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仇討
二十四.帰還の官兵衛
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天正十年六月七日 戌の刻
秀吉は、姫路の城の天守最上階にいる。文机を前に池田恒興への書状を認めようとしている。普段はこのようなところで文を書くことはないのだが、兵の集まりが気になって仕方ない秀吉は、ここで外の様子を把握しながら、さまざまな下知状や書状を書くことにした。とはいえ、雨風が随分と入り込んでくるので、大方の雨戸は閉めっぱなしである。日が暮れて、行灯の元で秀吉が筆を動かしているところへ、一人の老臣がゆっくりと階段を上がってくる。
「筑前様はこちらにおられまするかぁ。」
聞き覚えのある声である。はっとした秀吉は筆を止め、階段のところへ寄る。
「これは、これはっ。職隆殿ではござらぬか。」
黒田職隆は官兵衛の父である。家督はとうに官兵衛に譲っているが、秀吉や官兵衛が姫路を留守にする間は城代として任せられることが多い。秀吉は上がってきた職隆を文机に向かうように丁重に座らせ、自分はその間に職隆と面するように座る。燭台を近づける秀吉が感謝する。
「此度はみつ殿はじめ、黒田の皆々さまには大いに手伝うていただいて、感謝しきれませんわぁ。」
職隆は手招きするような格好で、秀吉に返す。
「いやいや、こんくらいの事は・・・。それよりも一大事ですなぁ。」
「まったくじゃぁ。官兵衛から聞いちょるかもしれんが、ここで兵を整えて、十兵衛を討ちに参るつもりじゃ。そんまで迷惑かけちまうが、堪えてくんろ。」
「迷惑などと滅相もござりませぬ。これから大戦じゃあ。そんな大事に少しでもお役に立てれるのじゃから、わが家の誉でありますぞぉ。」
二人は笑う。職隆はこれまでを思い返すように話す。
「思えば官兵衛がここまで命を懸けて働けるのは、全て筑前様のおかげじゃ。政職様にお仕えしとった頃はそっけなく面白味のない男じゃったが、筑前様とお会いしてからは活き活きとなりおってのぉ。みつも別人のように明るぅなったと喜んでおりましたわぃ。有岡の城から戻って来たときには、さすがにわしも大殿に松寿丸をお返しいただこうと願い出ようと考えたが、そんな心配をよそにあやつは早く筑前様の元に戻りたいだとか、どうやったら皆と同じように動けるかだとか、前向きなことしか云わなくてのぉ。わが息子ながら、強い御人になられたと誇らしく思うておる。」
感慨深くなっている職隆に秀吉は返す。
「いやいやわしの方こそ、ここまで来れたんは官兵衛のおかげじゃと思うておる。此度の毛利攻めも、そっからいち早く無事に姫路に戻れたんも彼奴の働き抜きでは考えられん。これから十兵衛を討つんも、彼奴の知恵と力が必要じゃ。頼みにしておるわぃ。」
眼が潤う職隆は感謝の意を述べたいが、言葉にならない。
「無事に官兵衛が戻ってきたら休ませてぇが・・・」
と秀吉が云い続けようとすると、職隆が遮った。
「あっ、あぁ、申し訳ござらん、筑前様。もう官兵衛は戻っておる。」
秀吉は眼を丸くし、職隆を見つめてしまう。
「実は、官兵衛はこの城に寄らんと、直に国府山におったわしの元に転がり込んできおってな。なんでも沼を出たところで彼奴の御輿が流されてしもうて、近くにあった村小屋の戸板を御輿代わりにして戻って来たらしい。」
秀吉は呆気となる。
「あの御輿はわしが昔馴染みの職人共に作らせたもんでのぉ。よっぽど気に入っておったんか、わしに作り直してほしいと云って来おってのぉ。わしが承けたら急に倒れて、今あちらで鼾かいて寝ておりますわぃ。」
事情を呑み込んだ秀吉はくくくっと静かに笑い出す。
「そうか、無事に戻ったかぁ。よっしゃ、よっしゃぁ・・・。」
喜ぶ秀吉に職隆が頼む。
「筑前様。本来なら息子を叩き起こして、早うこちらへ向かわせたいところじゃが、今しばらく休ませても宜しかろうか。」
喜びに耽る秀吉は慌てる。
「おっ、おぅ、もちろんじゃ。ゆっくり休ませてやってくんろ。そんで、みつ殿にはもう伝えたんか。」
「こちらへ登る途中で会えましたので、そこで・・・。」
「そうか、そうか、ご安心なさったじゃろう。よかっ、よかっ。」
職隆が改めて頼む。
「筑前様。できれば御出立の日取をお教えいただけませんでしょうか。官兵衛にはできるだけ休ませとうございますし、御輿の件もございますので・・・。」
「日取はまだ決めておらん。すまんがあまりのんびりもしておれん。」
秀吉は考え込んだ末に応える。
「そうじゃのぉ、今日だけでだいぶ兵が戻って来ちょるようじゃったから、明後日の朝の出立と致すかのぉ。」
「わかり申した。官兵衛が起きたらそのように伝えておきましょう。」
職隆はゆっくりと立ち上がる。秀吉は職隆の手を取り、階段まで誘導する。
「気ぃ付けてのぉ。官兵衛には無理すんなと云うちょいてくれなぁ。」
と職隆を見送る際、秀吉はふと気づいてしまう。
(ちぃと早まったかのぉ。よう考えんと、『明後日』って云ってしもうたわぃ・・・。こりゃぁ、また小一郎にどやされるのぉ。)
秀吉は、姫路の城の天守最上階にいる。文机を前に池田恒興への書状を認めようとしている。普段はこのようなところで文を書くことはないのだが、兵の集まりが気になって仕方ない秀吉は、ここで外の様子を把握しながら、さまざまな下知状や書状を書くことにした。とはいえ、雨風が随分と入り込んでくるので、大方の雨戸は閉めっぱなしである。日が暮れて、行灯の元で秀吉が筆を動かしているところへ、一人の老臣がゆっくりと階段を上がってくる。
「筑前様はこちらにおられまするかぁ。」
聞き覚えのある声である。はっとした秀吉は筆を止め、階段のところへ寄る。
「これは、これはっ。職隆殿ではござらぬか。」
黒田職隆は官兵衛の父である。家督はとうに官兵衛に譲っているが、秀吉や官兵衛が姫路を留守にする間は城代として任せられることが多い。秀吉は上がってきた職隆を文机に向かうように丁重に座らせ、自分はその間に職隆と面するように座る。燭台を近づける秀吉が感謝する。
「此度はみつ殿はじめ、黒田の皆々さまには大いに手伝うていただいて、感謝しきれませんわぁ。」
職隆は手招きするような格好で、秀吉に返す。
「いやいや、こんくらいの事は・・・。それよりも一大事ですなぁ。」
「まったくじゃぁ。官兵衛から聞いちょるかもしれんが、ここで兵を整えて、十兵衛を討ちに参るつもりじゃ。そんまで迷惑かけちまうが、堪えてくんろ。」
「迷惑などと滅相もござりませぬ。これから大戦じゃあ。そんな大事に少しでもお役に立てれるのじゃから、わが家の誉でありますぞぉ。」
二人は笑う。職隆はこれまでを思い返すように話す。
「思えば官兵衛がここまで命を懸けて働けるのは、全て筑前様のおかげじゃ。政職様にお仕えしとった頃はそっけなく面白味のない男じゃったが、筑前様とお会いしてからは活き活きとなりおってのぉ。みつも別人のように明るぅなったと喜んでおりましたわぃ。有岡の城から戻って来たときには、さすがにわしも大殿に松寿丸をお返しいただこうと願い出ようと考えたが、そんな心配をよそにあやつは早く筑前様の元に戻りたいだとか、どうやったら皆と同じように動けるかだとか、前向きなことしか云わなくてのぉ。わが息子ながら、強い御人になられたと誇らしく思うておる。」
感慨深くなっている職隆に秀吉は返す。
「いやいやわしの方こそ、ここまで来れたんは官兵衛のおかげじゃと思うておる。此度の毛利攻めも、そっからいち早く無事に姫路に戻れたんも彼奴の働き抜きでは考えられん。これから十兵衛を討つんも、彼奴の知恵と力が必要じゃ。頼みにしておるわぃ。」
眼が潤う職隆は感謝の意を述べたいが、言葉にならない。
「無事に官兵衛が戻ってきたら休ませてぇが・・・」
と秀吉が云い続けようとすると、職隆が遮った。
「あっ、あぁ、申し訳ござらん、筑前様。もう官兵衛は戻っておる。」
秀吉は眼を丸くし、職隆を見つめてしまう。
「実は、官兵衛はこの城に寄らんと、直に国府山におったわしの元に転がり込んできおってな。なんでも沼を出たところで彼奴の御輿が流されてしもうて、近くにあった村小屋の戸板を御輿代わりにして戻って来たらしい。」
秀吉は呆気となる。
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事情を呑み込んだ秀吉はくくくっと静かに笑い出す。
「そうか、無事に戻ったかぁ。よっしゃ、よっしゃぁ・・・。」
喜ぶ秀吉に職隆が頼む。
「筑前様。本来なら息子を叩き起こして、早うこちらへ向かわせたいところじゃが、今しばらく休ませても宜しかろうか。」
喜びに耽る秀吉は慌てる。
「おっ、おぅ、もちろんじゃ。ゆっくり休ませてやってくんろ。そんで、みつ殿にはもう伝えたんか。」
「こちらへ登る途中で会えましたので、そこで・・・。」
「そうか、そうか、ご安心なさったじゃろう。よかっ、よかっ。」
職隆が改めて頼む。
「筑前様。できれば御出立の日取をお教えいただけませんでしょうか。官兵衛にはできるだけ休ませとうございますし、御輿の件もございますので・・・。」
「日取はまだ決めておらん。すまんがあまりのんびりもしておれん。」
秀吉は考え込んだ末に応える。
「そうじゃのぉ、今日だけでだいぶ兵が戻って来ちょるようじゃったから、明後日の朝の出立と致すかのぉ。」
「わかり申した。官兵衛が起きたらそのように伝えておきましょう。」
職隆はゆっくりと立ち上がる。秀吉は職隆の手を取り、階段まで誘導する。
「気ぃ付けてのぉ。官兵衛には無理すんなと云うちょいてくれなぁ。」
と職隆を見送る際、秀吉はふと気づいてしまう。
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