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仇討
三十三.高揚の恒興
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天正十年六月十日 申の刻
有岡の城は久しぶりに朝から晴天に恵まれ、城内の湿気を一気に解き放つかのように、全ての扉を開けていた。半刻ほど前から天守に一人の将が立ち、西に伸びる海岸線をずっと眺めている。将の名は池田勝三郎恒興という。長らく信長の小姓を務め、信長の戦のほとんどに参陣した。荒木村重の変の後、摂津・尼崎を任され、近々秀吉の援軍として備中へと出陣するはずであった。信長の訃報を訊くと、恒興は愕然とした。
(大殿にも殿にも、うちの倅たちを可愛がってもろうてたというに、何たることじゃ。お二人がおられんようになったら、わしらはどうすりゃいいんじゃ。)
恒興も秀吉同様、尾張の頃から長きに渡って信長に仕えていたが、秀吉と違うのは子に恵まれたというところである。この時点で恒興には四人の男子がおり、長男・元助、次男・輝政を若い頃から信長の近習として送り込み、とりわけ成人した元助は信長の嫡子・信忠の与力として仕えるに至った。さらに、三男・長吉を子のいない秀吉の養子に出したり、清和源氏の流れを汲む忠臣・森長可に娘を嫁がせたりして、織田家臣の間でも発言権を拡大しつつあった。しかし何分にも信長・信忠に依存した体制であったので、二人が同時に亡くなるとなると、池田家の前途は一気に多難となった。
(これからの織田家を担うのはどなたであろう。信雄殿か、信孝殿か、秀勝殿か、はたまた長益殿か、殿の御子息か・・・。いずれにせよ、織田は割れるのぉ。わしは誰をお支えすれば良いじゃろう。)
恒興にとっては、信長でも信忠でもなければ誰でも良かった。この期に及んでは、恒興は織田家よりも池田家の行く末を大事として逡巡するようになっていた。ところがそうこう考えているうちに、いつの間にか秀吉が姫路に着陣した報せが広まり、秀吉・秀勝優位の雰囲気になってきた。
(こうなりゃ、筑前がつく者にわしらもつくとするか・・・。筑前がこのまま秀勝殿を担ぐならそれで良し、他の誰かに鞍替えするならそれも良し。)
恒興にはもはや此度の明智との戦には『勝つ』という答えしかなかった。当然城主たるもの、戦の後の情勢も見極めておかなければならない。恒興にとっても将来は大事ではあるが、それは政よりもむしろ姻戚関係の方に重きがある。政に全く関心がないわけではないが、恒興にとっては政とは戦功を上げて領を拡大することであり、治世といった難しいことは頭のいい誰かに任せて、自分の身内は勇猛果敢でさえあればいいという、これから新しい時代を迎えるにしては脳天気な考えの持ち主である。
(さて、筑前にどう取り繕うか・・・。)
と考えていると、この時代の武将にしては珍しく、色白で餅肌の若い将が天守を登ってくる。
「如何ですか、父上。見えて参りましたか。」
「おぉっ、之助っ。参ったか。」
恒興はふと我に返り、改めて海岸線の先に眼を凝らす。元助は恒興の背後から右側に立ち、彼もまた海岸線の先に視線を運ぶ。彼らの視線の先は播磨の東端である兵庫である。城からは七、八里ほど離れているが、間に障害となるものがないので、今日のような快晴の日であれば軍勢の影が見え始めるはずである。
「今日はえぇ天気になりましたのぉ。眩しゅう光る海は久々じゃぁ。」
元助は右手を翳しながら眼を細める。恒興は海岸線の先を指差しながら少し興奮する。
「徐々にあの辺りが黒うなっとる。いよいよじゃなっ。」
「案外と姫路からは刻をかけて進んできましたなぁ。本当に二万の兵が集まっとるんでしょうか。」
「間者にはちゃんと数えてくるよう、申し付けておけよ。筑前は見せかけの旗で兵の数を誤魔化すのが得意じゃからなぁ。」
親子二人して苦笑する。
「まぁっ、たとい二万はおらなんでも、一万もおれば上出来じゃ。わしらが加わったら日向守の兵よりも十分に上回るわぃ。」
「そうですなっ。たとい一万でもかように短い間に備中から兵を移すのは至難でありましたでしょう。筑前殿の兵の統率は見事でございます。」
「考えてみれば、戦わんでも兵を早う動かすだけで、こちらの勝ちが揺るぎなくなったのじゃからのぉ。まったくおもしろい奴じゃ。」
恒興だけでなく、元助もすでに勝利を確信している。元助は確認する。
「明日は如何致しましょう。」
「明朝、お主が迎えに参れ。丁重にお連れ致し、予定通り大物の浦の辺りまで連れて行けっ。あそこなら大軍の野営も張れるじゃろう。その後の接待はお主に全て任せる。少々の酒肴も構わん。」
「父上は参らぬのですか。」
「あぁっ、わしは大物の城におる。筑前にはお主から、こそとわしがそん城で待っとると伝えよ。来るんは日が暮れてからでもえぇ。」
「秀勝殿はどうされます。」
「お主が陣で引きつけておけ。わしと筑前との話には邪魔じゃ。」
『羽柴』を名乗っているとはいえ、信長の子息である秀勝を邪魔者呼ばわりする父に、元助は意外である。
「筑前殿とどの様な御話をなさるので・・・。」
「羽柴とわしらの絆をさらに深うする。」
元助は父が羽柴との間に何らかの縁組を交わそうとしていることを確信する。確かにこのような縁組を勝手に進めれば、秀勝は不快に捉えるかもしれない。しかし信長と信忠がいない今、そうは言ってられない。元助は明日の自分の役割をしっかり理解する。
「筑前殿には城においでいただけましょうか。」
元助の問いに、恒興は鼻息一つ漏らして、意地悪な顔つきで応える。
「もし筑前が警戒するようじゃったら、『えぇ女子を用意しております』と伝えよ。」
有岡の城は久しぶりに朝から晴天に恵まれ、城内の湿気を一気に解き放つかのように、全ての扉を開けていた。半刻ほど前から天守に一人の将が立ち、西に伸びる海岸線をずっと眺めている。将の名は池田勝三郎恒興という。長らく信長の小姓を務め、信長の戦のほとんどに参陣した。荒木村重の変の後、摂津・尼崎を任され、近々秀吉の援軍として備中へと出陣するはずであった。信長の訃報を訊くと、恒興は愕然とした。
(大殿にも殿にも、うちの倅たちを可愛がってもろうてたというに、何たることじゃ。お二人がおられんようになったら、わしらはどうすりゃいいんじゃ。)
恒興も秀吉同様、尾張の頃から長きに渡って信長に仕えていたが、秀吉と違うのは子に恵まれたというところである。この時点で恒興には四人の男子がおり、長男・元助、次男・輝政を若い頃から信長の近習として送り込み、とりわけ成人した元助は信長の嫡子・信忠の与力として仕えるに至った。さらに、三男・長吉を子のいない秀吉の養子に出したり、清和源氏の流れを汲む忠臣・森長可に娘を嫁がせたりして、織田家臣の間でも発言権を拡大しつつあった。しかし何分にも信長・信忠に依存した体制であったので、二人が同時に亡くなるとなると、池田家の前途は一気に多難となった。
(これからの織田家を担うのはどなたであろう。信雄殿か、信孝殿か、秀勝殿か、はたまた長益殿か、殿の御子息か・・・。いずれにせよ、織田は割れるのぉ。わしは誰をお支えすれば良いじゃろう。)
恒興にとっては、信長でも信忠でもなければ誰でも良かった。この期に及んでは、恒興は織田家よりも池田家の行く末を大事として逡巡するようになっていた。ところがそうこう考えているうちに、いつの間にか秀吉が姫路に着陣した報せが広まり、秀吉・秀勝優位の雰囲気になってきた。
(こうなりゃ、筑前がつく者にわしらもつくとするか・・・。筑前がこのまま秀勝殿を担ぐならそれで良し、他の誰かに鞍替えするならそれも良し。)
恒興にはもはや此度の明智との戦には『勝つ』という答えしかなかった。当然城主たるもの、戦の後の情勢も見極めておかなければならない。恒興にとっても将来は大事ではあるが、それは政よりもむしろ姻戚関係の方に重きがある。政に全く関心がないわけではないが、恒興にとっては政とは戦功を上げて領を拡大することであり、治世といった難しいことは頭のいい誰かに任せて、自分の身内は勇猛果敢でさえあればいいという、これから新しい時代を迎えるにしては脳天気な考えの持ち主である。
(さて、筑前にどう取り繕うか・・・。)
と考えていると、この時代の武将にしては珍しく、色白で餅肌の若い将が天守を登ってくる。
「如何ですか、父上。見えて参りましたか。」
「おぉっ、之助っ。参ったか。」
恒興はふと我に返り、改めて海岸線の先に眼を凝らす。元助は恒興の背後から右側に立ち、彼もまた海岸線の先に視線を運ぶ。彼らの視線の先は播磨の東端である兵庫である。城からは七、八里ほど離れているが、間に障害となるものがないので、今日のような快晴の日であれば軍勢の影が見え始めるはずである。
「今日はえぇ天気になりましたのぉ。眩しゅう光る海は久々じゃぁ。」
元助は右手を翳しながら眼を細める。恒興は海岸線の先を指差しながら少し興奮する。
「徐々にあの辺りが黒うなっとる。いよいよじゃなっ。」
「案外と姫路からは刻をかけて進んできましたなぁ。本当に二万の兵が集まっとるんでしょうか。」
「間者にはちゃんと数えてくるよう、申し付けておけよ。筑前は見せかけの旗で兵の数を誤魔化すのが得意じゃからなぁ。」
親子二人して苦笑する。
「まぁっ、たとい二万はおらなんでも、一万もおれば上出来じゃ。わしらが加わったら日向守の兵よりも十分に上回るわぃ。」
「そうですなっ。たとい一万でもかように短い間に備中から兵を移すのは至難でありましたでしょう。筑前殿の兵の統率は見事でございます。」
「考えてみれば、戦わんでも兵を早う動かすだけで、こちらの勝ちが揺るぎなくなったのじゃからのぉ。まったくおもしろい奴じゃ。」
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