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退陣
十五.傍観の恵瓊
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天正十年六月五日 午の刻
安国寺恵瓊は小雨の日差山から灰色の雲が映る高松の城一帯を眺める。
二刻ほど前、城を囲む池の上で清水宗治が切腹した。それとともに周りから小舟が城に向かって繰り出され、秀吉方の兵が次々と本丸・二の丸に入り込んだ。しばらくして何艘かの小舟が池の南側へ漕ぎ出されると同時に、小舟が着岸する辺りへ吉川元春の一小隊が移動した。船と吉川隊が合流してまもなく、毛利方の撤退の法螺貝が鳴り響いた。
籠城していた清水家臣たちが引き取られ、全ての一文字三星の旗差物が降ろされた後も、恵瓊は芝の上に座しながら、ただただその景色を傍観する。相変わらずの羽柴軍の旗指物の数に、恵瓊は
(筑前殿は宗治殿が腹を召したら退陣すると仰っておられたが、その様子は窺えんのぉ。あれは嘘だったんじゃろうか。)
と思うが、それより先のことを予見する気力を失っていた。そこへ、
「恵瓊殿、もう皆退きしましたぞぃ。残ってるのはわしらだけじゃ。」
と、恵瓊の後ろから一人の男が近づく。背丈が高く、漆黒の甲冑を身に纏い、精悍な顔付きをした男に気づいた恵瓊は
「おぉ、又四郎様。すまん、すまん。わしもええ加減に山降りんとな。」
と云って、立ちあがろうとする。又四郎こと小早川隆景は恵瓊の左に並び、彼もまた城一帯を眺める。
「此度は参りましたな。敵ながら見事じゃった。恵瓊殿にうまく立ち回っていただかなければ、わしらの損害は甚大だったでしょうな。」
恵瓊は黙ったままである。すると、ごごおぅっという大きな音が辺り一面に響き渡る。
「堤を切りおったか。これでこの辺りは水浸しじゃのぉ。戦が終わっても筑前の策が効いとるわ。」
と隆景が感心する一方、恵瓊もまた城の周りの水が引いていく様を感慨深く見つめる。
「さて、わしらも早う御館様の元へ向かうとするか。」
隆景と恵瓊は歩き出し、ぬかるんだ山道を降りる。いつもなら明るく笑みの絶えない恵瓊がずっと黙っているので、隆景は居心地の悪さを覚える。隆景も明るい性分なので、
「恵瓊殿、身体の具合でも悪いのか。」
と笑顔を作って訊くが、恵瓊は小さな声で
「いえ、左様なことは・・・。」
と応え、次の沈黙が始まる。ばつの悪い隆景は敢えて切り込む。
「御館様に無断で宗治殿を説得されたことを気にされとるのか。それならば心配せんでえぇ。ああやってわしらも手が出せん状況になってしもうては、城中の者を一人でも救うのが精一杯じゃ。御館様が其方を叱りつけるようじゃったら、わしが制してやる。」
隆景は主君である毛利輝元の叔父にあたり、輝元が若い頃から『名君』としての厳しい教育を施してきた。人前で隆景が輝元を容赦なく叱責することも多々あったが、祖父・元就が残した『財産』の大きさと若くして父・隆元を失ったことを考えると、周囲の者たちが輝元を下手に庇うことはなかった。
恵瓊は黙ったままであるが、引き続き隆景は励ます。
「寧ろ其方は宗治殿に名誉をあたえ、清水の御家来衆を毛利から離れんようにしたんじゃ。わしは其方の英断だと思うておる。」
隆景の的外れの心配に、ついに恵瓊は黙っていられなくなる。
「いえ、又四郎様、そうではございません・・・。」
恵瓊は隆景の眼を見ることができず、俯いたまま続ける。
「とても申し上げにくいことです。又四郎様、ここだけの話ということで訊いていただけますでしょうか。」
恵瓊にしては珍しい言葉である。隆景は滅多に訊けない恵瓊の悩み事に関心が湧く。
「案ずるな、恵瓊殿。誰にも云やせん。」
恵瓊は頭脳明晰な隆景に打ち明ければ、ひょっとすると明るい兆しが見えるかもとわずかな救いに期待する。
「今から申すことは御館様のお耳には入れておりません。いや、お伝えしていいものかどうなのか、判断しかねております。」
恵瓊が勿体ぶるほど、隆景の興味は大きくなる。
「実は、約定を結んだ後で筑前殿に奇妙な頼み事をされまして、・・・それがどういう意味なのか全く分からなくて、頭を抱えておるのでございます。」
隆景は眉を顰める。
「ほうっ、『奇妙な頼み事』とな・・・。」
安国寺恵瓊は小雨の日差山から灰色の雲が映る高松の城一帯を眺める。
二刻ほど前、城を囲む池の上で清水宗治が切腹した。それとともに周りから小舟が城に向かって繰り出され、秀吉方の兵が次々と本丸・二の丸に入り込んだ。しばらくして何艘かの小舟が池の南側へ漕ぎ出されると同時に、小舟が着岸する辺りへ吉川元春の一小隊が移動した。船と吉川隊が合流してまもなく、毛利方の撤退の法螺貝が鳴り響いた。
籠城していた清水家臣たちが引き取られ、全ての一文字三星の旗差物が降ろされた後も、恵瓊は芝の上に座しながら、ただただその景色を傍観する。相変わらずの羽柴軍の旗指物の数に、恵瓊は
(筑前殿は宗治殿が腹を召したら退陣すると仰っておられたが、その様子は窺えんのぉ。あれは嘘だったんじゃろうか。)
と思うが、それより先のことを予見する気力を失っていた。そこへ、
「恵瓊殿、もう皆退きしましたぞぃ。残ってるのはわしらだけじゃ。」
と、恵瓊の後ろから一人の男が近づく。背丈が高く、漆黒の甲冑を身に纏い、精悍な顔付きをした男に気づいた恵瓊は
「おぉ、又四郎様。すまん、すまん。わしもええ加減に山降りんとな。」
と云って、立ちあがろうとする。又四郎こと小早川隆景は恵瓊の左に並び、彼もまた城一帯を眺める。
「此度は参りましたな。敵ながら見事じゃった。恵瓊殿にうまく立ち回っていただかなければ、わしらの損害は甚大だったでしょうな。」
恵瓊は黙ったままである。すると、ごごおぅっという大きな音が辺り一面に響き渡る。
「堤を切りおったか。これでこの辺りは水浸しじゃのぉ。戦が終わっても筑前の策が効いとるわ。」
と隆景が感心する一方、恵瓊もまた城の周りの水が引いていく様を感慨深く見つめる。
「さて、わしらも早う御館様の元へ向かうとするか。」
隆景と恵瓊は歩き出し、ぬかるんだ山道を降りる。いつもなら明るく笑みの絶えない恵瓊がずっと黙っているので、隆景は居心地の悪さを覚える。隆景も明るい性分なので、
「恵瓊殿、身体の具合でも悪いのか。」
と笑顔を作って訊くが、恵瓊は小さな声で
「いえ、左様なことは・・・。」
と応え、次の沈黙が始まる。ばつの悪い隆景は敢えて切り込む。
「御館様に無断で宗治殿を説得されたことを気にされとるのか。それならば心配せんでえぇ。ああやってわしらも手が出せん状況になってしもうては、城中の者を一人でも救うのが精一杯じゃ。御館様が其方を叱りつけるようじゃったら、わしが制してやる。」
隆景は主君である毛利輝元の叔父にあたり、輝元が若い頃から『名君』としての厳しい教育を施してきた。人前で隆景が輝元を容赦なく叱責することも多々あったが、祖父・元就が残した『財産』の大きさと若くして父・隆元を失ったことを考えると、周囲の者たちが輝元を下手に庇うことはなかった。
恵瓊は黙ったままであるが、引き続き隆景は励ます。
「寧ろ其方は宗治殿に名誉をあたえ、清水の御家来衆を毛利から離れんようにしたんじゃ。わしは其方の英断だと思うておる。」
隆景の的外れの心配に、ついに恵瓊は黙っていられなくなる。
「いえ、又四郎様、そうではございません・・・。」
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「とても申し上げにくいことです。又四郎様、ここだけの話ということで訊いていただけますでしょうか。」
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「案ずるな、恵瓊殿。誰にも云やせん。」
恵瓊は頭脳明晰な隆景に打ち明ければ、ひょっとすると明るい兆しが見えるかもとわずかな救いに期待する。
「今から申すことは御館様のお耳には入れておりません。いや、お伝えしていいものかどうなのか、判断しかねております。」
恵瓊が勿体ぶるほど、隆景の興味は大きくなる。
「実は、約定を結んだ後で筑前殿に奇妙な頼み事をされまして、・・・それがどういう意味なのか全く分からなくて、頭を抱えておるのでございます。」
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