10 / 108
退陣
十.早朝の老臣
しおりを挟む
天正十年六月四日 卯の刻
今にも雨が降り出しそうな朝である。持宝院の境内の北口から御座所へ向かう一人の老将がいる。彼はとりわけ背丈が大きいわけではないが、浅黒の筋骨隆々の姿で、見るからに『猛者』という風格を持っている。名を宇喜多七郎兵衛忠家という。宇喜多家の先代・直家の異母弟で、昨年直家が病で亡くなってからは直家の幼い嫡男・秀家の軍事的補佐を務めている。戦上手と云われ、此度の秀吉の中国攻めにおいても無類の活躍を見せている。忠家は高松城の北側に布陣していたが、夜半に秀吉の使いから早急の戦評定の知らせを受け、慌てて秀吉本陣に駆けつけた。
(こんな早くにわしに来いとはどういうことじゃ。)
宇喜多家も、小寺家同様、周囲の大国に振り回されながら奸計の策に明け暮れる一族であった。先代・直家は謀略の限りを尽くしてかつての主君筋であった浦上一族を滅ぼし、何とか備前・美作を支配するに至った。そんな背景を生き抜いてきたのだから、直家は家臣どころか親族も信用できないほどの人間不信の男であった。知略で兄に劣ると自負していた忠家が直家に敵意を抱いたことなど一切なかったが、不安がる国人衆をまとめ上げるのに奔走したことで、却って直家に謀反の疑いを抱かせたことも幾度とあった。
そんな直家が一変した。浦上一族を滅ぼした頃、黒田官兵衛孝高が声をかけてきた。
「もはや毛利と与する理由などあるまい。織田につかんか。一度、 筑前守殿とお会いしてみればいい。おもしろいお方じゃ。三郎殿も気に入るぞ。」
官兵衛から自分と同じ匂いを嗅ぎつけたのか、直家は何となく官兵衛の誘いに乗ってもよしと思い、秀吉と対面した。そしてその直後から直家の眼がぎらっと輝くようになった。
「七郎、わしは筑前殿につくぞ。あの方はおもしろい。あぁっ、もっと早く知っておれば・・・。」
『毛利』でなく、『織田』でもなく、『筑前殿』を選んだ兄の真意を忠家は理解できなかった。しかし人間不信の極とも評される兄がこうも変わるかというくらい、生き生きと話をするようになったのを目の当たりにし、忠家は何となく嬉しかった。その後、宇喜多と秀吉が共闘するようになると、忠家はなぜ兄が秀吉に惚れたのかがわかるような気がしてきた。
(筑前殿の戦は、己だけの戦ではない。上から下まで皆の意思が一になって戦いおる。わしには分からんが、孤独で悪行をし尽くした兄者からしたら、仏に会うた心地やったのかも知れん。)
だがそれはわずか六年で終わった。直家の死に際、秀吉は秀家を守り立てることと宇喜多領の存続を直家に誓った。家臣の多くは秀吉が宇喜多を乗っ取るのではと今もなお疑っているのだが、忠家はなぜか秀吉を疑えば、天の兄が宇喜多に天罰を降すような気がしてならなかった。先ほど自陣を経つ際には『誅されるのでは・・・。』と警戒する家臣もいたが、忠家はそれを制し、不愉快ながらもここまでやってきた。
忠家が御座所まで辿り着いたところで、秀吉が遣わした者から、
「こちらでお待ちくだされ。まもなく殿が参ります。」
と云われ、まだ乾いていない陣幕の内側に入る。そこに一人の男が下手の床几に座っている。年は自分と同じくらいか、ほっそりした体型の白髪・白髭の男である。
(さて、どちらの御家来衆であろうか。)
忠家は男に一礼し、対面の床几に座る。すると男の方が忠家に明るく声を掛ける。
「これは、これは、宇喜多殿。朝早うからご苦労でございまする。」
忠家は声を聞いても相手が誰だか分からない。不機嫌気味な忠家は挨拶を避ける。
「軍議が開かれると訊いてきたのじゃが、二人だけとは、わしとぉ・・・。」
白髪の男は忠家の云わんとすることをを察する。
「申し遅れました。某、杉原弥七郎家次と申し、筑前守殿の奥方の伯父にあたる者でございまする。今後ともお見知り置きを・・・。」
忠家は家次に妙な馴れ馴れしさを感じ取った。
(筑前殿の縁戚かぁ。武勇に秀でた者ではなさそうじゃが、名はどこかで訊いたような・・・。)
もやとした気分を晴らすべく、忠家は家次に問う。
「左様でござりましたか。初めてお目にかかるような気がいたしますが、どこかでお会いいたしましたかな。」
家次は応える。
「亡き直家殿とお二人でわれらが陣を訪れいただいた際に、饗応役を務めさせていただきました。そこでお見かけいたしましたので、ついぞ・・・。」
忠家は心中で家次を小馬鹿にする。
(饗応役か、そりゃぁ知らんわ。それに『われらが陣』というのは鼻につくのぉ。)
そんなことよりも、忠家は本陣に辿り着いた頃からの陣中の雰囲気が気になっている。
「ところでこの陣は何とのぉ忙しないですなぁ。静かではあるが、御家来衆があちこちで動き回っておる。毛利に何かあったのでしょうかのぉ。」
すると家次が落ち着き払ったように云う。
「そうかも知れませぬな。しかもわれらには大事を仰せ付けられるような気が致します。」
不思議な家次の返しに、忠家が
「何故、そう思われまする。」
と訊くと、家次は応える。
「昔から筑前守殿が大切な頼み事をされるときは、必ず『直談判』ですからのぉ・・・。」
今にも雨が降り出しそうな朝である。持宝院の境内の北口から御座所へ向かう一人の老将がいる。彼はとりわけ背丈が大きいわけではないが、浅黒の筋骨隆々の姿で、見るからに『猛者』という風格を持っている。名を宇喜多七郎兵衛忠家という。宇喜多家の先代・直家の異母弟で、昨年直家が病で亡くなってからは直家の幼い嫡男・秀家の軍事的補佐を務めている。戦上手と云われ、此度の秀吉の中国攻めにおいても無類の活躍を見せている。忠家は高松城の北側に布陣していたが、夜半に秀吉の使いから早急の戦評定の知らせを受け、慌てて秀吉本陣に駆けつけた。
(こんな早くにわしに来いとはどういうことじゃ。)
宇喜多家も、小寺家同様、周囲の大国に振り回されながら奸計の策に明け暮れる一族であった。先代・直家は謀略の限りを尽くしてかつての主君筋であった浦上一族を滅ぼし、何とか備前・美作を支配するに至った。そんな背景を生き抜いてきたのだから、直家は家臣どころか親族も信用できないほどの人間不信の男であった。知略で兄に劣ると自負していた忠家が直家に敵意を抱いたことなど一切なかったが、不安がる国人衆をまとめ上げるのに奔走したことで、却って直家に謀反の疑いを抱かせたことも幾度とあった。
そんな直家が一変した。浦上一族を滅ぼした頃、黒田官兵衛孝高が声をかけてきた。
「もはや毛利と与する理由などあるまい。織田につかんか。一度、 筑前守殿とお会いしてみればいい。おもしろいお方じゃ。三郎殿も気に入るぞ。」
官兵衛から自分と同じ匂いを嗅ぎつけたのか、直家は何となく官兵衛の誘いに乗ってもよしと思い、秀吉と対面した。そしてその直後から直家の眼がぎらっと輝くようになった。
「七郎、わしは筑前殿につくぞ。あの方はおもしろい。あぁっ、もっと早く知っておれば・・・。」
『毛利』でなく、『織田』でもなく、『筑前殿』を選んだ兄の真意を忠家は理解できなかった。しかし人間不信の極とも評される兄がこうも変わるかというくらい、生き生きと話をするようになったのを目の当たりにし、忠家は何となく嬉しかった。その後、宇喜多と秀吉が共闘するようになると、忠家はなぜ兄が秀吉に惚れたのかがわかるような気がしてきた。
(筑前殿の戦は、己だけの戦ではない。上から下まで皆の意思が一になって戦いおる。わしには分からんが、孤独で悪行をし尽くした兄者からしたら、仏に会うた心地やったのかも知れん。)
だがそれはわずか六年で終わった。直家の死に際、秀吉は秀家を守り立てることと宇喜多領の存続を直家に誓った。家臣の多くは秀吉が宇喜多を乗っ取るのではと今もなお疑っているのだが、忠家はなぜか秀吉を疑えば、天の兄が宇喜多に天罰を降すような気がしてならなかった。先ほど自陣を経つ際には『誅されるのでは・・・。』と警戒する家臣もいたが、忠家はそれを制し、不愉快ながらもここまでやってきた。
忠家が御座所まで辿り着いたところで、秀吉が遣わした者から、
「こちらでお待ちくだされ。まもなく殿が参ります。」
と云われ、まだ乾いていない陣幕の内側に入る。そこに一人の男が下手の床几に座っている。年は自分と同じくらいか、ほっそりした体型の白髪・白髭の男である。
(さて、どちらの御家来衆であろうか。)
忠家は男に一礼し、対面の床几に座る。すると男の方が忠家に明るく声を掛ける。
「これは、これは、宇喜多殿。朝早うからご苦労でございまする。」
忠家は声を聞いても相手が誰だか分からない。不機嫌気味な忠家は挨拶を避ける。
「軍議が開かれると訊いてきたのじゃが、二人だけとは、わしとぉ・・・。」
白髪の男は忠家の云わんとすることをを察する。
「申し遅れました。某、杉原弥七郎家次と申し、筑前守殿の奥方の伯父にあたる者でございまする。今後ともお見知り置きを・・・。」
忠家は家次に妙な馴れ馴れしさを感じ取った。
(筑前殿の縁戚かぁ。武勇に秀でた者ではなさそうじゃが、名はどこかで訊いたような・・・。)
もやとした気分を晴らすべく、忠家は家次に問う。
「左様でござりましたか。初めてお目にかかるような気がいたしますが、どこかでお会いいたしましたかな。」
家次は応える。
「亡き直家殿とお二人でわれらが陣を訪れいただいた際に、饗応役を務めさせていただきました。そこでお見かけいたしましたので、ついぞ・・・。」
忠家は心中で家次を小馬鹿にする。
(饗応役か、そりゃぁ知らんわ。それに『われらが陣』というのは鼻につくのぉ。)
そんなことよりも、忠家は本陣に辿り着いた頃からの陣中の雰囲気が気になっている。
「ところでこの陣は何とのぉ忙しないですなぁ。静かではあるが、御家来衆があちこちで動き回っておる。毛利に何かあったのでしょうかのぉ。」
すると家次が落ち着き払ったように云う。
「そうかも知れませぬな。しかもわれらには大事を仰せ付けられるような気が致します。」
不思議な家次の返しに、忠家が
「何故、そう思われまする。」
と訊くと、家次は応える。
「昔から筑前守殿が大切な頼み事をされるときは、必ず『直談判』ですからのぉ・・・。」
1
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
天狗の囁き
井上 滋瑛
歴史・時代
幼少の頃より自分にしか聞こえない天狗の声が聞こえた吉川広家。姿見えぬ声に対して、時に従い、時に相談し、時に言い争い、天狗評議と揶揄されながら、偉大な武将であった父吉川元春や叔父の小早川隆景、兄元長の背を追ってきた。時は経ち、慶長五年九月の関ヶ原。主家の当主毛利輝元は甘言に乗り、西軍総大将に担がれてしまう。東軍との勝敗に関わらず、危急存亡の秋を察知した広家は、友である黒田長政を介して東軍総大将徳川家康に内通する。天狗の声に耳を傾けながら、主家の存亡をかけ、不義内通の誹りを恐れず、主家の命運を一身に背負う。

マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる