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Ⅱ カイルのサンカラーラの暮らし
町での騒動
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「そうだ、小麦の代金……!」
ある日、針と糸でおっかなびっくりシャツのかぎ裂を繕っていたカイルは、そう叫んで椅子から立ち上がろうとして床に転げ落ちた。
「しまった……この椅子はかなり高いのを忘れてた……」
未だにこの家の大きさに慣れないカイルは、ぶつけた膝を撫でてよろよろと立ち上がる。
先日、タクールの店で小麦や缶詰を買った時「お代はご心配なく」と言われたが、それがどういう意味だったのかまだ確認していないことを思い出したのだ。
「あの時はヴィハーンを追いかけるために慌てて店を出てしまって、結局そのままになってしまった。代金がまだならすぐに支払わないと……!」
まさか金に関することでこんな不義理を働いてしまうとは。カイルは真っ青になって寝台の藁のマットの下に隠した袋の中から、こちらの国でも使えるようにと用意していた金貨と銀貨を取りだし、財布にしまう。そして帽子を被ろうとして少し考え、ヴィハーンがくれた絹のヘシュカを頭と首に巻いて家を飛び出した。
港町は相変わらずの活気で、昼近いせいもあってかあちこちに屋台まで並んでいる。どこからか肉の焼けるいい匂いがしてきて、ついフラフラとそちらを覗きに行きかけた時、トカゲによく似た小柄な港の人たちの向こうににょっきりと飛び出した大男の背中が見えた。
「おや、ヴィハーンじゃないか」
またしてもここで会うとは実に寄寓だ、とカイルは嬉しくなる。
「こんな騒々しいところは好きじゃないなんて言っていたくせに」
なんなら一緒に屋台で昼飯でもどうだい? と声を掛けようとした時、突然どこからか甲高い女の悲鳴のようなものが聞こえてきて、踏み出そうとした足を止めた。
「な、なんだ?」
急にざわざわと港の男たちが色めきたち、さらに女の声が響き渡る。ヴィハーンの周りから一斉に人が引いて、カイルは彼の足元に誰かがすがりついて何かわめいているのを見た。
(まさか、ヴィハーンが誰かに絡まれてるのか!?)
急いで駆けつけようとしたが、ぶわり、とひどく生臭い血のような匂いに襲われてカイルは思わず息を止め、手で鼻を覆う。
(な、なんだこの匂い……!)
『■■■……! ■■■、■■■■、■■■……!』
ヴィハーンに向かって泣き叫んでいるのは、青い肌に長い尾を持つ女だった。身体に巻き付けた布はひどく乱れていて片方の胸が剥き出しになっている。そしてその生臭い匂いはその女から漂っているようだった。女はヴィハーンのゆったりとしたズボンを引きちぎりそうなほど強く掴み、その手を払おうとする彼の腕に爪を立ててしがみつこうとしている。
(何か……ヴィハーンに何か言ってる)
まるでヴィハーンに訴え、哀願しているように見えた。そして周りの男たちが一人、二人とそれを囃し立て、女を煽り始める。
(よくわからないが、何か良くないことが起こってる気がする……!)
その時、群衆のざわめきと女の金切り声の間から聞き覚えのある声がカイルの耳に飛び込んで来た。
『その手を離せ』
(ヴィハーンの声だ)
怒りを押し殺したような、その低くひび割れた声に一瞬皆が沈黙する。だが女が再び何かを叫ぶと、さらに匂いが強く一気に膨れ上がった。
(これは……オメガのフェロモンだ……!)
女の顔は赤く上気し、瞳は濡れ濡れとして口からは唾液が垂れて糸を引いている。間違いなく女は発情している。
「これはまずい……!」
こんな大勢人がいるところでフェロモンをまき散らしたりしたら、それにあてられたアルファたちに集団で襲われてしまう可能性だってある。
カイルは慌てて上着を脱いで駆けつけようとしたが、蒸し熱さのせいで白いシャツ一枚で出かけてきていたことに気づいて舌打ちをした。仕方なく上着の代わりに巻き付けていたヘシュカを剥がそうとした時、後ろから強く腕を引っ張られた。
「な……っ、あれ、タクール!?」
「そうデス、ミスター、こちらへ」
そう言った背の低い男は黄色の吊り目、うっすら光る鱗に覆われた肌、尖った鼻先に丸眼鏡を乗せている。ちょうどカイルが会いに行こうとしていた商人タクールだ。彼はカイルより小柄な見た目からは想像できないほど強い力でカイルを引っ張り、群衆から遠ざける。
「ええと……『手、離す、わたし行く』」
「いけません、あの方はだいじょうブです。さ、こちらへ」
「だがヴィハーンが……」
カイルが焦って振りむこうとした時、突然地割れのような声がカイルの脳を殴りつけた。
『मौनम् !』
何を言ったのかはわからなかった。だが途端に足腰の力が抜け、地面にくずおれそうになる。それをタクールが自分の身体をつっかい棒のようにして支えてくれた。
「こちらへ、ミスター」
タクールに引きずられながら振り向くと、先ほどの群衆がみな腰を抜かしてバタバタと倒れている。あの女も呆けたような顔でへたり込んでいた。その中をヴィハーンは振り向きもせず歩き去った。
ある日、針と糸でおっかなびっくりシャツのかぎ裂を繕っていたカイルは、そう叫んで椅子から立ち上がろうとして床に転げ落ちた。
「しまった……この椅子はかなり高いのを忘れてた……」
未だにこの家の大きさに慣れないカイルは、ぶつけた膝を撫でてよろよろと立ち上がる。
先日、タクールの店で小麦や缶詰を買った時「お代はご心配なく」と言われたが、それがどういう意味だったのかまだ確認していないことを思い出したのだ。
「あの時はヴィハーンを追いかけるために慌てて店を出てしまって、結局そのままになってしまった。代金がまだならすぐに支払わないと……!」
まさか金に関することでこんな不義理を働いてしまうとは。カイルは真っ青になって寝台の藁のマットの下に隠した袋の中から、こちらの国でも使えるようにと用意していた金貨と銀貨を取りだし、財布にしまう。そして帽子を被ろうとして少し考え、ヴィハーンがくれた絹のヘシュカを頭と首に巻いて家を飛び出した。
港町は相変わらずの活気で、昼近いせいもあってかあちこちに屋台まで並んでいる。どこからか肉の焼けるいい匂いがしてきて、ついフラフラとそちらを覗きに行きかけた時、トカゲによく似た小柄な港の人たちの向こうににょっきりと飛び出した大男の背中が見えた。
「おや、ヴィハーンじゃないか」
またしてもここで会うとは実に寄寓だ、とカイルは嬉しくなる。
「こんな騒々しいところは好きじゃないなんて言っていたくせに」
なんなら一緒に屋台で昼飯でもどうだい? と声を掛けようとした時、突然どこからか甲高い女の悲鳴のようなものが聞こえてきて、踏み出そうとした足を止めた。
「な、なんだ?」
急にざわざわと港の男たちが色めきたち、さらに女の声が響き渡る。ヴィハーンの周りから一斉に人が引いて、カイルは彼の足元に誰かがすがりついて何かわめいているのを見た。
(まさか、ヴィハーンが誰かに絡まれてるのか!?)
急いで駆けつけようとしたが、ぶわり、とひどく生臭い血のような匂いに襲われてカイルは思わず息を止め、手で鼻を覆う。
(な、なんだこの匂い……!)
『■■■……! ■■■、■■■■、■■■……!』
ヴィハーンに向かって泣き叫んでいるのは、青い肌に長い尾を持つ女だった。身体に巻き付けた布はひどく乱れていて片方の胸が剥き出しになっている。そしてその生臭い匂いはその女から漂っているようだった。女はヴィハーンのゆったりとしたズボンを引きちぎりそうなほど強く掴み、その手を払おうとする彼の腕に爪を立ててしがみつこうとしている。
(何か……ヴィハーンに何か言ってる)
まるでヴィハーンに訴え、哀願しているように見えた。そして周りの男たちが一人、二人とそれを囃し立て、女を煽り始める。
(よくわからないが、何か良くないことが起こってる気がする……!)
その時、群衆のざわめきと女の金切り声の間から聞き覚えのある声がカイルの耳に飛び込んで来た。
『その手を離せ』
(ヴィハーンの声だ)
怒りを押し殺したような、その低くひび割れた声に一瞬皆が沈黙する。だが女が再び何かを叫ぶと、さらに匂いが強く一気に膨れ上がった。
(これは……オメガのフェロモンだ……!)
女の顔は赤く上気し、瞳は濡れ濡れとして口からは唾液が垂れて糸を引いている。間違いなく女は発情している。
「これはまずい……!」
こんな大勢人がいるところでフェロモンをまき散らしたりしたら、それにあてられたアルファたちに集団で襲われてしまう可能性だってある。
カイルは慌てて上着を脱いで駆けつけようとしたが、蒸し熱さのせいで白いシャツ一枚で出かけてきていたことに気づいて舌打ちをした。仕方なく上着の代わりに巻き付けていたヘシュカを剥がそうとした時、後ろから強く腕を引っ張られた。
「な……っ、あれ、タクール!?」
「そうデス、ミスター、こちらへ」
そう言った背の低い男は黄色の吊り目、うっすら光る鱗に覆われた肌、尖った鼻先に丸眼鏡を乗せている。ちょうどカイルが会いに行こうとしていた商人タクールだ。彼はカイルより小柄な見た目からは想像できないほど強い力でカイルを引っ張り、群衆から遠ざける。
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「だがヴィハーンが……」
カイルが焦って振りむこうとした時、突然地割れのような声がカイルの脳を殴りつけた。
『मौनम् !』
何を言ったのかはわからなかった。だが途端に足腰の力が抜け、地面にくずおれそうになる。それをタクールが自分の身体をつっかい棒のようにして支えてくれた。
「こちらへ、ミスター」
タクールに引きずられながら振り向くと、先ほどの群衆がみな腰を抜かしてバタバタと倒れている。あの女も呆けたような顔でへたり込んでいた。その中をヴィハーンは振り向きもせず歩き去った。
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