10 / 104
退陣
十.早朝の老臣
しおりを挟む
天正十年六月四日 卯の刻
今にも雨が降り出しそうな朝である。持宝院の境内の北口から御座所へ向かう一人の老将がいる。彼はとりわけ背丈が大きいわけではないが、浅黒の筋骨隆々の姿で、見るからに『猛者』という風格を持っている。名を宇喜多七郎兵衛忠家という。宇喜多家の先代・直家の異母弟で、昨年直家が病で亡くなってからは直家の幼い嫡男・秀家の軍事的補佐を務めている。戦上手と云われ、此度の秀吉の中国攻めにおいても無類の活躍を見せている。忠家は高松城の北側に布陣していたが、夜半に秀吉の使いから早急の戦評定の知らせを受け、慌てて秀吉本陣に駆けつけた。
(こんな早くにわしに来いとはどういうことじゃ。)
宇喜多家も、小寺家同様、周囲の大国に振り回されながら奸計の策に明け暮れる一族であった。先代・直家は謀略の限りを尽くしてかつての主君筋であった浦上一族を滅ぼし、何とか備前・美作を支配するに至った。そんな背景を生き抜いてきたのだから、直家は家臣どころか親族も信用できないほどの人間不信の男であった。知略で兄に劣ると自負していた忠家が直家に敵意を抱いたことなど一切なかったが、不安がる国人衆をまとめ上げるのに奔走したことで、却って直家に謀反の疑いを抱かせたことも幾度とあった。
そんな直家が一変した。浦上一族を滅ぼした頃、黒田官兵衛孝高が声をかけてきた。
「もはや毛利と与する理由などあるまい。織田につかんか。一度、 筑前守殿とお会いしてみればいい。おもしろいお方じゃ。三郎殿も気に入るぞ。」
官兵衛から自分と同じ匂いを嗅ぎつけたのか、直家は何となく官兵衛の誘いに乗ってもよしと思い、秀吉と対面した。そしてその直後から直家の眼がぎらっと輝くようになった。
「七郎、わしは筑前殿につくぞ。あの方はおもしろい。あぁっ、もっと早く知っておれば・・・。」
『毛利』でなく、『織田』でもなく、『筑前殿』を選んだ兄の真意を忠家は理解できなかった。しかし人間不信の極とも評される兄がこうも変わるかというくらい、生き生きと話をするようになったのを目の当たりにし、忠家は何となく嬉しかった。その後、宇喜多と秀吉が共闘するようになると、忠家はなぜ兄が秀吉に惚れたのかがわかるような気がしてきた。
(筑前殿の戦は、己だけの戦ではない。上から下まで皆の意思が一になって戦いおる。わしには分からんが、孤独で悪行をし尽くした兄者からしたら、仏に会うた心地やったのかも知れん。)
だがそれはわずか六年で終わった。直家の死に際、秀吉は秀家を守り立てることと宇喜多領の存続を直家に誓った。家臣の多くは秀吉が宇喜多を乗っ取るのではと今もなお疑っているのだが、忠家はなぜか秀吉を疑えば、天の兄が宇喜多に天罰を降すような気がしてならなかった。先ほど自陣を経つ際には『誅されるのでは・・・。』と警戒する家臣もいたが、忠家はそれを制し、不愉快ながらもここまでやってきた。
忠家が御座所まで辿り着いたところで、秀吉が遣わした者から、
「こちらでお待ちくだされ。まもなく殿が参ります。」
と云われ、まだ乾いていない陣幕の内側に入る。そこに一人の男が下手の床几に座っている。年は自分と同じくらいか、ほっそりした体型の白髪・白髭の男である。
(さて、どちらの御家来衆であろうか。)
忠家は男に一礼し、対面の床几に座る。すると男の方が忠家に明るく声を掛ける。
「これは、これは、宇喜多殿。朝早うからご苦労でございまする。」
忠家は声を聞いても相手が誰だか分からない。不機嫌気味な忠家は挨拶を避ける。
「軍議が開かれると訊いてきたのじゃが、二人だけとは、わしとぉ・・・。」
白髪の男は忠家の云わんとすることをを察する。
「申し遅れました。某、杉原弥七郎家次と申し、筑前守殿の奥方の伯父にあたる者でございまする。今後ともお見知り置きを・・・。」
忠家は家次に妙な馴れ馴れしさを感じ取った。
(筑前殿の縁戚かぁ。武勇に秀でた者ではなさそうじゃが、名はどこかで訊いたような・・・。)
もやとした気分を晴らすべく、忠家は家次に問う。
「左様でござりましたか。初めてお目にかかるような気がいたしますが、どこかでお会いいたしましたかな。」
家次は応える。
「亡き直家殿とお二人でわれらが陣を訪れいただいた際に、饗応役を務めさせていただきました。そこでお見かけいたしましたので、ついぞ・・・。」
忠家は心中で家次を小馬鹿にする。
(饗応役か、そりゃぁ知らんわ。それに『われらが陣』というのは鼻につくのぉ。)
そんなことよりも、忠家は本陣に辿り着いた頃からの陣中の雰囲気が気になっている。
「ところでこの陣は何とのぉ忙しないですなぁ。静かではあるが、御家来衆があちこちで動き回っておる。毛利に何かあったのでしょうかのぉ。」
すると家次が落ち着き払ったように云う。
「そうかも知れませぬな。しかもわれらには大事を仰せ付けられるような気が致します。」
不思議な家次の返しに、忠家が
「何故、そう思われまする。」
と訊くと、家次は応える。
「昔から筑前守殿が大切な頼み事をされるときは、必ず『直談判』ですからのぉ・・・。」
今にも雨が降り出しそうな朝である。持宝院の境内の北口から御座所へ向かう一人の老将がいる。彼はとりわけ背丈が大きいわけではないが、浅黒の筋骨隆々の姿で、見るからに『猛者』という風格を持っている。名を宇喜多七郎兵衛忠家という。宇喜多家の先代・直家の異母弟で、昨年直家が病で亡くなってからは直家の幼い嫡男・秀家の軍事的補佐を務めている。戦上手と云われ、此度の秀吉の中国攻めにおいても無類の活躍を見せている。忠家は高松城の北側に布陣していたが、夜半に秀吉の使いから早急の戦評定の知らせを受け、慌てて秀吉本陣に駆けつけた。
(こんな早くにわしに来いとはどういうことじゃ。)
宇喜多家も、小寺家同様、周囲の大国に振り回されながら奸計の策に明け暮れる一族であった。先代・直家は謀略の限りを尽くしてかつての主君筋であった浦上一族を滅ぼし、何とか備前・美作を支配するに至った。そんな背景を生き抜いてきたのだから、直家は家臣どころか親族も信用できないほどの人間不信の男であった。知略で兄に劣ると自負していた忠家が直家に敵意を抱いたことなど一切なかったが、不安がる国人衆をまとめ上げるのに奔走したことで、却って直家に謀反の疑いを抱かせたことも幾度とあった。
そんな直家が一変した。浦上一族を滅ぼした頃、黒田官兵衛孝高が声をかけてきた。
「もはや毛利と与する理由などあるまい。織田につかんか。一度、 筑前守殿とお会いしてみればいい。おもしろいお方じゃ。三郎殿も気に入るぞ。」
官兵衛から自分と同じ匂いを嗅ぎつけたのか、直家は何となく官兵衛の誘いに乗ってもよしと思い、秀吉と対面した。そしてその直後から直家の眼がぎらっと輝くようになった。
「七郎、わしは筑前殿につくぞ。あの方はおもしろい。あぁっ、もっと早く知っておれば・・・。」
『毛利』でなく、『織田』でもなく、『筑前殿』を選んだ兄の真意を忠家は理解できなかった。しかし人間不信の極とも評される兄がこうも変わるかというくらい、生き生きと話をするようになったのを目の当たりにし、忠家は何となく嬉しかった。その後、宇喜多と秀吉が共闘するようになると、忠家はなぜ兄が秀吉に惚れたのかがわかるような気がしてきた。
(筑前殿の戦は、己だけの戦ではない。上から下まで皆の意思が一になって戦いおる。わしには分からんが、孤独で悪行をし尽くした兄者からしたら、仏に会うた心地やったのかも知れん。)
だがそれはわずか六年で終わった。直家の死に際、秀吉は秀家を守り立てることと宇喜多領の存続を直家に誓った。家臣の多くは秀吉が宇喜多を乗っ取るのではと今もなお疑っているのだが、忠家はなぜか秀吉を疑えば、天の兄が宇喜多に天罰を降すような気がしてならなかった。先ほど自陣を経つ際には『誅されるのでは・・・。』と警戒する家臣もいたが、忠家はそれを制し、不愉快ながらもここまでやってきた。
忠家が御座所まで辿り着いたところで、秀吉が遣わした者から、
「こちらでお待ちくだされ。まもなく殿が参ります。」
と云われ、まだ乾いていない陣幕の内側に入る。そこに一人の男が下手の床几に座っている。年は自分と同じくらいか、ほっそりした体型の白髪・白髭の男である。
(さて、どちらの御家来衆であろうか。)
忠家は男に一礼し、対面の床几に座る。すると男の方が忠家に明るく声を掛ける。
「これは、これは、宇喜多殿。朝早うからご苦労でございまする。」
忠家は声を聞いても相手が誰だか分からない。不機嫌気味な忠家は挨拶を避ける。
「軍議が開かれると訊いてきたのじゃが、二人だけとは、わしとぉ・・・。」
白髪の男は忠家の云わんとすることをを察する。
「申し遅れました。某、杉原弥七郎家次と申し、筑前守殿の奥方の伯父にあたる者でございまする。今後ともお見知り置きを・・・。」
忠家は家次に妙な馴れ馴れしさを感じ取った。
(筑前殿の縁戚かぁ。武勇に秀でた者ではなさそうじゃが、名はどこかで訊いたような・・・。)
もやとした気分を晴らすべく、忠家は家次に問う。
「左様でござりましたか。初めてお目にかかるような気がいたしますが、どこかでお会いいたしましたかな。」
家次は応える。
「亡き直家殿とお二人でわれらが陣を訪れいただいた際に、饗応役を務めさせていただきました。そこでお見かけいたしましたので、ついぞ・・・。」
忠家は心中で家次を小馬鹿にする。
(饗応役か、そりゃぁ知らんわ。それに『われらが陣』というのは鼻につくのぉ。)
そんなことよりも、忠家は本陣に辿り着いた頃からの陣中の雰囲気が気になっている。
「ところでこの陣は何とのぉ忙しないですなぁ。静かではあるが、御家来衆があちこちで動き回っておる。毛利に何かあったのでしょうかのぉ。」
すると家次が落ち着き払ったように云う。
「そうかも知れませぬな。しかもわれらには大事を仰せ付けられるような気が致します。」
不思議な家次の返しに、忠家が
「何故、そう思われまする。」
と訊くと、家次は応える。
「昔から筑前守殿が大切な頼み事をされるときは、必ず『直談判』ですからのぉ・・・。」
1
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

【おんJ】 彡(゚)(゚)ファッ!?ワイが天下分け目の関ヶ原の戦いに!?
俊也
SF
これまた、かつて私がおーぷん2ちゃんねるに載せ、ご好評頂きました戦国架空戦記SSです。
この他、
「新訳 零戦戦記」
「総統戦記」もよろしくお願いします。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる