけの話じゃ、教えてくれんかぁ。」
小一郎は自分がやけに汗をかいているのを自覚する。おそらく暑さだけではないのであろう。眼だけを上に向け、返しに困惑する。
「どっ、どうしても応えなあかんかぁ・・・。」
官兵衛の眼が一気に鋭くなる。
「是非に・・・。」
真面目に嘆願する官兵衛も珍しい。軍師の性なのであろうか。
「本当に、ここだけの話にしてくれやぁ。」
官兵衛がこくりと一つ頷くと、小一郎の長い告白が始まる。
「わしらがここまで来れたんは、官兵衛殿が云うように大殿のお陰じゃ。兄さぁが必死に大殿の気を引こうとしたのが始まりじゃった。草履取りの兄さぁはいつしか戦場にも連れて行ってもらえるようになり、そこでも従順に大殿の使い走りを果たしたもんじゃから、大殿にますます可愛がられるようになった。大殿は兄さぁの行く末を案じて、『木下』を名乗るように世話すると、次には織田の御家来の元で勘定や馬引として働くよう命ぜられた。じゃがそんときの兄さぁの扱われようは酷いもんじゃった。同輩には平気で銭を盗られたり、身に覚えのないことで盗人と訴えられたり、上の輩にも寝させてくれんほど無茶な仕事を押しつけられたりして、兄さぁを人として見てくれるんは犬千代殿くらいしか居らなんだ。その犬千代殿が大殿に勘当されると、ますます兄さぁの風当たりは悪ぅなっていったんで、こっそりと宿老の林殿に主人を変えてもらうよう取り入ってたわぃ。度々変えてもらったんじゃが、状況は一向に変わらなんだがのぉ。意外に思うかもしれんが、こん頃が兄さぁの一番辛い刻だったんじゃ。こん頃、兄さぁは『早う足軽大将にならんと身が持たん』とよぉぅぼやいとったわぃ。」
官兵衛は静かに聴き入る。
「兄さぁは酷い扱いを受けながらも、必死に歯ぁ食いしばって働いたもんよ。普通ならわしらのような百姓上がりのもんがどんだけやっても、いつまでたっても獣扱いよぅ。そぅ、それこそ地獄じゃ。じゃが大殿は見とったんじゃ、兄さぁの働きぶりを。そのうち大殿はどんどん兄さぁを出世させ、兄さぁはそれに応えるべくますます働き、兄さぁはまさに地獄から這い上がっていったんじゃ。ついには足軽大将どころか、城持ちで評定に列席でけるようにまでなったときにゃあ、夢のようじゃったわぃ。大殿がいないこの世なんて、わしらにとっては永遠の地獄なんじゃ。」
小一郎は再び竹筒の水を一口飲む。
「じゃからあん刻わしは兄さぁに日向守を討ったら、百姓に戻りゃぁいい、と云ったんじゃ。正直云って、大殿と殿がいなくなってあの頃に戻るんじゃったら、わしはそうした方がえぇと思ったんじゃ。そしたら兄さぁは気が晴れたようになって、らしく動いてらしく喋るように戻ったわぃ。」
官兵衛はいつの間にか腕組みをし、眼を閉じている。
「寝とるんかぁ・・・。」
官兵衛はゆっくり眼を開け、返す。
「なるほどなっ。だから太っ腹のばら撒きというわけかぁ・・・。合点が入った。」
小一郎はじっくり考え込む眼つきの官兵衛の感想が気になる。
「つまらんかったかぁ・・・。」
「いやっ。そんでお主らは日向守を討ったら本当に百姓に戻るつもりか。」
小一郎は消えかけてきた囲炉裏の灯を見つめ、応える。
「あぁっ。おそらく兄さぁはするつもりじゃろう。」
官兵衛も囲炉裏の方を向き、鼻で笑う。
「ふんっ、甘いのぉ。日向守を討ったとして、今更百姓に戻れるとでも思っとるんか。」
官兵衛の毒に小一郎は眼を丸くする。
「お主ら兄弟は分かっとらんのぉ。確かに大殿と殿が居らなければ、お主らの周りは地獄の鬼ばかりなんじゃろう。じゃが同時にお主らはこれまでたくさんの味方も作ってきたっちゅうことに気付いとらんようじゃなぁ。前田然り、誼を結んだ宇喜多や池田然り、秀勝殿に至っては自らお主らの味方だと宣言されよったわぃ。もちろん家来衆もそうじゃし、お主らが口説いた水軍らもじゃ。そして何よりもわしも半兵衛殿もお主らの味方じゃ。」
半兵衛とは亡くなった竹中半兵衛重治のことである。この名前の重みを感じずには居られない小一郎は眼が潤み、言葉を発せられない。官兵衛は小一郎から竹筒を取り上げ、全ての水を飲み尽くす。
「大殿が身罷られた今、次に世直しする者として期待されとるんがお主ら兄弟じゃ。そう考えるもんは山ほどおるぞぉ。そんな皆々の期待をお主ら裏切れるんかぁ・・・。まっ、まぁ、約束通り、今の話は誰にも云わんどこう。じゃがわしがわざわざ諌めんでもお主らは自ずと身を持って思い知ることになるじゃろう。」
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「早速、明日にもな・・・。」
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