生残の秀吉

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退陣

十.早朝の老臣

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天正十年六月四日 卯の刻

今にも雨が降り出しそうな朝である。持宝院じほういん境内けいだいの北口から御座所ござしょへ向かう一人の老将がいる。彼はとりわけ背丈が大きいわけではないが、浅黒の筋骨隆々きんこつりゅうりゅうの姿で、見るからに『猛者もさ』という風格を持っている。名を宇喜多七郎兵衛忠家うきたしちろべえただいえという。宇喜多うきた家の先代・直家なおいえの異母弟で、昨年直家なおいえが病で亡くなってからは直家なおいえの幼い嫡男・秀家ひでいえの軍事的補佐を務めている。戦上手いくさじょうずと云われ、此度こたび秀吉ひでよしの中国攻めにおいても無類の活躍を見せている。忠家ただいえ高松城たかまつじょうの北側に布陣していたが、夜半に秀吉ひでよしの使いから早急の戦評定いくさひょうじょうの知らせを受け、あわてて秀吉ひでよし本陣に駆けつけた。

(こんな早くにわしに来いとはどういうことじゃ。)

宇喜多うきた家も、小寺こでら家同様、周囲の大国に振り回されながら奸計かんけいの策に明け暮れる一族であった。先代・直家なおいえは謀略の限りを尽くしてかつての主君筋であった浦上うらがみ一族を滅ぼし、何とか備前びぜん美作みまさかを支配するに至った。そんな背景を生き抜いてきたのだから、直家なおいえは家臣どころか親族も信用できないほどの人間不信の男であった。知略で兄に劣ると自負していた忠家ただいえ直家なおいえに敵意を抱いたことなど一切いっさいなかったが、不安がる国人衆こくじんしゅうをまとめ上げるのに奔走ほんそうしたことで、かえって直家なおいえ謀反むほんの疑いを抱かせたことも幾度とあった。

そんな直家なおいえが一変した。浦上うらがみ一族を滅ぼした頃、黒田官兵衛孝高くろだかんべえよしたかが声をかけてきた。

「もはや毛利もうりくみする理由などあるまい。織田おだにつかんか。一度、 筑前守殿ちくぜんのかみどのとお会いしてみればいい。おもしろいお方じゃ。三郎殿さぶろうどのも気に入るぞ。」

官兵衛かんべえから自分と同じにおいをぎつけたのか、直家なおいえは何となく官兵衛かんべえの誘いに乗ってもよしと思い、秀吉ひでよしと対面した。そしてその直後から直家なおいえの眼がぎらっと輝くようになった。

七郎しちろう、わしは筑前殿ちくぜんどのにつくぞ。あの方はおもしろい。あぁっ、もっと早く知っておれば・・・。」

毛利もうり』でなく、『織田おだ』でもなく、『筑前殿ちくぜんどの』を選んだ兄の真意を忠家ただいえは理解できなかった。しかし人間不信のきわみとも評される兄がこうも変わるかというくらい、生き生きと話をするようになったのをたりにし、忠家ただいえは何となくうれしかった。その後、宇喜多うきた秀吉ひでよしが共闘するようになると、忠家ただいえはなぜ兄が秀吉ひでよしれたのかがわかるような気がしてきた。

筑前殿ちくぜんどのいくさは、おのれだけのいくさではない。上から下まで皆の意思がいつになって戦いおる。わしには分からんが、孤独で悪行あくぎょうをし尽くした兄者あにじゃからしたら、仏に会うた心地ここちやったのかも知れん。)

だがそれはわずか六年で終わった。直家なおいえぎわ秀吉ひでよし秀家ひでいえてることと宇喜多うきた領の存続を直家なおいえに誓った。家臣の多くは秀吉ひでよし宇喜多うきたを乗っ取るのではと今もなお疑っているのだが、忠家ただいえはなぜか秀吉ひでよしを疑えば、天の兄が宇喜多うきた天罰てんばつくだすような気がしてならなかった。先ほど自陣をつ際には『ちゅうされるのでは・・・。』と警戒する家臣もいたが、忠家ただいえはそれを制し、不愉快ながらもここまでやってきた。

忠家ただいえ御座所ござしょまで辿たどいたところで、秀吉ひでよしつかわした者から、

「こちらでお待ちくだされ。まもなく殿が参ります。」

と云われ、まだ乾いていない陣幕の内側に入る。そこに一人の男が下手しもて床几しょうぎに座っている。年は自分と同じくらいか、ほっそりした体型の白髪はくはつ白髭しろひげの男である。

(さて、どちらの御家来衆ごけらいしゅうであろうか。)

忠家ただいえは男に一礼し、対面の床几しょうぎに座る。すると男の方が忠家ただいえに明るく声を掛ける。

「これは、これは、宇喜多殿うきたどの。朝はようからご苦労でございまする。」

忠家ただいえは声を聞いても相手が誰だか分からない。不機嫌気味な忠家ただいえ挨拶あいさつを避ける。

「軍議が開かれると訊いてきたのじゃが、二人だけとは、わしとぉ・・・。」

白髪はくはつの男は忠家ただいえの云わんとすることをを察する。

「申し遅れました。それがし杉原弥七郎家次すぎはらやしちろういえつぐと申し、筑前守殿ちくぜんのかみどの奥方おくがた伯父おじにあたる者でございまする。今後ともお見知り置きを・・・。」

忠家ただいえ家次いえつぐに妙なれしさを感じ取った。

筑前殿ちくぜんどのの縁戚かぁ。武勇にひいでた者ではなさそうじゃが、名はどこかで訊いたような・・・。)

もやとした気分を晴らすべく、忠家ただいえ家次いえつぐに問う。

左様さようでござりましたか。初めてお目にかかるような気がいたしますが、どこかでお会いいたしましたかな。」

家次いえつぐは応える。

「亡き直家なおいえ殿とお二人でわれらが陣を訪れいただいた際に、饗応役きょうおうやくを務めさせていただきました。そこでお見かけいたしましたので、ついぞ・・・。」

忠家ただいえは心中で家次いえつぐ小馬鹿こばかにする。

饗応役きょうおうやくか、そりゃぁ知らんわ。それに『われらが陣』というのは鼻につくのぉ。)

そんなことよりも、忠家ただいえは本陣に辿たどいた頃からの陣中の雰囲気が気になっている。

「ところでこの陣は何とのぉせわしないですなぁ。静かではあるが、御家来衆ごけらいしゅうがあちこちで動き回っておる。毛利もうりに何かあったのでしょうかのぉ。」

すると家次いえつぐが落ち着き払ったように云う。

「そうかも知れませぬな。しかもわれらには大事をおおけられるような気が致します。」

不思議な家次いえつぐの返しに、忠家ただいえ

何故なにゆえ、そう思われまする。」

と訊くと、家次いえつぐは応える。

「昔から筑前守殿ちくぜんのかみどのが大切な頼み事をされるときは、必ず『直談判じかだんぱん』ですからのぉ・・・。」
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