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仇討
三十四.不眠の軍師
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天正十年六月十日 亥の刻
官兵衛は誰も住んでいない人家の囲炉裏の灯で、拡げた地図を睨んでいた。野営の兵たちはもはや疲労の塊になっており、もうこの時刻に起きているものはほとんどいない。それでも官兵衛はこれから先の戦術を静かなところで一人きりになって考えたがる。そこへ陣中を見回っていた小一郎が二人の小兵を連れて、戸のない家の前を通りかかる。小一郎が覗き込み、官兵衛に気付く。
「そこに居るは官兵衛殿かぁ。灯が見えたもんで、誰かと思うたわぃ。」
官兵衛は小一郎に眼を合わせず、ぶっきらぼうに応える。
「見回りかぁ、ご苦労じゃのぉ。ここは心配ねぇから、次さ回れっ。」
一人になりたい官兵衛の心境を察し、小一郎は小兵に小声で指示する。
「おめぇら、ここはえぇから、あっちさ見て回ってこぃ。」
小兵たちも雰囲気を察して、いそいそと家を離れるが、小一郎は立ったままである。
「おめぇは行かんのかぇ・・・。」
「もう今晩だけで三度回ったわぃ。十分じゃぁ。」
小一郎は板敷に上がり、官兵衛の左手に座す。懐から竹筒を取り出し、水をごくと身体に入れる。竹筒を官兵衛に渡そうとするが、官兵衛は虫を払うような仕草で断る。官兵衛が面倒臭そうに尋ねる。
「そんでぇ、どんだけ集まっとるっ。」
「播磨をゆっくり行進でけたおかげで、一万八千はおる。皆、疲れちょるがのぉ。」
官兵衛はやや呆れる。
「ほぼ全軍じゃのぉ。」
「ははっ、よおぉけ銭をばら撒いたけんのぉ。こないな贅沢な戦はもうねぇじゃろう。後はこん戦が早よ終わってくれることを祈るばかりじゃ。」
少し間を空け、官兵衛は低い声で云う。
「案ずるなっ。この戦、長引かん。」
「ほっ、本当かぁ。」
「あぁ、さっき高山殿の使いが報せてくれた。日向守がこっちへ向かっておる。わしらの思惑通りじゃ。おそらく長岡殿と山城衆を手懐けられんかったんじゃろうて、兵の数が足りなくて焦っておるわぃ。わしらの方がこれ以上数を膨らます前に一撃を喰らわせようとしとるのが丸わかりじゃ。日向守と直に対峙する刻は近いぞっ。」
疑り深い小一郎は、意地悪に尋ねる。
「高山殿の云うことは信じれるんかぁ。」
「当たり前じゃ。高山殿はわしなんか比べもんにならんくらい徹底した切支丹じゃぞぉ。それにすごく頭が切れる、いや切れすぎるくらいで、相手の一手、二手先を詠むのが見事じゃ。それでも過信などせん、律儀な御人じゃあ。」
官兵衛が人格を誉めるのは珍しい。小一郎は少しつまらない。
「ふぅぅん、そうかっ・・・。じゃあ、いよいよじゃのぉ・・・。」
「うむ。じゃが油断はならん。日向守とて戦をよぅ知っとる御人じゃ。兵の数が少ないのなら、その不利を打ち消す策を講じてくるはずじゃ。例えば地の利じゃ。わしらは富田まではすんなり進める。しかしそこから京までは山と河が交互にわしらの行く手を遮ることになる。それを利用して日向守はわしらを襲うつもりじゃろう。」
「どこか分かるのか。」
官兵衛は地図を指差しながら応える。
「日向守も一万以上の兵を抱えとる。これを存分に動かそうと思えば・・・、山﨑あたりじゃのぉ。高山殿もそう見とるようじゃ。そこからさらに京に近いところとなると、兵を割かんといかんし、その余裕はねぇじゃろう。」
「この辺りって・・・山と河だけじゃなくて、でっけぇ沼があるところじゃぁ・・・。」
「あぁ、おそらく日向守は円明寺川の奥に陣を張る。手前は天王山と淀川の隘路から僅かに広がっとるだけじゃから、ここに三万を越える兵が川沿いに陣を張ることはでけん。わしらの陣は自ずと縦に伸び、横から攻められれば終わりじゃ。数の不利を補おうとするなら、この策が妥当じゃろう。」
「じゃあ、このぉっ天王山ってのを抑えとかんといかんのぉ。」
官兵衛はにやとする。
「すでに高山殿と中川殿がこの辺りで暴れておって、敵が屯でけんようにしとるらしい。さすが高山殿じゃ。準備ができとるっ・・・。後は前衛の出来次第じゃ。」
「それなんじゃが、わしらの兵は皆疲れきっちょる。覇気がないとまでは云わんが、どうも空回りしちょるようじゃ。こんなんで闘えるんかのぉ。」
官兵衛は納得いく返をする。
「前衛は摂津衆に任せればえぇ。奴らも手柄が欲しいが故に張り切るじゃろう。わしらは脇を固めるに徹する・・・。あっ、小六と茂助にはまだ云うなよ。あいつら気ばかり張り合いおうて云うこと聞かんからのぉ。」
「分かっちょるが、奴らがいじける姿が見えるのぉ・・・。」
苦笑する官兵衛はさらにその先を詠む。
「この円明寺川さえ突破できれば、ここから先は敵が陣を整え直す場所がねぇ。勝竜寺城は拠り所としてはちと狭い。じゃから敵は総崩れよ。おそらく日向守は京を過ぎて坂本まで撤退せんといかん羽目になるじゃろう。その隙にわしらが京を無傷で抑えれば、日向守の大義は完全に無くなる。」
小一郎は感心する。
「そうなりゃ、完勝じゃなっ・・・。」
小さな笑みを浮かべる小一郎を見て、官兵衛は前から気になっていたことを尋ねる。
「ここまで有利に進められたのは、お主の兄さんが鋭い一手を次々と打ってきたからよぉ。なぁ、小一郎殿っ。おめぇさん、あの高松の寺で筑前殿に何て云うたんじゃあ。」
官兵衛は誰も住んでいない人家の囲炉裏の灯で、拡げた地図を睨んでいた。野営の兵たちはもはや疲労の塊になっており、もうこの時刻に起きているものはほとんどいない。それでも官兵衛はこれから先の戦術を静かなところで一人きりになって考えたがる。そこへ陣中を見回っていた小一郎が二人の小兵を連れて、戸のない家の前を通りかかる。小一郎が覗き込み、官兵衛に気付く。
「そこに居るは官兵衛殿かぁ。灯が見えたもんで、誰かと思うたわぃ。」
官兵衛は小一郎に眼を合わせず、ぶっきらぼうに応える。
「見回りかぁ、ご苦労じゃのぉ。ここは心配ねぇから、次さ回れっ。」
一人になりたい官兵衛の心境を察し、小一郎は小兵に小声で指示する。
「おめぇら、ここはえぇから、あっちさ見て回ってこぃ。」
小兵たちも雰囲気を察して、いそいそと家を離れるが、小一郎は立ったままである。
「おめぇは行かんのかぇ・・・。」
「もう今晩だけで三度回ったわぃ。十分じゃぁ。」
小一郎は板敷に上がり、官兵衛の左手に座す。懐から竹筒を取り出し、水をごくと身体に入れる。竹筒を官兵衛に渡そうとするが、官兵衛は虫を払うような仕草で断る。官兵衛が面倒臭そうに尋ねる。
「そんでぇ、どんだけ集まっとるっ。」
「播磨をゆっくり行進でけたおかげで、一万八千はおる。皆、疲れちょるがのぉ。」
官兵衛はやや呆れる。
「ほぼ全軍じゃのぉ。」
「ははっ、よおぉけ銭をばら撒いたけんのぉ。こないな贅沢な戦はもうねぇじゃろう。後はこん戦が早よ終わってくれることを祈るばかりじゃ。」
少し間を空け、官兵衛は低い声で云う。
「案ずるなっ。この戦、長引かん。」
「ほっ、本当かぁ。」
「あぁ、さっき高山殿の使いが報せてくれた。日向守がこっちへ向かっておる。わしらの思惑通りじゃ。おそらく長岡殿と山城衆を手懐けられんかったんじゃろうて、兵の数が足りなくて焦っておるわぃ。わしらの方がこれ以上数を膨らます前に一撃を喰らわせようとしとるのが丸わかりじゃ。日向守と直に対峙する刻は近いぞっ。」
疑り深い小一郎は、意地悪に尋ねる。
「高山殿の云うことは信じれるんかぁ。」
「当たり前じゃ。高山殿はわしなんか比べもんにならんくらい徹底した切支丹じゃぞぉ。それにすごく頭が切れる、いや切れすぎるくらいで、相手の一手、二手先を詠むのが見事じゃ。それでも過信などせん、律儀な御人じゃあ。」
官兵衛が人格を誉めるのは珍しい。小一郎は少しつまらない。
「ふぅぅん、そうかっ・・・。じゃあ、いよいよじゃのぉ・・・。」
「うむ。じゃが油断はならん。日向守とて戦をよぅ知っとる御人じゃ。兵の数が少ないのなら、その不利を打ち消す策を講じてくるはずじゃ。例えば地の利じゃ。わしらは富田まではすんなり進める。しかしそこから京までは山と河が交互にわしらの行く手を遮ることになる。それを利用して日向守はわしらを襲うつもりじゃろう。」
「どこか分かるのか。」
官兵衛は地図を指差しながら応える。
「日向守も一万以上の兵を抱えとる。これを存分に動かそうと思えば・・・、山﨑あたりじゃのぉ。高山殿もそう見とるようじゃ。そこからさらに京に近いところとなると、兵を割かんといかんし、その余裕はねぇじゃろう。」
「この辺りって・・・山と河だけじゃなくて、でっけぇ沼があるところじゃぁ・・・。」
「あぁ、おそらく日向守は円明寺川の奥に陣を張る。手前は天王山と淀川の隘路から僅かに広がっとるだけじゃから、ここに三万を越える兵が川沿いに陣を張ることはでけん。わしらの陣は自ずと縦に伸び、横から攻められれば終わりじゃ。数の不利を補おうとするなら、この策が妥当じゃろう。」
「じゃあ、このぉっ天王山ってのを抑えとかんといかんのぉ。」
官兵衛はにやとする。
「すでに高山殿と中川殿がこの辺りで暴れておって、敵が屯でけんようにしとるらしい。さすが高山殿じゃ。準備ができとるっ・・・。後は前衛の出来次第じゃ。」
「それなんじゃが、わしらの兵は皆疲れきっちょる。覇気がないとまでは云わんが、どうも空回りしちょるようじゃ。こんなんで闘えるんかのぉ。」
官兵衛は納得いく返をする。
「前衛は摂津衆に任せればえぇ。奴らも手柄が欲しいが故に張り切るじゃろう。わしらは脇を固めるに徹する・・・。あっ、小六と茂助にはまだ云うなよ。あいつら気ばかり張り合いおうて云うこと聞かんからのぉ。」
「分かっちょるが、奴らがいじける姿が見えるのぉ・・・。」
苦笑する官兵衛はさらにその先を詠む。
「この円明寺川さえ突破できれば、ここから先は敵が陣を整え直す場所がねぇ。勝竜寺城は拠り所としてはちと狭い。じゃから敵は総崩れよ。おそらく日向守は京を過ぎて坂本まで撤退せんといかん羽目になるじゃろう。その隙にわしらが京を無傷で抑えれば、日向守の大義は完全に無くなる。」
小一郎は感心する。
「そうなりゃ、完勝じゃなっ・・・。」
小さな笑みを浮かべる小一郎を見て、官兵衛は前から気になっていたことを尋ねる。
「ここまで有利に進められたのは、お主の兄さんが鋭い一手を次々と打ってきたからよぉ。なぁ、小一郎殿っ。おめぇさん、あの高松の寺で筑前殿に何て云うたんじゃあ。」
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