生残の秀吉

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退陣

十八.興奮の毛利

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猿掛城さるかけじょうに到着した隆景たかかげ恵瓊えけいは早速御座所ござしょに入る。そこにはすでに毛利もうり重臣の吉川元春きっかわもとはる宍戸隆家ししどたかいえが並んで座している。隆景たかかげ恵瓊えけいいかつい二人の対面といめんに着くところで、元春もとはるが退屈そうに云う。

又四郎またしろう、遅かったのぉ。」

「申し訳ござらん。わしらがとうとする際に羽柴はしば勢がつつみを切りよったんで、ついぞ水が引くさま見惚みとれてしもうたわぃ。」

と返す隆景たかかげに対して、隆家たかいえあきれる。

「もうつつみを切りおったんか。秋に入るまではあのままにしておくと思っておったが・・・。そんなにはよう辺りを泥沼どろぬまにさせたかったんかぁ。」

「もしやすると、今年中に何らか収穫したいと思うてるのかも知れませんなぁ。」

恵瓊えけいが返すが、元春もとはる隆家たかいえの反応はややかである。約定やくじょうの件で恵瓊えけいが独断で進めたことをこの二人は気に食わない。隆景たかかげの手前、口にはしないが、直情型の二人からは自然と不満がかもされている。隆景たかかげがはぐらかす。

「ところで御館様おやかたさまは・・・。」

「先ほどまでここに居られたのじゃが、元清もときよに呼ばれて出ていきおったわ。すぐ戻るとは云うてたがのぉ。」

元春もとはるが言い終わるとほぼ同時に、輝元てるもと穂井田元清ほいだもときよ御座所ござしょに入ってくる。一同は立って礼をするが、輝元てるもと幾許いくばく機嫌きげんが悪い様子である。右手に書状らしきものをにぎつぶしながら、輝元てるもとは正面の床几しょうぎに座す。隆景たかかげは遅れて入る穂井田元清ほいだもときよが持つ紫色の風呂敷に嫌な予感を覚える。一同全員が改めて腰をかけると、輝元てるもとが開口する。

「皆、ご苦労であった。しばし休めと申したいところであるが、先ほど極めて大事な知らせがわしの元に届いた。」

そう云って、輝元てるもとは握りつぶしていた書状をそのまま元春もとはるに投げるように渡した。

「それは明智惟任日向守あけちこれとうひゅうがのかみと申すものが、雑賀さいかの忍びを通じてわしに宛てた書状じゃ。それにつづるは、その日向守ひゅうがのかみとやらがみやこ右大将殿うだいしょうどの左中将殿さちゅうじょうどのを討ち果たしたそうじゃ。」

一同は驚愕きょうがくする。輝元てるもとは続ける。

「さらに日向守ひゅうがのかみは、わしらと同盟を結び、筑前守ちくぜんのかみはさちせんと申し出ておる。」

慎重な隆家たかいえは疑問をていする。

「そ、それは誠のことであるか。にせの誘いでわしらが筑前ちくぜんを襲うことで、わしらを滅ぼす口実にしようとする右大将殿うだいしょうどのわなではござらぬかぁ。」

隆家たかいえの疑問に対して、冷静に元清もときよが応える。

「わしも御館様おやかたさまからこれを訊き、わなうたごうた。ところがもう一通、別の書状が届いた。」

と云って、手元の風呂敷ふろしきを開けると、漆塗うるしぬりの長箱が現れる。長箱には足利あしかが引両紋ひきりょうもんほどこされている。輝元てるもとはそれを開けることなく、面倒臭めんどうくさそうに云う。

とも公方様くぼうさまからじゃ。公方様くぼうさまも同じ知らせを訊き及んだらしく、わしらに東へ上るよう、催促さいそくしてきおった。」

さらに元清もときよが補足する。

「どうやら公方様くぼうさまの元には、ここのところ雑賀衆さいかしゅう以外にも数多あまた間者かんじゃが出入りしているらしい。あの方はこの手の話が好きでござるからな。じゃが、それだけにこの話は真実と考えてよかろう。」

全員がこの事実を受け入れるのにしばらくかかる。そして元清もときよ恵瓊えけいに尋ねる。

恵瓊殿えけいどの、この『明智惟任日向守あけちこれとうひゅうがのかみ』とはどのような者か、ご存知か。」

突然尋ねられた恵瓊えけいが慌てて応える。

「わっ、わたくしも長らくお目にかかってはおりませぬ。日向守殿ひゅうがのかみどの筑前守殿ちくぜんのかみどのと並んで右大将殿うだいしょうどのの片腕とも云うべき御人ごじんでございます。何でもかつて右大将殿うだいしょうどのみやこにお入りになる際に、公方様くぼうさま内裏だいりとの取り継ぎに大きく貢献されたそうで、それを契機に右大将殿うだいしょうどのに可愛がられるようになったとのこと。またいくさにおいても比叡山ひえいざん本願寺ほんがんじを相手に引けをとらず、近頃ではあの丹波たんばの平定を成し遂げた第一の功労者であります。」

元春もとはるが低い声でつぶやく。

「わしもじかには知らんが、訊いたことはある。その日向守ひゅうがのかみとやらの軍勢は極めて規律が良く、ねばづよいくさをするらしいのぉ。黒井くろいの城が落ちたのも、日向守ひゅうがのかみに地元の国人こくじんどもが根負こんまけしたという噂じゃ。」

恵瓊えけいが再び説明する。

「も一つ思い出しました。確か、こちらへの右大将殿うだいしょうどのの軍の先駆さきがけとして、その日向守殿ひゅうがのかみどのが行軍して筑前守殿ちくぜんのかみどのと合流すると訊いておりまする。それだけ右大将殿うだいしょうどのに信頼されておる御人ごじんだと思っておりましたが・・・。何があったかは存じませんが、思うにこれは日向守殿ひゅうがのかみどのの『謀反むほん』でありますな。」

すると元春もとはるが立ち上がる。

御館様おやかたさま、これは好機ですぞ。ここは公方様くぼうさまの命に従って陣を引き返し、うしだてうしのうた筑前ちくぜんを討ちましょうぞっ。」

この言葉に恵瓊えけいははっとする。

(こっ、これは筑前殿ちくぜんどのの予言か・・・。いやっ、筑前殿ちくぜんどのはこのことを伝えておったのか。)

隆家たかいえも立ち上がる。

「そうじゃぁ。右大将殿うだいしょうどの身罷みまかられたのなら、此度こたび約定やくじょうは無効じゃぁ。急ぎ引き返して宗治殿むねはるどのの無念を晴らしましょうぞぉ。」

恵瓊えけい輝元てるもとの方を見ると、輝元てるもと元春もとはるらの勢いに乗っかろうとしているのが見て取れる。続いて恵瓊えけいが左横をちらと見ると、隆景たかかげは腕を組んだまま、眼をつむって思案しているかのようである。しかし隆景たかかげ恵瓊えけいの視線に気付いたのか、眼を閉じたまま一つうなずく。それに気付いた恵瓊えけいには、なぜか『止めなければ・・・』という心理が働き、そしていよいよ心を固める。

「あいや、待たれよ。ここはわしらは動くべきではありませんぞぉ。」
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