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退陣
五.絶望の兄弟
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いつの間にか、小一郎は泣き止んでいた。この期に及んで最も大事なことは、兄が主君の死を受け入れることだ。しかし刻をかけるわけにはいかない。小一郎は涙を拭い、官兵衛に云う。
「すまん、官兵衛殿。兄さぁに代わって、姫路へ退く支度を始めてくれんじゃろうか。」
小一郎のなりふり構わぬ懇願に、官兵衛は
(憎めんのぉ・・・。)
と思いつつも、待ってましたとばかりに応える。
「承知した。小六殿や茂助殿にはわしから暗に伝えよう。忠家殿には面と向かって云うのがよかろうから、手筈しよう。」
官兵衛がごんと杖を立てたところで、小一郎は云う。
「申し訳ねぇ。今からわしが兄さぁを落ち着かせるんで、しばらく二人にしてくれや。落ち着かせたらすぐにわしは陣に戻って、街道を整え直す。そんしたら兄さぁをよろしく頼むわ。」
官兵衛はじろと小一郎を睨んで相槌を一つした後、杖を器用に使ってゆさゆさと立ち上がる。右足を引き摺りながら本堂の戸を左手で開けたところで、官兵衛は秀吉の方をちらと見る。
(小一郎殿は優しいのぉ。筑前殿もここは踏ん張らんとなぁ・・・。)
官兵衛は自分だけがえらく老けた感覚を覚えたので、それを振り払って本堂から出ていく。
秀吉は泣き止んではいたが、度々鼻を啜る音が堂内に響く。小一郎は慰める。
「兄さぁ、二人きりじゃ。もうしばらく泣いててええぞ。」
ここでようやく秀吉が沈黙を破る。
「こ、小一郎っ・・・。わ、わしら、帰るところ、無くなっちまったなぁ。」
秀吉が云った言葉の意味は小一郎には痛いほど分かる。分かるが、敢えて優しく否定する。
「何さ云っちょる。長浜にゃあ、お母ぁも姉さぁもおるでねぇか。」
「あ、あぁ。じゃが大殿も殿も居らなんだら、わしらが頼れるもんは誰一人としておらねぇわ。わ、わしらなんて大殿と殿でなけりゃぁ皆に爪弾きもんじゃぁ。そ、そのうち長浜の城からも追い出されるんじゃろう。」
秀吉の返しは的を得ている。『下克上』などという言葉が流行っているが、出自は低くても有能な人材を重用する武将など実際には信長以外にいない。嫡子・信忠も父の帝王学を叩き込まれていたのか、血縁を軽視する傾向があった。従って、この二人について行くことが兄弟が生き残れる唯一の道だった。しかし、・・・絶望である・・・。
少し間を空けて小一郎が口を開く。
「そうじゃなぁ。そうなったら皆で中村さ戻って、また百姓やり直そうやぁ。」
意外な小一郎の一言に、前屈みだった秀吉はゆっくりだが顔を上げる。
「ひゃっ、百姓かぁ・・・。そっ、それもありかもな。でっ、でもおねがなんち云うかなぁ。」
低い声の秀吉の恍けぶりに思わず小一郎が小さく笑う。
「姉さぁなら心配ねぇさぁ。ここまでようやったっちゅうて褒めてくれんさ。」
秀吉の心が少しずつ晴れていく。
「そ、そうじゃのぉ。なにも城持ちに拘らんでもよかよなぁ。そうじゃな、そうじゃな・・・。」
この切り返しの早さも兄らしい。彼の笑顔が見えると、小一郎も嬉しい。秀吉は
「そうじゃ、そうじゃ・・・。」
と呟きながら姿勢を戻し、頭の中を整理し始める。しかし、しばらくして小一郎の眼が急に厳しくなり、きりと秀吉を睨む。
「じゃけど兄さぁ。日向守だけは討っとかなあかん。」
再び唐突な小一郎に秀吉は眼を丸くする。
「わしらが日向守に怨まれる理由なんぞ一つもねぇが、毛利と組んでまでわしらを討とうとするんは、おそらく目的は於次丸様の命、挙句は織田家断絶を企んどるんじゃろう。」
秀吉は小一郎の一言一句を噛み砕きながら納得する。
「なっ、なるほど、秀勝殿かぁ。じゃからわしらも標的かぁ。」
羽柴秀勝、幼名於次丸の実父は信長であるが、子のない秀吉夫婦が信長から貰いうけた『養子』であり、羽柴家の家督を嗣ぐことが約束されている。今回の中国遠征では秀吉に同行し、初陣も飾っている。そして小一郎は続ける。
「日向守からすりゃぁ、わしらも『織田家』なんじゃろう。じゃから日向守を討っとかんと、結局どこへ行こうとわしらは追討の的じゃあ。兄さぁが於次丸様との縁を切って、於次丸様を日向守に差し出すんなら話は別じゃがな。」
秀吉の眼が怒りで咄嗟に充血し、小一郎をぎらと睨む。
「小一郎っ・・・。おめぇ、官兵衛に似てきたなぁ。」
小一郎は不敵な笑みを浮かべる。秀吉には濁った太い声が戻る。そして兄弟は見つめ合いながら、無言の確認を取り合う。やがて秀吉が立ち上がる。
「よしっ、小一郎。やることは決まった。とにかく十兵衛を討つ。百姓の件はその後じゃあ。」
「すまん、官兵衛殿。兄さぁに代わって、姫路へ退く支度を始めてくれんじゃろうか。」
小一郎のなりふり構わぬ懇願に、官兵衛は
(憎めんのぉ・・・。)
と思いつつも、待ってましたとばかりに応える。
「承知した。小六殿や茂助殿にはわしから暗に伝えよう。忠家殿には面と向かって云うのがよかろうから、手筈しよう。」
官兵衛がごんと杖を立てたところで、小一郎は云う。
「申し訳ねぇ。今からわしが兄さぁを落ち着かせるんで、しばらく二人にしてくれや。落ち着かせたらすぐにわしは陣に戻って、街道を整え直す。そんしたら兄さぁをよろしく頼むわ。」
官兵衛はじろと小一郎を睨んで相槌を一つした後、杖を器用に使ってゆさゆさと立ち上がる。右足を引き摺りながら本堂の戸を左手で開けたところで、官兵衛は秀吉の方をちらと見る。
(小一郎殿は優しいのぉ。筑前殿もここは踏ん張らんとなぁ・・・。)
官兵衛は自分だけがえらく老けた感覚を覚えたので、それを振り払って本堂から出ていく。
秀吉は泣き止んではいたが、度々鼻を啜る音が堂内に響く。小一郎は慰める。
「兄さぁ、二人きりじゃ。もうしばらく泣いててええぞ。」
ここでようやく秀吉が沈黙を破る。
「こ、小一郎っ・・・。わ、わしら、帰るところ、無くなっちまったなぁ。」
秀吉が云った言葉の意味は小一郎には痛いほど分かる。分かるが、敢えて優しく否定する。
「何さ云っちょる。長浜にゃあ、お母ぁも姉さぁもおるでねぇか。」
「あ、あぁ。じゃが大殿も殿も居らなんだら、わしらが頼れるもんは誰一人としておらねぇわ。わ、わしらなんて大殿と殿でなけりゃぁ皆に爪弾きもんじゃぁ。そ、そのうち長浜の城からも追い出されるんじゃろう。」
秀吉の返しは的を得ている。『下克上』などという言葉が流行っているが、出自は低くても有能な人材を重用する武将など実際には信長以外にいない。嫡子・信忠も父の帝王学を叩き込まれていたのか、血縁を軽視する傾向があった。従って、この二人について行くことが兄弟が生き残れる唯一の道だった。しかし、・・・絶望である・・・。
少し間を空けて小一郎が口を開く。
「そうじゃなぁ。そうなったら皆で中村さ戻って、また百姓やり直そうやぁ。」
意外な小一郎の一言に、前屈みだった秀吉はゆっくりだが顔を上げる。
「ひゃっ、百姓かぁ・・・。そっ、それもありかもな。でっ、でもおねがなんち云うかなぁ。」
低い声の秀吉の恍けぶりに思わず小一郎が小さく笑う。
「姉さぁなら心配ねぇさぁ。ここまでようやったっちゅうて褒めてくれんさ。」
秀吉の心が少しずつ晴れていく。
「そ、そうじゃのぉ。なにも城持ちに拘らんでもよかよなぁ。そうじゃな、そうじゃな・・・。」
この切り返しの早さも兄らしい。彼の笑顔が見えると、小一郎も嬉しい。秀吉は
「そうじゃ、そうじゃ・・・。」
と呟きながら姿勢を戻し、頭の中を整理し始める。しかし、しばらくして小一郎の眼が急に厳しくなり、きりと秀吉を睨む。
「じゃけど兄さぁ。日向守だけは討っとかなあかん。」
再び唐突な小一郎に秀吉は眼を丸くする。
「わしらが日向守に怨まれる理由なんぞ一つもねぇが、毛利と組んでまでわしらを討とうとするんは、おそらく目的は於次丸様の命、挙句は織田家断絶を企んどるんじゃろう。」
秀吉は小一郎の一言一句を噛み砕きながら納得する。
「なっ、なるほど、秀勝殿かぁ。じゃからわしらも標的かぁ。」
羽柴秀勝、幼名於次丸の実父は信長であるが、子のない秀吉夫婦が信長から貰いうけた『養子』であり、羽柴家の家督を嗣ぐことが約束されている。今回の中国遠征では秀吉に同行し、初陣も飾っている。そして小一郎は続ける。
「日向守からすりゃぁ、わしらも『織田家』なんじゃろう。じゃから日向守を討っとかんと、結局どこへ行こうとわしらは追討の的じゃあ。兄さぁが於次丸様との縁を切って、於次丸様を日向守に差し出すんなら話は別じゃがな。」
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小一郎は不敵な笑みを浮かべる。秀吉には濁った太い声が戻る。そして兄弟は見つめ合いながら、無言の確認を取り合う。やがて秀吉が立ち上がる。
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