竜蛇のつがいと運命論

伊藤クロエ

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Ⅱ カイルのサンカラーラの暮らし

ヴィハーンとオメガ

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    ◇   ◇   ◇


 カイルはタクールに背負われるようにして店になだれ込む。そしてどさりと椅子に倒れ込んだ。

「…………すまない、タクール……」
「いエ、今お茶を淹れまショウ」

 タクールが店の者に指示をして茶器を運ばせる。あまりの気分の悪さにぐったりしていると、スッと鼻から抜けるような清涼感のある匂いが漂ってきてカイルはようやく詰めていた息を吐き出した。温かいお茶を一口飲むと、鼻の奥にこびりついていたあの生臭い匂いが薄れていく。

「……あれは一体なんだったんだ」

 カイルが呟くと、タクールが向かいの椅子に腰を下ろして言った。

「アレは卑しい町の女。ヴァルナの君の妾になりたくテ、あのように無理矢理コーシャの香気を嗅がせたのデス」
「待ってくれ、知らない単語がいくつも出てきたぞ」

 カールは震える手で懐から例の手帳を取り出す。

「”ヴァルナの君”というのはヴィハーンのことか?」
はいハーン。ヴァルナとは神代の巨大な蛇の王のこと。コーシャとは剣の鞘を意味する言葉で、そちらの言葉でオメガ、のことデス」
「つまりあの女はヴィハーンのつがいになりたくてわざと発情して自分のフェロモンを嗅がせたのか。そんなのは犯罪じゃないか!」

 カイルは手帳用の細い鉛筆をぎゅっと握って唇を噛み締めた。

 昔からアルファがフェロモンを浴びせかけてオメガを襲ったり、意に沿わぬ契約を無理強いしたり、ということはカイルの国でもあった。実際あの園遊会でカイルはアルファのリチャードに発情誘発剤を使われそうになった。
 しかしあの女のようにオメガの方がアルファを襲うこともあるのだと初めて知って愕然とした。

「あなたのお国では、オメガがアルファを襲うようなことはなかったデスか?」
「……どうだろう……僕は聞いたことないが……知らないだけかもしれない」

 カイルはしばらく考えた後、ためらいがちに言った。

「……実はオメガのことはよく知らないし、交流もないんだ。なんというか……僕は少々変わった立場にあってね」

 オメガのくせにアルファを恐れず、アルファを敬わずなびきもしない。そんなカイルはアルファからしたら”落とせば最高の勲章になる”反面、煙たい存在でもあった。そしてオメガからしてもカイルはあまりに異端で、親しみを感じる相手ではなかっただろう。だからカイルにはオメガの友人は一人もいなかった。

(というより他のオメガと親しく付き合いたいと考えたことさえなかった。もしかしたら僕はオメガの人たちから見たら相当鼻持ちならない人間だったかもしれないなぁ……)

 そう考えて落ち込みそうになる。だが今はそんなことよりもっと大事な事が他にあった。

「あの場にはたくさんの男たちがいたが、彼らは何を口々に言っていたんだ? 僕が習った言葉とは全然違うようで聞き取れなかったが……」
「あれはとても悪い言葉。ミスターは覚えなくてイイのです」

 タクールは目を閉じると厳しい顔で首を振る。

「彼らにとって神のアルファイーシュワラはトテモ遠い存在。でも神に近い王ダラ イーシュワラならあのような卑しい女でももしかしたら妾になれるカモ、と思った。だから『いいぞ、もっとヤレ』と女をけしかけてイタのデス」
「な……っ、なんてやつらだ!」

 カイルは怒りのあまりつい大声を上げた。

 元々ヴィハーンはオメガのつがいを持つことを拒否していた。それに女王から見合い話を押し付けられたことに激しく怒っていた。彼は誇り高くて自分の考えを曲げず、流されることを良しとしない潔癖な男だ。
 そんな彼に出会い頭にフェロモンを浴びせかけてつがいの契約を迫るなどレイプと同じではないか。
 カイルはヴィハーンの気持ちを思うと、怒りと苛立ちがこみ上げてくる。

「ヴィハーンが心配だ。あの女のフェロモンのせいで具合が悪くなってるかもしれない」

 そう言って椅子から立ち上がろうとすると、タクールが大きな口をにんまりと曲げてカイルを制止する。

「ミスター、心配はいりませン。あのお方がたった一言、王の言葉を発したダケで、みんな虫けらのように倒れた。そうでショウ?」
「ああ……確かに」

 そうだ、あの時ヴィハーンの声がして、その瞬間ものすごい力で頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。あれこそヴィハーンの持つアルファの力の強さの表れだったのか。

「じゃあ……彼は大丈夫なのかな……?」
「そうデス。それにコーシャオメガがあの方にセマるのは初めてのコトじゃない。これまで何度もあった。だからあの方はめったに町には来ないのデス」
「何度もだって?」

 カイルは深いため息をついてこめかみを揉んだ。

「なるほど、彼がオメガを嫌うわけだ」
「あの方は普段はドコかに閉じこもっテいるそうデス。でもごくたまに町に来て、私の知人の店で道具をカウのだそうでデス」
「道具?」
「はい。のみきりたがね。それと顔料もスコシ」
「顔料? 色をつける材料のことかい?」
「そうデス」

 鑿に錐に鏨、そして色をつけるための顔料。そんなものを買ってどこかに閉じこもって何をしているんだろうか? にわかに興味が湧いてくる。
 思えばカイルはヴィハーンのことはほとんど知らない。だから普段どこで何をして暮らしているのかまったく想像もつかなかった。そうやってつい考え込んでいるとふいにタクールがカイルの顔を覗き込んできた。

「もう気分はだいじょうぶデスか? ミスター」
「えっ? あ、ああ……大丈夫……」

 と答えようとして、カイルはついさっき自分より小さなタクールが担ぐようにして店まで連れて来てくれたことを思い出した。

「さっきはありがとう、タクール。おかげで助かった。きっと重かっただろう」

 するとタクールが首を振って「問題アリまセン」と言った。

「そうだ、実はこの間の小麦や缶詰のお代を払いに来たんだ」

 気を取り直してカイルは椅子に座ったまま姿勢を正す。
 
「遅くなってしまって本当に済まない。こちらの通貨を持ち合わせていないのだが、金か銀で取引することはできるだろうか?」
「それもだいじょうぶ。だにえるサンがお国からたくさん品物持ってきてくれまシタ。そのお代の分、ミスターに便宜をハカるようにとの約束デス」
「ダンがそんなことを?」

 カイルは彼から貰った手帳を見下ろすと、心の中で感謝を呟く。

「そうか、だがこれからの分はできるだけ自分で払いたいので、その時は金銀現物で支払いできるだろうか?」

 カイルは持って来た金貨、銀貨を一枚ずつ手渡すと、タクールが秤と拡大鏡を持って来てあれこれ調べる。

「この純度ならだいじょうぶデス」
「そうか、良かった。欲しいものが色々あるんだ」

 カイルは肉や魚の缶詰、お茶、追加の砂糖や蝋燭などを口頭で注文する。それからふと思いついて尋ねた。

「タクール、こちらの国にはオメガのフェロモンを抑える薬のようなものはあるだろうか」

 こちらへ来る前にいろいろとサンカラーラのことを勉強したが、その時に《旧大陸》独特の生薬の話を聞いた覚えがある。
 今日の出来事を見て、万が一にもカイルが発情してヴィハーンにフェロモンを浴びせたりするわけにはいかない、と強く思った。そのためにも用心するに越したことはない。するとタクールが頷いて言う。

「サンカラーラの薬は有名デス。もちろんコーシャの血を鎮める薬もありマス。ただ……買う人がほとんどいないから、今在庫がないデス。薬師に直接聞くコトができたラ……」
「この辺りに住んでいる人なのかい?」

 カイルが尋ねると、タクールが鼻先に乗せた丸眼鏡を押し上げて言った。

「崖の上に住んでいる、パドマという女です」
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