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旅行
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久しぶりに見る父の後ろ姿はいつになく楽しそうだった。
「あーけみ、どこ行きたい?」
車のハンドルを片手で支え、父は私の方をみた。嬉しいのかそれとも迫り来る年波のせいか父の顔は私が思っていたよりくしゃっとしていた。私はどこでもいいよと思ったが、今日ぐらいは世間でいう良い子ってやつになってやろうと思った。スマホをしまう。
「私、富士山に行きたい」
「あらいいわね」
そう声を弾ませたのは綺麗な女の人、いや私の母親だった。
「ここから5時間はかかるから、登る時間も考えて今日中に帰っては来れないけど別にいいものね、今日は」
「そうですよね」
不意に出てしまった敬語に私はあっと思い、口を閉ざした。助手席に座っている彼女は歳を感じさせない綺麗な顔で困ったように笑った。車内に気まずい空気が流れる。
「よーし、俺の運転テクニックで一瞬で連れてってやるよ。そしたら1秒でも長く富士山見れるだろ」
空気を察してか、父はいやに大きな声で言った。ごめんなさい私はまだ良い子にはなれそうにないです。
私の生みの母は中学1年生の時、癌により亡くなった。次第に冷えていく手、電源を切ったように力を失った体。その全てを覚えている。忘れられない。世界にどうしてと叫びたかった。そこからは学校にも行かず、部屋に引きこもっていた。暗い世界、そんな世界が変わったのは中学3年生の頃だった。父はこんこんとドアをノックして私に言った。
「父さんな、再婚することにしたんだ」
「こんにちは」
年は30ぐらいだろうか。とても綺麗な人がいた。実際に42と聞いた時は本当に驚いた。お見合い会場で知り合って、趣味が同じなことで仲良くなり、そこから何回も会うようになったらしい。そしてそのまま付き合い、結婚へ。
「しづきさんはな、料理も上手くて、家事も上手で、子供が大好きなんだよ」
饒舌にそう話す父は私にはよく理解できなかった。お見合い会場?なにそれ。私のお母さんは1人だよ。てか、何でそんなものに参加してるのよ。私の心は怒りで一杯だった。
結婚式は欠席した。父が母以外の女の人と仲良くしているのがどうしようもなく気持ち悪く思えた。別にどこの高校でもよかった。ただあの家から離れられたら。そんな気持ちでの勉強でそこそこの進学校に行くことができたのは、父としづきさんに弱さを見られたくないという強い気持ちのおかげだったのかもしれない。
高校進学後の家での記憶はほとんどない。家はただご飯を食べてただ寝るだけの場所だった。家で見る時計の短針はいつも一桁の数字を指していた。それでもいつも食卓には冷えてしまった晩ご飯がラッピングされて並んでいた。そんな生活を今日まで続けてきた。
ではなんでそんな私が今日素直にドライブに賛成しているのかというと、今日がそういう日だからだろう。それか「あけみちゃんとお出かけしたい」とお願いするしづきさんに心を動かされてしまったのかもしれない。
道中昼飯を買いに行くためにサービスエリアに寄った。また登山中や頂上で喉が渇いたり、お腹が空くからその分の水や食料も買っておくようにと父は言った。
「山でも水や食料は売ってるけど、山で買うと高いからな。これが大人の節約術ってやつだよ」
父は得意げに笑った。
その時今日はお金の心配なんてと私は思ったが、それを口に出すほど野暮ではなかった。
富士山のふもとに着いた。
時間は夕方の5時だった。家を出たのは昼の10時だから1時間予定より多くかかっている。父を見ると少年のように無邪気な顔で手と手を合わせていた。まぁいい、父の運転が下手なことは幼少の記憶ながらうっすらと覚えている。でもあと7時間しかない。私たちは急いで登山を始めた。
道中あまり会話らしい会話は私はしなかった。それは父もしづきさんも同じだった。
7合目まで登った時、父はすまんタバコを吸わせてくれとしづきさんと私を置いて、どこかに行ってしまった。ここにくるまでの車内で散々私に禁煙に成功したと話していたのに情けない人だ。それよりもだ、この状況は気まずい。
「…タバコ結局やめてないのか」
タメ口では話せないので独り言のように呟いた。
「いえ、やめてるわよ」
しづきさんはすぐにそう言った。
「あのね、あけみちゃん話があるの」
改まったしづきさんの物言いに私は何事なのかと身構えた。
「私がお母さんになってよかった?」
私は言葉に詰まった。今までなら多分何も言えなかったと思う。気づいていたのに気付いてないふりをしていたのは私だ。今日という最期の日は私の背中を押してくれた。
「しづきさん…お母さんごめんなさい」
出てきた言葉は謝罪だった。
私は知っていた。夜ご飯は毎日私の好物を一つ作ってくれていたこと。私との距離を近づけようと若者の流行を一生懸命勉強していたこと。私が家に連絡もせず、1週間遊びまわっていた時に毎日毎日夜遅くまで私を探してくれていたこと。それでもふらっと帰って来た時に私を全く責めずにただ抱きしめてくれた。しづきさんは私を本当の娘のように愛してくれていること。
「今まで本当にごめんなさい、中学の時に死んじゃったお母さんが忘れられなくて。しづきさんは本当に私を愛してくれていたのに、私だけがお母さんとして愛することが出来なくて、わたし本当に」
「ごめんなさいはいらないよ。あけみちゃん、私のことを無理にお母さんと思わなくていい。ただこれだけは言わせて。愛してるよ」
雨が降った。しづきさんの目からぽつりと落ちた雫は今までの全てだった。
「私も」
声が震えた。最期だからといって思ってもいないことは言えない。
「しづきさんがお母さんになってくれて本当によかった」
だからこそ自信を持って言えた。
それからは他愛のない話をした。学校どうだった?とか何が好きだったの?とか。当たり前の会話だけど、今までは話せていなかったようなことを。私が自分のことを話すたびにお母さんは心から嬉しそうに微笑んだ。夏休み最終日の小学生のように母との会話を詰め込んでいた。でも一つ小学生と違うのは今の私はすごく幸せだ。お父さんが帰ってきた。笑っていた。
「時間もないしそろそろ行こうか、上まで」
父の吐く息からタバコの匂いはしなかった。
「うん!」
楽しそうに2人でそう言った。
頂上についた。
「はぁはぁ、着いた?」
山登りってすごく足くるなと私は思った。本当なら次の日とか筋肉痛になるんだろうな。
「おう着いたぞ。ほらあそこみてみろよ」
そこには既に何人かが集まっていた。
「私たちも行こ!」
しづきさんはそう言って私とお父さんの手を引っ張った。そこは高い崖だった。下を見ると足がすくむ。
「本当にここから飛ぶの?」
「当たり前だろ、今年が終わった瞬間世界は滅びるんだ。それなら地面じゃなくて空中で死んだ方が死後天国に早く行けるんだよ。あの方も仰られていただろ」
そうだよね。あの方が言っていたことだもん。それが真実だ。ふと見るとせっかちなお馬鹿さんが早くに飛び込んでいて、歳が変わる前に地面に激突している。たらりと流れる血に少し怖さを感じた。みんなで手を握る。
「じゃああと30秒で来年になるから、今から20秒後にせーので飛び込むぞ。20,19…」
お母さんも笑ってる。お父さんも笑ってる。みんなみんな笑ってる。私も自然と笑顔になる。
死ぬ前にしづきさんと楽しく話せてよかった。良い子でいれてよかった。天国にはいろんな人がいるよね。お母さん待ってて。
「5,4,3,2,1。せーの」
体が宙に浮いた。その時世界は滅びた。多分。
「あーけみ、どこ行きたい?」
車のハンドルを片手で支え、父は私の方をみた。嬉しいのかそれとも迫り来る年波のせいか父の顔は私が思っていたよりくしゃっとしていた。私はどこでもいいよと思ったが、今日ぐらいは世間でいう良い子ってやつになってやろうと思った。スマホをしまう。
「私、富士山に行きたい」
「あらいいわね」
そう声を弾ませたのは綺麗な女の人、いや私の母親だった。
「ここから5時間はかかるから、登る時間も考えて今日中に帰っては来れないけど別にいいものね、今日は」
「そうですよね」
不意に出てしまった敬語に私はあっと思い、口を閉ざした。助手席に座っている彼女は歳を感じさせない綺麗な顔で困ったように笑った。車内に気まずい空気が流れる。
「よーし、俺の運転テクニックで一瞬で連れてってやるよ。そしたら1秒でも長く富士山見れるだろ」
空気を察してか、父はいやに大きな声で言った。ごめんなさい私はまだ良い子にはなれそうにないです。
私の生みの母は中学1年生の時、癌により亡くなった。次第に冷えていく手、電源を切ったように力を失った体。その全てを覚えている。忘れられない。世界にどうしてと叫びたかった。そこからは学校にも行かず、部屋に引きこもっていた。暗い世界、そんな世界が変わったのは中学3年生の頃だった。父はこんこんとドアをノックして私に言った。
「父さんな、再婚することにしたんだ」
「こんにちは」
年は30ぐらいだろうか。とても綺麗な人がいた。実際に42と聞いた時は本当に驚いた。お見合い会場で知り合って、趣味が同じなことで仲良くなり、そこから何回も会うようになったらしい。そしてそのまま付き合い、結婚へ。
「しづきさんはな、料理も上手くて、家事も上手で、子供が大好きなんだよ」
饒舌にそう話す父は私にはよく理解できなかった。お見合い会場?なにそれ。私のお母さんは1人だよ。てか、何でそんなものに参加してるのよ。私の心は怒りで一杯だった。
結婚式は欠席した。父が母以外の女の人と仲良くしているのがどうしようもなく気持ち悪く思えた。別にどこの高校でもよかった。ただあの家から離れられたら。そんな気持ちでの勉強でそこそこの進学校に行くことができたのは、父としづきさんに弱さを見られたくないという強い気持ちのおかげだったのかもしれない。
高校進学後の家での記憶はほとんどない。家はただご飯を食べてただ寝るだけの場所だった。家で見る時計の短針はいつも一桁の数字を指していた。それでもいつも食卓には冷えてしまった晩ご飯がラッピングされて並んでいた。そんな生活を今日まで続けてきた。
ではなんでそんな私が今日素直にドライブに賛成しているのかというと、今日がそういう日だからだろう。それか「あけみちゃんとお出かけしたい」とお願いするしづきさんに心を動かされてしまったのかもしれない。
道中昼飯を買いに行くためにサービスエリアに寄った。また登山中や頂上で喉が渇いたり、お腹が空くからその分の水や食料も買っておくようにと父は言った。
「山でも水や食料は売ってるけど、山で買うと高いからな。これが大人の節約術ってやつだよ」
父は得意げに笑った。
その時今日はお金の心配なんてと私は思ったが、それを口に出すほど野暮ではなかった。
富士山のふもとに着いた。
時間は夕方の5時だった。家を出たのは昼の10時だから1時間予定より多くかかっている。父を見ると少年のように無邪気な顔で手と手を合わせていた。まぁいい、父の運転が下手なことは幼少の記憶ながらうっすらと覚えている。でもあと7時間しかない。私たちは急いで登山を始めた。
道中あまり会話らしい会話は私はしなかった。それは父もしづきさんも同じだった。
7合目まで登った時、父はすまんタバコを吸わせてくれとしづきさんと私を置いて、どこかに行ってしまった。ここにくるまでの車内で散々私に禁煙に成功したと話していたのに情けない人だ。それよりもだ、この状況は気まずい。
「…タバコ結局やめてないのか」
タメ口では話せないので独り言のように呟いた。
「いえ、やめてるわよ」
しづきさんはすぐにそう言った。
「あのね、あけみちゃん話があるの」
改まったしづきさんの物言いに私は何事なのかと身構えた。
「私がお母さんになってよかった?」
私は言葉に詰まった。今までなら多分何も言えなかったと思う。気づいていたのに気付いてないふりをしていたのは私だ。今日という最期の日は私の背中を押してくれた。
「しづきさん…お母さんごめんなさい」
出てきた言葉は謝罪だった。
私は知っていた。夜ご飯は毎日私の好物を一つ作ってくれていたこと。私との距離を近づけようと若者の流行を一生懸命勉強していたこと。私が家に連絡もせず、1週間遊びまわっていた時に毎日毎日夜遅くまで私を探してくれていたこと。それでもふらっと帰って来た時に私を全く責めずにただ抱きしめてくれた。しづきさんは私を本当の娘のように愛してくれていること。
「今まで本当にごめんなさい、中学の時に死んじゃったお母さんが忘れられなくて。しづきさんは本当に私を愛してくれていたのに、私だけがお母さんとして愛することが出来なくて、わたし本当に」
「ごめんなさいはいらないよ。あけみちゃん、私のことを無理にお母さんと思わなくていい。ただこれだけは言わせて。愛してるよ」
雨が降った。しづきさんの目からぽつりと落ちた雫は今までの全てだった。
「私も」
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「時間もないしそろそろ行こうか、上まで」
父の吐く息からタバコの匂いはしなかった。
「うん!」
楽しそうに2人でそう言った。
頂上についた。
「はぁはぁ、着いた?」
山登りってすごく足くるなと私は思った。本当なら次の日とか筋肉痛になるんだろうな。
「おう着いたぞ。ほらあそこみてみろよ」
そこには既に何人かが集まっていた。
「私たちも行こ!」
しづきさんはそう言って私とお父さんの手を引っ張った。そこは高い崖だった。下を見ると足がすくむ。
「本当にここから飛ぶの?」
「当たり前だろ、今年が終わった瞬間世界は滅びるんだ。それなら地面じゃなくて空中で死んだ方が死後天国に早く行けるんだよ。あの方も仰られていただろ」
そうだよね。あの方が言っていたことだもん。それが真実だ。ふと見るとせっかちなお馬鹿さんが早くに飛び込んでいて、歳が変わる前に地面に激突している。たらりと流れる血に少し怖さを感じた。みんなで手を握る。
「じゃああと30秒で来年になるから、今から20秒後にせーので飛び込むぞ。20,19…」
お母さんも笑ってる。お父さんも笑ってる。みんなみんな笑ってる。私も自然と笑顔になる。
死ぬ前にしづきさんと楽しく話せてよかった。良い子でいれてよかった。天国にはいろんな人がいるよね。お母さん待ってて。
「5,4,3,2,1。せーの」
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