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1巻
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序章 ヤマトタケルノミコトとオトタチバナヒメの昔
海は、平面を忘れたようだった。
あちらこちらで海流が渦巻き、高さ比べをするかのごとく波が跳ねたり落ちたりを繰り返す。
風はすべてを吹き飛ばさんと猛威を奮い、叩きつける雨が上からも下からも体を濡らし衣服を体に貼りつかせた。
これほどの嵐を見た者は、いまだかつていないだろう。
ここまで破竹の勢いで戦に勝利し英雄と称えられるヤマトタケルノミコトさえも、このときばかりは死を覚悟した。
誰もが絶望にひれ伏す甲板の上に、たったひとり白い衣に身を包んだ女性が立っている。
腕利きの水夫でも体を起こせぬ中で、その姿は異様だ。
黒い瞳で荒れ狂う海を見つめた女性は、胸の前で手を組み澄んだ声をあげた。
「私がヤマトタケルノミコトさまにかわって海の中に入ります。御子さまは使命を果たすため生きてください!」
それは、大いなる覚悟の言葉。我が身を海神への供物とし嵐を鎮めると、彼女は言ったのだ。
「オトタチバナヒメ!」
英雄ヤマトタケルノミコトは、女性の名を叫んだ。
オトタチバナヒメは、彼の妻。
いくら己れや仲間の命が風前の灯火でも、最愛の女性を犠牲にしてまで生き延びようとは思っていない。
「やめろ! オトタチバナヒメ!」
しかし彼の叫びも空しく、一度こちらを振り返ったオトタチバナヒメは、そのまま海中に身を躍らせた。
一際高くせり上がった波が、まるで迎えるがごとく彼女の体を搦め捕っていく。
「オトタチバナヒメ――!」
嫋やかな女性の体は、あっという間に見えなくなった。
同時に、あれほど荒れ狂っていた波がみるみる静かになっていく。
幾重にも渦巻いていた海流も、その輪を解いた。
雨はやみ、風は凪ぎ、厚い雲が割れて日差しが射しこんでくる。
穏やかな海面がキラキラと輝いた。
「――おお!」
「奇跡だ!」
「オトタチバナヒメさまが、海神を鎮めてくださったのだ!」
「助かったぞぉ!」
船の上で、兵士も水夫も抱き合って歓声をあげる。
その中で、ヤマトタケルノミコトだけが呆然としていた。
いまだ信じられぬように海を見つめ――いや、睨みつける。
「……認めぬ。認めぬぞ。このようなこと!」
やがて、低く、強く、怨嗟の声を漏らした。
「オトタチバナヒメは我が妻! ワタツミノカミにもイザナミノミコトにも渡しはせぬ!」
ワタツミノカミは海の神。
イザナミノミコトは死者を統べる冥府の神だ。
低い声には並々ならぬ思いが籠もっている。
「私は、我が妻、オトタチバナヒメを、この手に取り戻す……何があろうとも! たとえ、どれほどのときを経ようとも……必ず! 必ずだ!」
誓う声は、空と海とに吸いこまれていく。
どこからか現れた白い鳥が一羽、海の上を飛んでいた。
第一章 ニート巫女、採用される
柏槇神社は、古い神社だ。
鳥居こそ戦後に建て替えられた塩化ビニール製だが、小さいながらも本殿と拝殿が別々に建っていて、怪物ヤマタノオロチを退治したことで有名なスサノオノミコトを祭っている。
神社の名前の由来は、境内の真ん中に立つご神木の柏槇の大木。
風が境内を爽やかに吹き抜けて、柏槇の枝葉をサヤサヤと揺らす。
そのご神木の下に、白い小袖に緋袴の巫女装束に身を包んだ女性が立っていた。竹箒を手に深いため息をついている。
巫女は、女性にしては背が高くスラリとしているのだが、今は項垂れているため、どことなく小さく見えた。
竹箒を神木に立てかけた彼女は、胸の合わせに挟んだ手紙を取り出し開いては、さらにため息を深くする。
その手紙は、つい先刻赤いバイクに乗った郵便配達のおじさんから手渡されたもの――就職を希望した会社からの不採用通知だ。
しかも十社目なのだから、彼女が落ちこむのはむりもない。
「どうして、こんなに何度も不採用になるのかしら」
ポツリとこぼした言葉に、樹上からカラスが「カア~」と返事をした。
慰められているのかバカにされているのかは、わからない。
巫女の名前は、柏原橘花。柏槇神社の宮司の娘である。
「大学を卒業するまでは順調だったのに、まさか最初に内定をもらった会社が、就職前に倒産するとは思わなかったわ」
橘花にとって青天の霹靂だったその事実が判明したのは、三月の終わり。既に主立った企業では次年度卒業生の就職戦線が始まっており、その中での新たな就職活動は困難を極めた。
結果はご覧の通りの連戦連敗だ。
「でもでも、今の私は、一応実家の神社の手伝いをしているんだから、ニートではないわよね?」
限りなく近い存在であることは間違いないだろう。
手紙をしまい、再び手にした竹箒を握り締め黄昏れていると、拝殿のほうから声がした。
「橘花、ちょっといいかい?」
白い狩衣と紫色の袴を合わせた宮司衣装は、彼女の父親だ。右手をひらひら振って、橘花を呼んでいる。
「は~い!」
なんだろう?
長い竹箒を小脇に抱え、橘花は走り出した。
狭い境内の掃除は終わっているから、断る理由はなかったのである。
橘花が父に招き入れられたのは、驚いたことに大社造りの本殿だった。
神社の本殿とは、祭神が鎮座ましますところ。一般の人は入れない。
中央に太い心御柱を持つ簡素な板張りの床に、橘花と父は対面で座った。
ピチチピチチと、鳥の囀りが聞こえてくる。
のどかな環境なのだが、橘花はなんとなく居心地の悪さを感じた。
本殿での話となれば、つまらない世間話ではないはずだ。
(ここには“あの御方”がいるのだもの)
橘花は正座した足をモゾモゾと動かした。
父がコホンとひとつ咳払いをする。
「あ~、その、就職活動は、どんな感じだい?」
そんな言葉をかけてきた。
「全然ダメ。さっきも不採用通知を受け取ったばかりよ」
「そうか」
父は少しの間、下を向く。やがて顔を上げ、身を乗り出した。
「ならば、ちょっと遠いのだが、私の知り合いの店で働いてみないかい?」
橘花はかなり驚いてしまう。……表情を曇らせた。
「それは、私みたいな穀潰しは、この神社に置いとけないってことなの?」
「まさか! それはないよ。うちみたいな小さな神社は、巫女を常勤で雇う余裕がないからね。橘花が働いてくれて、とても助かっている。……ただ、ずっとというわけにはいかないだろう?」
神社の巫女は若い女性がほとんどだ。別に決まりがあるわけではないけれど、十代から二十代で、結婚すれば辞めていく。たしかにずっと続ける人は少ない。
加えて、橘花は自立心旺盛な娘だった。常々『結婚しても辞めないでいい仕事に就きたい』が口癖で、就職先もそれを条件に選んでいる。
「そりゃあ、私も一生巫女を続けていくつもりはないけれど」
あくまで今の彼女は、一時的な家事手伝いだ。
「うんうん、わかっているよ。だからこそ橘花は、うちでの仕事に拘る必要はないと思うんだ。むしろ見聞を広めるためには、他の仕事を経験したほうがいいんじゃないのかな?」
両手を広げて父は、そう言った。
たしかに、一理ある。
考え始めた橘花を見た父は、さらに言葉を重ねてきた。
「私の知り合いの店が、住みこみの店員を募集しているんだ。食料品や雑貨といった生活用品を売っている、昔で言うところのよろず屋さ。店名もまさしく『よろず屋』というんだよ」
それは、安直なのでは?
いや、きっと昔から呼ばれてきて、自然とそうなった店名なのだろう。そういう店はいくらでもある。
「ま、というのは表向きでね。実は、神々をお相手にした何でも屋なのさ」
さらっと父は爆弾発言をした。
「へ? ……え、えぇぇっ⁉」
橘花は素っ頓狂な声をあげる。
「か、神さま相手の何でも屋って……どういうこと?」
「ああ、父さんは、あまり詳しくは知らないんだけれどね――」
父は困ったように笑う。
そのとき、ドン! と空気が揺れた。
「それについては、俺が説明しよう」
重々しい男性の声が、橘花の背後で響く。
慌てて振り返ると、つい先ほどまで誰もいなかった場所に、ひとりの男が立っていた。
もっとも、足が床から数十センチ浮いている状態を立っていると表現していいとすればだが。
男は古めかしい日本古来の衣褲を着ていた。長い黒髪を美豆良にまとめ、腰には大きな剣を佩いている。背は高く、おそらく二メートルは超えていた。
眼光鋭くこちらを見る偉丈夫が普通の人ではないことは、その衣装からも明らかだ。
いや彼は、普通の人どころか人間でもない存在だった。
「もう、スサノオさまったら、驚かさないでください」
橘花は眉間にしわを寄せながら、宙に浮く大男に文句を言う。
男は「ワハハ!」と大声で笑った。
「橘花、お前は相変わらずの塩対応だな。“神”であるこの俺に対し、そこまで嫌そうな顔をする巫女は、お前くらいだぞ」
そう、偉丈夫の御名は、スサノオノミコト。この神社の祭神である。
ごくごく平凡な一般女性(と、自分では思っている)橘花は、実は神々の姿を見、会話することのできる寄坐体質なのだった。いざというときは、その身に神を宿すこともできる。
先祖代々柏槇神社の宮司を務めてきた柏原家の血筋の持つ“異能”だ。
おかげで橘花は、子どもの頃から普通の人にはできない体験をいろいろと重ねてきた。
あるときは、車にひかれそうになって反対に車を吹っ飛ばしたり。
またあるときは、川で溺れそうになって水流を止めてしまったり。
山で遭難しそうになったときに、熊に道案内してもらったことは、多少ほのぼのとした思い出と言えるのだろうか?
どれもこれも滅多にない……というより、あったらおかしいことばかり。
そんな、その時々で誤魔化すのがとてもたいへんな経験を、山ほどしてきた。
この異能を授けたという祭神スサノオノミコトに対して、橘花が多少塩対応になってしまったとしても、文句を言われる筋合いはないはずである。
橘花は仏頂面で自社の祭神を睨んだ。
「私の顔なんてどうでもいいでしょう。……それより、神々相手の『何でも屋』とはどういうことですか? お店だと思ったのですが、ひょっとしたら、うちみたいな神社なんですか? だとしたら、祭神はどなたです?」
そこは、是非とも確認したい。
日本の神々は八百万。しかも、そのほとんどが個性豊かで……つまりは、一癖も二癖もある神さま揃いなのだ。あまり面倒な神さまとは、関わりになりたくない。
スサノオさまだけで、十分お腹いっぱいだ。
「ああ、違うぞ。何でも屋は神社じゃない。ちっとばかし、店主が“加護”を持っているが、ごくごく普通の商店だ」
神さま相手の何でも屋を普通の商店とは言わないだろう。
「加護? ということは、神のどなたかがバックについていらっしゃるということですよね? どなたです?」
「アマテラスオオミカミだ」
さらっと告げられた名前に、橘花は息をのんだ。
アマテラスオオミカミは、日本の総氏神。八百万の神々の頂点に立つ神さまだ。
ついでに言えば、スサノオノミコトの姉神でもあった。
しかも、姉弟仲は……最悪である。
かの有名な、アマテラスオオミカミの天岩戸立て籠もり事件の元凶は、誰あろうスサノオノミコト。弟の顔を見たくないというのが、理由だった。
そんな仲の悪い最強姉神の加護を持つ店主がいる店で、スサノオノミコトを祭神とする神社の娘が働くなんて、とんでもない!
即座に断ろうとしたのだが、スサノオノミコトが宥めるように両手を上げた。
「まあまあ、待て。お前の言いたいことはだいたいわかるが、大丈夫だから心配するな。俺の巫女が店で働くことに、姉上は文句を言わない。それどころか、積極的に迎えてくれるはずだ。……なんせ、最近の姉上の口癖は『働かざる神、食うべからず』だからな」
「は?」
橘花はポカンと口を開けた。
「働かざる神、食うべからず?」
なんだそれ?
「そうだ。――日本には八百万の神々がいる。俺たちのように、遙かな昔から神話として語り継がれた神や、山や川、海、風などの自然に由来する神、他国から渡来した神もいれば、神格化された人間が神と呼ばれることもある。日本人は、ありとあらゆるものの中に神を見つけだし、祭ってきた。――それが悪いわけではないのだが、さすがに数が増えすぎてきてな。すべてを統括する総氏神の姉上が、キレてしまったのだ」
橘花は、今度は目を見開いた。
「キレて――」
「ああ。面倒見切れんということだ」
八百万とは、数限りないということ。数値としての八百万が限度なのではなく、無数にあることを表す。現在日本にどれだけの神さまがいるのかはわからないが、米粒の中にも神さまがいるとされることを考えれば、たしかに面倒なんて見ていられないのが正直なところかもしれない。
「よろず屋は、神々相手の何でも屋だ。増えすぎた神々の中には、己れの力だけではどうにもならない問題を抱えているものもいるからな。そんな神に対して、最高神である姉上の御力を元手に注文を受け、問題を解決し対価を受け取ることを生業としている。……普通に対価を支払える神は問題ないんだが、支払えず借金を重ねるような情けない神は、神格を取り上げ消滅させると、姉上は公言しているのだ」
「……神格を取り上げ消滅」
つまりは、人間で言うところの死刑である。
よほど、アマテラスオオミカミは増えすぎる神さま問題に腹を立てているらしい。
困ったものだと思った橘花だが、……ハッ! と気づいてしまった。
「まさかっ! スサノオさまは、よろず屋に借金なんてしていませんよね?」
ギンッ! と睨みつけると、スサノオノミコトは露骨に視線を泳がせる。
「……き、橘花」
父が慌てて取りなすように声をかけてきた。それを橘花は手で遮る。
「しているのですね⁉ いったい、幾らです? どうして借金なんてしたのですか!」
スサノオノミコトは、そんじょそこらの神々ではない。古く日本神話に登場するくらいの超有名神だ。性格と行動には問題大ありだが、力だけはある。借金をしたり、それを返せなかったりということは、ないはずだ。
大声で怒鳴りつけると、スサノオノミコトはわざとらしく耳を押さえた。
「そんなに大きな声を出さずとも聞こえるぞ。たしかに俺は橘花よりずいぶん年上だが、耳も目も達者だからな」
「スサノオさま‼」
茶化して誤魔化そうとするのを許さずに、叱りつける。
「……俺はこの神社の祭神なのに、扱いが酷くないか?」
怒鳴られたスサノオノミコトがボソリと文句を言った。
「祭神ならば祭神らしく、きちんとしてください! 借金なんてもってのほかです! さあ、さっさと洗いざらい吐きなさい!」
スサノオノミコトが借金なんて、よほどの事情があるはずだ。
橘花は腰に手を当て問い質す。
白旗を上げたスサノオノミコトは、素直に話し始めた。
「……どうしても欲しい酒があったのだ。厳選された酒米を三割以下に磨き上げ、丹念に作り上げたという純米大吟醸で、期間数量限定品! 今ここで手に入れなければ二度と手に入らないという名酒を一斗樽で十荷。どうしても手に入れたかった」
聞いた橘花は、めまいがしてきた。
一斗樽とは、十八リットル。一升瓶が一・八リットルだから、十本分だ。
荷というのは、天秤棒の両端に下げる荷物を数える方法で、一荷は樽二個。
つまり十荷であれば、二十樽で総量――三百六十リットル!
「……い、幾らだったのですか?」
怖々、聞いてみる。
「さあ? 支払ったのは、よろず屋だからな。俺は注文しただけだ。……ただ、その酒は一升瓶一本で二万円とも三万円とも言われている高級酒だからな。安くはなかったと思う」
何故か自慢そうにスサノオノミコトは胸を反らした。
橘花は口をパクパクと開け閉めするばかり。
「……に、二万なら、四百万。三万なら……六百万!」
ようやく声を絞り出す。悲鳴のようになったのは、仕方ないことだろう。
「ほう? さすが橘花。計算が速いな。それを何回か買ったぞ」
(……絶句するって、こういうことなのね)
頭を抱えて下を向いた。
「………………………………その酒は?」
「むろん呑んださ。うまかった」
ワナワナと、橘花は震えだした。
「なんで、借金してまで買ったのですか?」
「期間数量限定品だと言っただろう? 発売と同時に即買わなければ数時間で売りきれるという酒なのだ。とはいえ手に入れるためには大金がいる。この神社にそこまでの金を短時間で用立てられるような余裕はないからな。よろず屋に頼んで支払わせたのさ。対価としては、俺の神力を当てるつもりでいたのだが『そんな神力はいらない。現金で払え』と言われてしまってな」
失礼な奴だとスサノオノミコトは、愚痴る。
「それで、そのお金が払えなくて、代わりに私に働きに行けと言うのですね?」
「うむ。このままでは、俺が姉上に消滅させられてしまう」
スサノオノミコトは腕を組み重々しく頷いた。
橘花はグッと拳を握り締める。
「なんで! なんでお酒を買う前に対価が神力でいいか確認しなかったんですか⁉」
それはものを買う前の基本だろう。キャッシュレスができるのかどうかを確かめるのと同じくらい必要な行為だ。
「現金より数倍の価値がある俺の神力で払えば文句はないと思ったんだ。誰だってそう思うだろう?」
「思いませんよ! 私だって現金のほうがいいです! そんな、現代社会では、役にも立たないような神力なんていりません!」
ガ~ン! と、ショックを受けたスサノオノミコトは、フラフラとして床に崩れ落ちた。
「や、役にも立たないなんて――」
「立ちません! 電気代わりにもならないし、電波でもないですからね。使えるのは神さまだけなんて、人間にとってはスナック菓子より軽い力です!」
「ス、スナック菓子――」
スサノオノミコトは膝を抱えると隅っこに移動して壁に向かい体育座りになった。
「俺の力がスナック菓子。ポ○チやカー○より、軽いというのか」
いじいじといじけてしまう。
「ポ○チのほうが数倍マシです! ちなみに私はシンプルな塩味派です!」
「き、橘花、そのくらいで――」
見かねた父が割って入った。
「一応、スサノオさまはうちの神社の祭神なのだから」
「……一応」
「あ――」
助けようとして突き落とすという典型的なパターンを演じた橘花の父は、居心地悪そうに押し黙る。
やがて、橘花はハ~ッと大きなため息をついた。
「もう、いいです。作ってしまった借金は、今さらどうしようもないですからね」
父とスサノオノミコトがパッと顔を上げる。
「行ってくれるのか?」
男ふたりの声が重なった。
「私が行かなければ、スサノオさまが消滅してしまうのでしょう? そうなれば、うちの神社もなくなってしまいますから」
「橘花~っ‼」
感極まったように叫び、スサノオノミコトが橘花に飛びついてきた。偉丈夫の神は目に涙を浮かべて、橘花の腰に縋りつく。
「ちょっ! ちょっと、スサノオさま!」
「さすが、俺の巫女だ。きっと頷いてくれると信じていたぞ!」
「ああっ! もうっ! ……はいはい。いいから離れてください! あ~、でもそれだけの借金となると、私ひとりの働きで返しきれるかどうか、不安ですね」
シッシッと手を振ると、スサノオノミコトは鼻をすすりながら離れてくれた。ニパッと、人懐こい笑みを浮かべる。
「なんだ、そんなことを気にしていたのか。大丈夫だぞ。なにせ、橘花の賃金単価はものすごく高いはずだからな。橘花にやってもらうのは、俺のように返す当てのない神々からの借金の取り立てだろう。それには、まず必須条件として、我ら神々の姿が見えて話もできなければ、文字通り話にならん。そんな人間は、そんじょそこらにいないからな」
たしかに、普通の人間では神を見ることはできない。
橘花にそれが可能なのは、言うまでもなく柏槇神社の娘だからだ。
だからといって宮司や巫女の血族なら、誰もが神が見えるのかと問われれば、必ずしもそうとは限らない。最近では、見えることはおろか感じることさえできない者が多いと聞く。
まあ、表には絶対出ない情報だから、本当のところはわからないのだが。
橘花や彼女の父だって、自分たちが神々と話ができるだなんてことを世間に公表してはいなかった。
そんなことを言おうものなら、由緒正しい神社から怪しい新興宗教に真っ逆さまに没落すること間違いなしだ。
そこまでいかなくとも、心の病を疑われるのは避けられない。
いや、それよりも今問題なのは、そこではなかった!
「借金の取り立てって? それも神さまから? まさかスサノオさま、私にそんなことをさせるつもりなんですか?」
橘花は大声をあげた。
神々相手に借金の取り立てなんて、無茶ぶりもいいとこだ。
ズズイッとスサノオノミコトに迫る。
「あ、いや……たぶん、そうだろうなという話で、決まったわけでは、その――」
「たぶんじゃありません! 私は、そんな危険なこと、まっぴらごめんですからね!」
「そんなぁ~! 大丈夫だ。橘花ならできる! ……そうだ! 俺の神力を籠めた十拳剣を与えよう。天之羽々斬剣や天叢雲剣はさすがにむりだが、橘花でも扱える手頃な剣を用意するから!」
十拳剣とは、神々の使う剣の名称。拳十個分の長さの剣なのでそう呼ばれている。
「そんなモノ持ち歩いていたら銃刀法違反で捕まってしまいます」
橘花の指摘に、スサノオノミコトは「うっ」と詰まる。
海は、平面を忘れたようだった。
あちらこちらで海流が渦巻き、高さ比べをするかのごとく波が跳ねたり落ちたりを繰り返す。
風はすべてを吹き飛ばさんと猛威を奮い、叩きつける雨が上からも下からも体を濡らし衣服を体に貼りつかせた。
これほどの嵐を見た者は、いまだかつていないだろう。
ここまで破竹の勢いで戦に勝利し英雄と称えられるヤマトタケルノミコトさえも、このときばかりは死を覚悟した。
誰もが絶望にひれ伏す甲板の上に、たったひとり白い衣に身を包んだ女性が立っている。
腕利きの水夫でも体を起こせぬ中で、その姿は異様だ。
黒い瞳で荒れ狂う海を見つめた女性は、胸の前で手を組み澄んだ声をあげた。
「私がヤマトタケルノミコトさまにかわって海の中に入ります。御子さまは使命を果たすため生きてください!」
それは、大いなる覚悟の言葉。我が身を海神への供物とし嵐を鎮めると、彼女は言ったのだ。
「オトタチバナヒメ!」
英雄ヤマトタケルノミコトは、女性の名を叫んだ。
オトタチバナヒメは、彼の妻。
いくら己れや仲間の命が風前の灯火でも、最愛の女性を犠牲にしてまで生き延びようとは思っていない。
「やめろ! オトタチバナヒメ!」
しかし彼の叫びも空しく、一度こちらを振り返ったオトタチバナヒメは、そのまま海中に身を躍らせた。
一際高くせり上がった波が、まるで迎えるがごとく彼女の体を搦め捕っていく。
「オトタチバナヒメ――!」
嫋やかな女性の体は、あっという間に見えなくなった。
同時に、あれほど荒れ狂っていた波がみるみる静かになっていく。
幾重にも渦巻いていた海流も、その輪を解いた。
雨はやみ、風は凪ぎ、厚い雲が割れて日差しが射しこんでくる。
穏やかな海面がキラキラと輝いた。
「――おお!」
「奇跡だ!」
「オトタチバナヒメさまが、海神を鎮めてくださったのだ!」
「助かったぞぉ!」
船の上で、兵士も水夫も抱き合って歓声をあげる。
その中で、ヤマトタケルノミコトだけが呆然としていた。
いまだ信じられぬように海を見つめ――いや、睨みつける。
「……認めぬ。認めぬぞ。このようなこと!」
やがて、低く、強く、怨嗟の声を漏らした。
「オトタチバナヒメは我が妻! ワタツミノカミにもイザナミノミコトにも渡しはせぬ!」
ワタツミノカミは海の神。
イザナミノミコトは死者を統べる冥府の神だ。
低い声には並々ならぬ思いが籠もっている。
「私は、我が妻、オトタチバナヒメを、この手に取り戻す……何があろうとも! たとえ、どれほどのときを経ようとも……必ず! 必ずだ!」
誓う声は、空と海とに吸いこまれていく。
どこからか現れた白い鳥が一羽、海の上を飛んでいた。
第一章 ニート巫女、採用される
柏槇神社は、古い神社だ。
鳥居こそ戦後に建て替えられた塩化ビニール製だが、小さいながらも本殿と拝殿が別々に建っていて、怪物ヤマタノオロチを退治したことで有名なスサノオノミコトを祭っている。
神社の名前の由来は、境内の真ん中に立つご神木の柏槇の大木。
風が境内を爽やかに吹き抜けて、柏槇の枝葉をサヤサヤと揺らす。
そのご神木の下に、白い小袖に緋袴の巫女装束に身を包んだ女性が立っていた。竹箒を手に深いため息をついている。
巫女は、女性にしては背が高くスラリとしているのだが、今は項垂れているため、どことなく小さく見えた。
竹箒を神木に立てかけた彼女は、胸の合わせに挟んだ手紙を取り出し開いては、さらにため息を深くする。
その手紙は、つい先刻赤いバイクに乗った郵便配達のおじさんから手渡されたもの――就職を希望した会社からの不採用通知だ。
しかも十社目なのだから、彼女が落ちこむのはむりもない。
「どうして、こんなに何度も不採用になるのかしら」
ポツリとこぼした言葉に、樹上からカラスが「カア~」と返事をした。
慰められているのかバカにされているのかは、わからない。
巫女の名前は、柏原橘花。柏槇神社の宮司の娘である。
「大学を卒業するまでは順調だったのに、まさか最初に内定をもらった会社が、就職前に倒産するとは思わなかったわ」
橘花にとって青天の霹靂だったその事実が判明したのは、三月の終わり。既に主立った企業では次年度卒業生の就職戦線が始まっており、その中での新たな就職活動は困難を極めた。
結果はご覧の通りの連戦連敗だ。
「でもでも、今の私は、一応実家の神社の手伝いをしているんだから、ニートではないわよね?」
限りなく近い存在であることは間違いないだろう。
手紙をしまい、再び手にした竹箒を握り締め黄昏れていると、拝殿のほうから声がした。
「橘花、ちょっといいかい?」
白い狩衣と紫色の袴を合わせた宮司衣装は、彼女の父親だ。右手をひらひら振って、橘花を呼んでいる。
「は~い!」
なんだろう?
長い竹箒を小脇に抱え、橘花は走り出した。
狭い境内の掃除は終わっているから、断る理由はなかったのである。
橘花が父に招き入れられたのは、驚いたことに大社造りの本殿だった。
神社の本殿とは、祭神が鎮座ましますところ。一般の人は入れない。
中央に太い心御柱を持つ簡素な板張りの床に、橘花と父は対面で座った。
ピチチピチチと、鳥の囀りが聞こえてくる。
のどかな環境なのだが、橘花はなんとなく居心地の悪さを感じた。
本殿での話となれば、つまらない世間話ではないはずだ。
(ここには“あの御方”がいるのだもの)
橘花は正座した足をモゾモゾと動かした。
父がコホンとひとつ咳払いをする。
「あ~、その、就職活動は、どんな感じだい?」
そんな言葉をかけてきた。
「全然ダメ。さっきも不採用通知を受け取ったばかりよ」
「そうか」
父は少しの間、下を向く。やがて顔を上げ、身を乗り出した。
「ならば、ちょっと遠いのだが、私の知り合いの店で働いてみないかい?」
橘花はかなり驚いてしまう。……表情を曇らせた。
「それは、私みたいな穀潰しは、この神社に置いとけないってことなの?」
「まさか! それはないよ。うちみたいな小さな神社は、巫女を常勤で雇う余裕がないからね。橘花が働いてくれて、とても助かっている。……ただ、ずっとというわけにはいかないだろう?」
神社の巫女は若い女性がほとんどだ。別に決まりがあるわけではないけれど、十代から二十代で、結婚すれば辞めていく。たしかにずっと続ける人は少ない。
加えて、橘花は自立心旺盛な娘だった。常々『結婚しても辞めないでいい仕事に就きたい』が口癖で、就職先もそれを条件に選んでいる。
「そりゃあ、私も一生巫女を続けていくつもりはないけれど」
あくまで今の彼女は、一時的な家事手伝いだ。
「うんうん、わかっているよ。だからこそ橘花は、うちでの仕事に拘る必要はないと思うんだ。むしろ見聞を広めるためには、他の仕事を経験したほうがいいんじゃないのかな?」
両手を広げて父は、そう言った。
たしかに、一理ある。
考え始めた橘花を見た父は、さらに言葉を重ねてきた。
「私の知り合いの店が、住みこみの店員を募集しているんだ。食料品や雑貨といった生活用品を売っている、昔で言うところのよろず屋さ。店名もまさしく『よろず屋』というんだよ」
それは、安直なのでは?
いや、きっと昔から呼ばれてきて、自然とそうなった店名なのだろう。そういう店はいくらでもある。
「ま、というのは表向きでね。実は、神々をお相手にした何でも屋なのさ」
さらっと父は爆弾発言をした。
「へ? ……え、えぇぇっ⁉」
橘花は素っ頓狂な声をあげる。
「か、神さま相手の何でも屋って……どういうこと?」
「ああ、父さんは、あまり詳しくは知らないんだけれどね――」
父は困ったように笑う。
そのとき、ドン! と空気が揺れた。
「それについては、俺が説明しよう」
重々しい男性の声が、橘花の背後で響く。
慌てて振り返ると、つい先ほどまで誰もいなかった場所に、ひとりの男が立っていた。
もっとも、足が床から数十センチ浮いている状態を立っていると表現していいとすればだが。
男は古めかしい日本古来の衣褲を着ていた。長い黒髪を美豆良にまとめ、腰には大きな剣を佩いている。背は高く、おそらく二メートルは超えていた。
眼光鋭くこちらを見る偉丈夫が普通の人ではないことは、その衣装からも明らかだ。
いや彼は、普通の人どころか人間でもない存在だった。
「もう、スサノオさまったら、驚かさないでください」
橘花は眉間にしわを寄せながら、宙に浮く大男に文句を言う。
男は「ワハハ!」と大声で笑った。
「橘花、お前は相変わらずの塩対応だな。“神”であるこの俺に対し、そこまで嫌そうな顔をする巫女は、お前くらいだぞ」
そう、偉丈夫の御名は、スサノオノミコト。この神社の祭神である。
ごくごく平凡な一般女性(と、自分では思っている)橘花は、実は神々の姿を見、会話することのできる寄坐体質なのだった。いざというときは、その身に神を宿すこともできる。
先祖代々柏槇神社の宮司を務めてきた柏原家の血筋の持つ“異能”だ。
おかげで橘花は、子どもの頃から普通の人にはできない体験をいろいろと重ねてきた。
あるときは、車にひかれそうになって反対に車を吹っ飛ばしたり。
またあるときは、川で溺れそうになって水流を止めてしまったり。
山で遭難しそうになったときに、熊に道案内してもらったことは、多少ほのぼのとした思い出と言えるのだろうか?
どれもこれも滅多にない……というより、あったらおかしいことばかり。
そんな、その時々で誤魔化すのがとてもたいへんな経験を、山ほどしてきた。
この異能を授けたという祭神スサノオノミコトに対して、橘花が多少塩対応になってしまったとしても、文句を言われる筋合いはないはずである。
橘花は仏頂面で自社の祭神を睨んだ。
「私の顔なんてどうでもいいでしょう。……それより、神々相手の『何でも屋』とはどういうことですか? お店だと思ったのですが、ひょっとしたら、うちみたいな神社なんですか? だとしたら、祭神はどなたです?」
そこは、是非とも確認したい。
日本の神々は八百万。しかも、そのほとんどが個性豊かで……つまりは、一癖も二癖もある神さま揃いなのだ。あまり面倒な神さまとは、関わりになりたくない。
スサノオさまだけで、十分お腹いっぱいだ。
「ああ、違うぞ。何でも屋は神社じゃない。ちっとばかし、店主が“加護”を持っているが、ごくごく普通の商店だ」
神さま相手の何でも屋を普通の商店とは言わないだろう。
「加護? ということは、神のどなたかがバックについていらっしゃるということですよね? どなたです?」
「アマテラスオオミカミだ」
さらっと告げられた名前に、橘花は息をのんだ。
アマテラスオオミカミは、日本の総氏神。八百万の神々の頂点に立つ神さまだ。
ついでに言えば、スサノオノミコトの姉神でもあった。
しかも、姉弟仲は……最悪である。
かの有名な、アマテラスオオミカミの天岩戸立て籠もり事件の元凶は、誰あろうスサノオノミコト。弟の顔を見たくないというのが、理由だった。
そんな仲の悪い最強姉神の加護を持つ店主がいる店で、スサノオノミコトを祭神とする神社の娘が働くなんて、とんでもない!
即座に断ろうとしたのだが、スサノオノミコトが宥めるように両手を上げた。
「まあまあ、待て。お前の言いたいことはだいたいわかるが、大丈夫だから心配するな。俺の巫女が店で働くことに、姉上は文句を言わない。それどころか、積極的に迎えてくれるはずだ。……なんせ、最近の姉上の口癖は『働かざる神、食うべからず』だからな」
「は?」
橘花はポカンと口を開けた。
「働かざる神、食うべからず?」
なんだそれ?
「そうだ。――日本には八百万の神々がいる。俺たちのように、遙かな昔から神話として語り継がれた神や、山や川、海、風などの自然に由来する神、他国から渡来した神もいれば、神格化された人間が神と呼ばれることもある。日本人は、ありとあらゆるものの中に神を見つけだし、祭ってきた。――それが悪いわけではないのだが、さすがに数が増えすぎてきてな。すべてを統括する総氏神の姉上が、キレてしまったのだ」
橘花は、今度は目を見開いた。
「キレて――」
「ああ。面倒見切れんということだ」
八百万とは、数限りないということ。数値としての八百万が限度なのではなく、無数にあることを表す。現在日本にどれだけの神さまがいるのかはわからないが、米粒の中にも神さまがいるとされることを考えれば、たしかに面倒なんて見ていられないのが正直なところかもしれない。
「よろず屋は、神々相手の何でも屋だ。増えすぎた神々の中には、己れの力だけではどうにもならない問題を抱えているものもいるからな。そんな神に対して、最高神である姉上の御力を元手に注文を受け、問題を解決し対価を受け取ることを生業としている。……普通に対価を支払える神は問題ないんだが、支払えず借金を重ねるような情けない神は、神格を取り上げ消滅させると、姉上は公言しているのだ」
「……神格を取り上げ消滅」
つまりは、人間で言うところの死刑である。
よほど、アマテラスオオミカミは増えすぎる神さま問題に腹を立てているらしい。
困ったものだと思った橘花だが、……ハッ! と気づいてしまった。
「まさかっ! スサノオさまは、よろず屋に借金なんてしていませんよね?」
ギンッ! と睨みつけると、スサノオノミコトは露骨に視線を泳がせる。
「……き、橘花」
父が慌てて取りなすように声をかけてきた。それを橘花は手で遮る。
「しているのですね⁉ いったい、幾らです? どうして借金なんてしたのですか!」
スサノオノミコトは、そんじょそこらの神々ではない。古く日本神話に登場するくらいの超有名神だ。性格と行動には問題大ありだが、力だけはある。借金をしたり、それを返せなかったりということは、ないはずだ。
大声で怒鳴りつけると、スサノオノミコトはわざとらしく耳を押さえた。
「そんなに大きな声を出さずとも聞こえるぞ。たしかに俺は橘花よりずいぶん年上だが、耳も目も達者だからな」
「スサノオさま‼」
茶化して誤魔化そうとするのを許さずに、叱りつける。
「……俺はこの神社の祭神なのに、扱いが酷くないか?」
怒鳴られたスサノオノミコトがボソリと文句を言った。
「祭神ならば祭神らしく、きちんとしてください! 借金なんてもってのほかです! さあ、さっさと洗いざらい吐きなさい!」
スサノオノミコトが借金なんて、よほどの事情があるはずだ。
橘花は腰に手を当て問い質す。
白旗を上げたスサノオノミコトは、素直に話し始めた。
「……どうしても欲しい酒があったのだ。厳選された酒米を三割以下に磨き上げ、丹念に作り上げたという純米大吟醸で、期間数量限定品! 今ここで手に入れなければ二度と手に入らないという名酒を一斗樽で十荷。どうしても手に入れたかった」
聞いた橘花は、めまいがしてきた。
一斗樽とは、十八リットル。一升瓶が一・八リットルだから、十本分だ。
荷というのは、天秤棒の両端に下げる荷物を数える方法で、一荷は樽二個。
つまり十荷であれば、二十樽で総量――三百六十リットル!
「……い、幾らだったのですか?」
怖々、聞いてみる。
「さあ? 支払ったのは、よろず屋だからな。俺は注文しただけだ。……ただ、その酒は一升瓶一本で二万円とも三万円とも言われている高級酒だからな。安くはなかったと思う」
何故か自慢そうにスサノオノミコトは胸を反らした。
橘花は口をパクパクと開け閉めするばかり。
「……に、二万なら、四百万。三万なら……六百万!」
ようやく声を絞り出す。悲鳴のようになったのは、仕方ないことだろう。
「ほう? さすが橘花。計算が速いな。それを何回か買ったぞ」
(……絶句するって、こういうことなのね)
頭を抱えて下を向いた。
「………………………………その酒は?」
「むろん呑んださ。うまかった」
ワナワナと、橘花は震えだした。
「なんで、借金してまで買ったのですか?」
「期間数量限定品だと言っただろう? 発売と同時に即買わなければ数時間で売りきれるという酒なのだ。とはいえ手に入れるためには大金がいる。この神社にそこまでの金を短時間で用立てられるような余裕はないからな。よろず屋に頼んで支払わせたのさ。対価としては、俺の神力を当てるつもりでいたのだが『そんな神力はいらない。現金で払え』と言われてしまってな」
失礼な奴だとスサノオノミコトは、愚痴る。
「それで、そのお金が払えなくて、代わりに私に働きに行けと言うのですね?」
「うむ。このままでは、俺が姉上に消滅させられてしまう」
スサノオノミコトは腕を組み重々しく頷いた。
橘花はグッと拳を握り締める。
「なんで! なんでお酒を買う前に対価が神力でいいか確認しなかったんですか⁉」
それはものを買う前の基本だろう。キャッシュレスができるのかどうかを確かめるのと同じくらい必要な行為だ。
「現金より数倍の価値がある俺の神力で払えば文句はないと思ったんだ。誰だってそう思うだろう?」
「思いませんよ! 私だって現金のほうがいいです! そんな、現代社会では、役にも立たないような神力なんていりません!」
ガ~ン! と、ショックを受けたスサノオノミコトは、フラフラとして床に崩れ落ちた。
「や、役にも立たないなんて――」
「立ちません! 電気代わりにもならないし、電波でもないですからね。使えるのは神さまだけなんて、人間にとってはスナック菓子より軽い力です!」
「ス、スナック菓子――」
スサノオノミコトは膝を抱えると隅っこに移動して壁に向かい体育座りになった。
「俺の力がスナック菓子。ポ○チやカー○より、軽いというのか」
いじいじといじけてしまう。
「ポ○チのほうが数倍マシです! ちなみに私はシンプルな塩味派です!」
「き、橘花、そのくらいで――」
見かねた父が割って入った。
「一応、スサノオさまはうちの神社の祭神なのだから」
「……一応」
「あ――」
助けようとして突き落とすという典型的なパターンを演じた橘花の父は、居心地悪そうに押し黙る。
やがて、橘花はハ~ッと大きなため息をついた。
「もう、いいです。作ってしまった借金は、今さらどうしようもないですからね」
父とスサノオノミコトがパッと顔を上げる。
「行ってくれるのか?」
男ふたりの声が重なった。
「私が行かなければ、スサノオさまが消滅してしまうのでしょう? そうなれば、うちの神社もなくなってしまいますから」
「橘花~っ‼」
感極まったように叫び、スサノオノミコトが橘花に飛びついてきた。偉丈夫の神は目に涙を浮かべて、橘花の腰に縋りつく。
「ちょっ! ちょっと、スサノオさま!」
「さすが、俺の巫女だ。きっと頷いてくれると信じていたぞ!」
「ああっ! もうっ! ……はいはい。いいから離れてください! あ~、でもそれだけの借金となると、私ひとりの働きで返しきれるかどうか、不安ですね」
シッシッと手を振ると、スサノオノミコトは鼻をすすりながら離れてくれた。ニパッと、人懐こい笑みを浮かべる。
「なんだ、そんなことを気にしていたのか。大丈夫だぞ。なにせ、橘花の賃金単価はものすごく高いはずだからな。橘花にやってもらうのは、俺のように返す当てのない神々からの借金の取り立てだろう。それには、まず必須条件として、我ら神々の姿が見えて話もできなければ、文字通り話にならん。そんな人間は、そんじょそこらにいないからな」
たしかに、普通の人間では神を見ることはできない。
橘花にそれが可能なのは、言うまでもなく柏槇神社の娘だからだ。
だからといって宮司や巫女の血族なら、誰もが神が見えるのかと問われれば、必ずしもそうとは限らない。最近では、見えることはおろか感じることさえできない者が多いと聞く。
まあ、表には絶対出ない情報だから、本当のところはわからないのだが。
橘花や彼女の父だって、自分たちが神々と話ができるだなんてことを世間に公表してはいなかった。
そんなことを言おうものなら、由緒正しい神社から怪しい新興宗教に真っ逆さまに没落すること間違いなしだ。
そこまでいかなくとも、心の病を疑われるのは避けられない。
いや、それよりも今問題なのは、そこではなかった!
「借金の取り立てって? それも神さまから? まさかスサノオさま、私にそんなことをさせるつもりなんですか?」
橘花は大声をあげた。
神々相手に借金の取り立てなんて、無茶ぶりもいいとこだ。
ズズイッとスサノオノミコトに迫る。
「あ、いや……たぶん、そうだろうなという話で、決まったわけでは、その――」
「たぶんじゃありません! 私は、そんな危険なこと、まっぴらごめんですからね!」
「そんなぁ~! 大丈夫だ。橘花ならできる! ……そうだ! 俺の神力を籠めた十拳剣を与えよう。天之羽々斬剣や天叢雲剣はさすがにむりだが、橘花でも扱える手頃な剣を用意するから!」
十拳剣とは、神々の使う剣の名称。拳十個分の長さの剣なのでそう呼ばれている。
「そんなモノ持ち歩いていたら銃刀法違反で捕まってしまいます」
橘花の指摘に、スサノオノミコトは「うっ」と詰まる。
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