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退陣
三.慟哭の秀吉
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秀吉と官兵衛の怒鳴り合いが痛い。兄がこうも血相を上げる理由がよく分かるだけに、小一郎の心は締め付けられる。手元の文には信長が死んだとは書かれていない。だが天然要害など一つもないだだっ広い京の真ん中で、明智十兵衛光秀ともあろうものが信長を取り逃すような陣を張ることは万に一つもない。京も光秀もよく知らない官兵衛の方はともかく、兄なら分かっているはずだ。分かっているのに分かりたくない。分かっているのに奇跡を信じたい。延々と自分を誤魔化し続ける兄のから騒ぎに、小一郎の悲嘆は計りしれない。
(こんままじゃ、駄目じゃぁ・・・。)
心を固めた小一郎は深く息を呑み込み、頭を垂れたまま一喝する。
「兄さぁっ、官兵衛っ、やめんかぁ。」
一瞬に二人を黙らせた小一郎はきぃっと秀吉に眼を向け、必死に自分に勢いをつけようとする。
「兄さぁ。云いにくいんじゃが、大殿はもう亡くなられちょる・・・」
先ほどまでの騒がしさが一転し、三人の間に妙に長い静けさが張り詰める。云ってはいけないことを云ってしまったときの後ろめたさが小一郎の頭を、背を、腑をぐぐぅっと押さえつける。そしてその眼には徐々に涙が溜まり始める。片やこれでもかと眼孔を広げた秀吉はゆっくりと小一郎の方に首を伸ばし、力を込めた脅し声で云う。
「何を戯けたこと吐かしとるんじゃ。大殿が死ぬわけなかろうがぁ。」
秀吉の眼も潤い始めていたが、小一郎の方はもう泣いている。
「・・・おっ、大殿はかみさまじゃぞぉ。十兵衛ごとき俗人に討たれるわけねぇじゃろがぁ。」
すでに涙と鼻水でぐちゃぐちゃの小一郎は、ようやく身体に担ぐように括り付けていた風呂敷の結びを解き、中から長い木箱を取り出す。手元に置いて木箱の蓋を開けると一通の書状が入っている。小一郎はそれを右手で掴み取り、そのまま、
「日向守から毛利への書状じゃ。」
と差し出す。しばらく戸惑った秀吉は荒っぽく書状を奪い取り、乱暴に取り出した中身を恐る恐る読み始める。
「こっ、小一郎殿。どこでこれを・・・。」
すかさず官兵衛が訊くと、小一郎がひくひくしながら応える。
「大殿の援軍が来られるっちゅうんで、そこいらの百姓らぁ使って街道を整えちょった。そ、そしたらわしらの呼びかけに見向きもせんで西へ走ってくもんがおったんで、ひっ捕まえたらそん箱を持っちょった。」
官兵衛は小一郎も間者から訊き及んだと思い込んでいたので、小一郎がもたらした偶然の真実は衝撃である。しかも間者の知らせと花押の入った書状とでは、信憑性がまるで違う。書状の中身が気になる官兵衛に小一郎は説明を加える。
「そっ、そいつにゃぁ、日向守が大殿と殿を京で討ったと・・・。そしてこれから自分と毛利と示し合わせてわしらを挟み撃ち致そうと誘っちょる。」
官兵衛は愕然とする。
「な、なんと、大殿だけじゃなく殿までも・・・、その上わしらもかぁ・・・」
冷たい群青色の絶望感が辺りを占拠する。だらんとなった秀吉の両手からひらと書状が床に落ちると、押さえ込んでいた感情が一気に内から外へ飛び出してくる。秀吉はゆっくりと天井を仰ぎ、そして子供のように泣き喚く。
「わぁぁぁぁぁっ・・・。大殿おぉっ・・・。殿おぉっ・・・。そんなぁっ・・・。そんなぁっ・・・。」
秀吉の両膝が折れる。
「がはぁっ、大殿おぉっ・・・。殿おぉっ・・・。なんでじゃぁ・・・。」
膝をついたまま前に屈み込み、額を地に打ちつけた秀吉の大声が吃る。
「なんでじゃぁ・・・。なんでじゃぁ・・・。なんでこんなことになるんじゃぁ・・・。」
何かを察知したのか、冷静な官兵衛が静かに燭台を秀吉から遠ざける。図ったような頃合いで秀吉の両拳が幾度となく本堂の床を叩きつける。
「なんでじゃぁっ、十兵衛っ。なんでぇ・・・。なんでぇ・・・。なんでぇ・・・。うおぉぉぉっうおぉぉぉ・・・。」
(こんままじゃ、駄目じゃぁ・・・。)
心を固めた小一郎は深く息を呑み込み、頭を垂れたまま一喝する。
「兄さぁっ、官兵衛っ、やめんかぁ。」
一瞬に二人を黙らせた小一郎はきぃっと秀吉に眼を向け、必死に自分に勢いをつけようとする。
「兄さぁ。云いにくいんじゃが、大殿はもう亡くなられちょる・・・」
先ほどまでの騒がしさが一転し、三人の間に妙に長い静けさが張り詰める。云ってはいけないことを云ってしまったときの後ろめたさが小一郎の頭を、背を、腑をぐぐぅっと押さえつける。そしてその眼には徐々に涙が溜まり始める。片やこれでもかと眼孔を広げた秀吉はゆっくりと小一郎の方に首を伸ばし、力を込めた脅し声で云う。
「何を戯けたこと吐かしとるんじゃ。大殿が死ぬわけなかろうがぁ。」
秀吉の眼も潤い始めていたが、小一郎の方はもう泣いている。
「・・・おっ、大殿はかみさまじゃぞぉ。十兵衛ごとき俗人に討たれるわけねぇじゃろがぁ。」
すでに涙と鼻水でぐちゃぐちゃの小一郎は、ようやく身体に担ぐように括り付けていた風呂敷の結びを解き、中から長い木箱を取り出す。手元に置いて木箱の蓋を開けると一通の書状が入っている。小一郎はそれを右手で掴み取り、そのまま、
「日向守から毛利への書状じゃ。」
と差し出す。しばらく戸惑った秀吉は荒っぽく書状を奪い取り、乱暴に取り出した中身を恐る恐る読み始める。
「こっ、小一郎殿。どこでこれを・・・。」
すかさず官兵衛が訊くと、小一郎がひくひくしながら応える。
「大殿の援軍が来られるっちゅうんで、そこいらの百姓らぁ使って街道を整えちょった。そ、そしたらわしらの呼びかけに見向きもせんで西へ走ってくもんがおったんで、ひっ捕まえたらそん箱を持っちょった。」
官兵衛は小一郎も間者から訊き及んだと思い込んでいたので、小一郎がもたらした偶然の真実は衝撃である。しかも間者の知らせと花押の入った書状とでは、信憑性がまるで違う。書状の中身が気になる官兵衛に小一郎は説明を加える。
「そっ、そいつにゃぁ、日向守が大殿と殿を京で討ったと・・・。そしてこれから自分と毛利と示し合わせてわしらを挟み撃ち致そうと誘っちょる。」
官兵衛は愕然とする。
「な、なんと、大殿だけじゃなく殿までも・・・、その上わしらもかぁ・・・」
冷たい群青色の絶望感が辺りを占拠する。だらんとなった秀吉の両手からひらと書状が床に落ちると、押さえ込んでいた感情が一気に内から外へ飛び出してくる。秀吉はゆっくりと天井を仰ぎ、そして子供のように泣き喚く。
「わぁぁぁぁぁっ・・・。大殿おぉっ・・・。殿おぉっ・・・。そんなぁっ・・・。そんなぁっ・・・。」
秀吉の両膝が折れる。
「がはぁっ、大殿おぉっ・・・。殿おぉっ・・・。なんでじゃぁ・・・。」
膝をついたまま前に屈み込み、額を地に打ちつけた秀吉の大声が吃る。
「なんでじゃぁ・・・。なんでじゃぁ・・・。なんでこんなことになるんじゃぁ・・・。」
何かを察知したのか、冷静な官兵衛が静かに燭台を秀吉から遠ざける。図ったような頃合いで秀吉の両拳が幾度となく本堂の床を叩きつける。
「なんでじゃぁっ、十兵衛っ。なんでぇ・・・。なんでぇ・・・。なんでぇ・・・。うおぉぉぉっうおぉぉぉ・・・。」
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