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Ⅱ カイルのサンカラーラの暮らし
近づく二人の夜
しおりを挟む朝になっても雨はまだしとしと降っていた。
暗さ寒さをものともせず元気はつらつ満面の笑みで起き出したカイルとは対照的に、ヴィハーンは昼近くまで目覚めず、しかも恐ろしいほどに不機嫌だった。カイルは蝋燭とランプに火を点け、お湯を沸かしてお茶を淹れる準備をしながら快活に笑う。
「気にすることはない。疲れのあまり友人の家でうっかり眠ってしまうなんてよくあることさ」
友人、というところでチラリと反応を窺うが、ヴィハーンの仏頂面は良くも悪くも微動だにしなかった。
「さあ、その不景気な面は引っ込めてお茶をどうだい」
と言うとドスン! と大きな音がしてテーブルの茶器が揺れる。
「尻尾を振り回して反論したつもりになるのはいい加減よしたまえ。ただでさえ少ない食器が全部パァになってしまうぞ」
すると今度は獣の唸り声のような音が聞こえてきた。カイルはおかしくてたまらず、噴き出しそうになるのを我慢するのに必死だった。
「あり合わせで済まないね。さあ、どうぞ召し上がれ」
かろうじて数枚残っていたパンを温め、埋め合わせにタクールの店で買った缶詰の肉と庭の野菜でスープらしきものを作る。自分のスープは器替わりに空の瓶に入れ、ヴィハーンには残り全部を鍋ごと渡す。それとたっぷりのお茶とで朝ごはん兼昼食にすることにした。苦り切った顔でパンに手を伸ばすヴィハーンを見ながらカイルもテーブルにつく。
「君のことだからまたしても僕に奢られてしまうことと、つがいでもないオメガの家でうっかり眠ってしまうという醜態を晒したことに腹を立てているのはわかるが、いい加減僕を相手にそういうことを気にするのはやめてくれ」
ヴィハーンが『つがいでもないオメガ』のところで寝起きの藪睨みの目を向けた。それにニヤリと笑って返す。
「もちろん君が気にしているのが自分の貞操や評判などではなく、まさしく”つがいの誓いを交わしたわけでもない”未婚のオメガである僕の貞操と評判を慮ってのことだというのはお見通しだ。君という男は結構古風で紳士的だものな」
にっこりしながらそう言うと例の悪態らしき言葉が彼の口から洩れた。
「お、出たな。これで二度目だ。今回はかなり聞き取れたぞ。ええと、ウングリー・カル……」
『やめろ』
「そういえば君、眠りに落ちる寸前に何か教えてくれるって言ってたけどなんだい? サンカラーラ語の先生になってくれるのか?」
『フン』
それから二人は無言でパンやスープを口に詰め込む。
こんなに気分がよく晴れ晴れとしたのは久しぶりのことだ。あの洞窟でヴィハーンに会って以来身体が重くだるさが続いていたが今日は驚くほど快調で食欲も旺盛だ。
「それにしても昨日の魚は美味かった」
まだなんとなく食べ足りない腹を誤魔化そうとお茶を飲みながらそうごちる。
「白身がふんわりとして、皮目はパリパリで。気の利いたソースも何も掛かっていなかったのにな。ああ、でももう少し塩を利かせれば良かったかも」
『それはもっと寄越せという催促か』
「というより……ヴィハーン。あれは買った魚なのかい?」
キラリと目を光らせてヴィハーンを見ると、スープ鍋から目だけ上げて彼が答えた。
『…………自分で獲った』
「そうか! よし、この食事の礼は魚釣りでいいぞ!」
先ほどの「気にするな」というセリフを忘れた振りでここぞとばかりに要求する。ヴィハーンは重苦しいため息をつくと『晴れたらな』と呟いてスープを飲み干した。
食事を終えるとヴィハーンは竈の前にどっかりと腰を下ろす。床にのたくる太い尾をまたいでカイルは皿を洗い炉の端に湯沸かしを置いた。
「なあ、君はもしかして寒がりなのかい? だったらこれを掛けるといい」
カイルはキルトを持って来て彼の肩に掛けてやる。そしてうっかり金髪が剥きだしだったことに気づいて慌ててヘシュカを取りに寝室へ戻ろうとした。
『被らなくていい』
後ろからそう聞こえてカイルは振り向く。
「だが君は金髪が嫌いなんだろう?」
『……もういい』
母の手製のキルトにくるまって竈の火を見ているヴィハーンの大きな背中を見て、カイルはそっと微笑んだ。
「なあ、ちょっと手伝ってくれるかい?」
カイルはヴィハーンを呼んで物置部屋に行く。初めの頃ベッド替わりにしていた大きな長椅子を指さすとヴィハーンはそれを担いで竈の前に置いた。
「ほら、ここなら尻が冷たくないだろう」
それから二人で長椅子に腰かけてだらだらと一日過ごした。途中、カイルは庭にいるロバとニワトリの様子を見に行った。どちらも数日前にダラーが作ってくれた簡素な屋根付きの囲いの中でのんびりしていて、追加の飼い葉やトウモロコシの粒を撒いてやってから玉子を集め、家に戻る。
それからヴィハーンのところに戻って気が向けばしゃべり、お茶を飲む。カイルが母国から持って来たブリタニカ大百科事典の最新版を開くとヴィハーンは興味津々覗き込んだ。彼は特に植物や動物の記事が気に入ったようで、精密なペン画の挿絵をじっくり眺めた後、添えられた文章を読めとカイルに要求した。
夕方になっても雨は止まず、腹が減ったカイルはちょうどタクールの店から運んできていた小麦粉の大袋を指さした。
「明日あたりパドマのところに持っていくつもりだったんだ。相変わらず僕はパンを焼くのが下手でね。これで何か食べれるものを作れるかい?」
するとヴィハーンは渋々竈と本から離れて料理を手伝ってくれた。小麦粉を湯でこねて団子にし、小麦粉と一緒にタクールの店で買ってきた豆や干し肉と一緒にスープに入れる。玉子をどうするか二人で悩み、結局茹でた後塩を振ってそのまま食べた。
皿や鍋をそのままに、ヴィハーンはまた温かい竈の前の長椅子に座って百科事典をめくっている。その隣でお茶を飲みながらカイルは呟いた。
「オメガだとわかってからは、学生時代の友人たちと釣りやドライブに行ったりすることもできなくなった。だから君とまるでキャンプでもしてるみたいに一緒に食べたりしゃべったりできてすごく楽しいよ」
事典を読みふけっているヴィハーンから気の抜けたような生返事が返ってくる。見ると目が半目になっている。
「眠いんだな? 今夜も泊っていくといい。というか寒いうちはここで暮らせばいいのに。元はと言えばここは君の家だ」
アメリカバイソンのページにしつこくかじりついているヴィハーンから事典を取り上げ、寝室に連れて行く。
「おやすみ、ヴィハーン。きっと明日は晴れるよ」
そう言ってキルトを掛けてやると、ふいにこちらを見るヴィハーンと目が合った。
『……なぜお前は俺にここまで気を遣う』
「気を遣ってるわけじゃないさ」
『…………借りが増えるばかりだ』
「まだそんなこと言ってるのか。君は古風で義理堅くていいやつだが、ひどく頑固で馬鹿げた男だ」
カイルは呆れて彼の太い尻尾を足で軽く蹴る。
「なあ、僕は運命なんて信じちゃいないが、遠く離れた地に生まれた者同士がどうした巡り合わせか、こうして出会って同じ時を過ごしているなんて、ものすごい偶然と奇跡の産物だとは思わないか? いつまでこうしていられるかわからないが、せめて今は何も考えずにこの奇跡の出会いを楽しもう」
ヴィハーンの目蓋が重たげに閉じていく。それを眺めながらカイルは囁いた。
「……人に借りを作ることを何より嫌がる君は、きっと今まで誰にも頼らず甘えずに生きてきたんだろうね。だからここにいる間は僕が君を甘やかしてあげるよ。君は僕になんの義理もないし、しがらみもない。だから僕にだけは遠慮しなくていいんだ。わかるかい?」
カイルは大きくあくびをすると、もし明日も雨だったらご飯をどうしよう、と考えながらぬくぬくと眠りについた。
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