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Ⅰ ”最も優秀なオメガ”カイルのお見合い話
来客
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それから数日の間、カイルはひたすら庭の雑草を抜き荷物を片付け、井戸の水で洗濯と掃除をした。隣のトカゲ夫婦も毎日手伝いにやってきてくれた。ダラーは庭の隅を杭と縄で囲ってロバの住処を作り、パドマは毎日平たい種なしのパンを持って来てくれた。カイルはオリーブやジャムの瓶詰を開け、彼らと一緒に食事をした。
隣人がおしゃべりだとずいぶんと語学の学習がはかどるものだ、とカイルはダンの手帳にあれこれ書き込みながら感謝する。
(そろそろ町へ行ってみようか)
この家に住み始めて四日目にカイルはそう思い立った。毎日崖から眺めていた港や町を実際歩いてみたいし、ダンが教えてくれた商人にも会ってみたかった。
(パドマたちのおかげでだいぶ彼らの話も聞き取れるようになってきた。話す方はまだ不得手だが、筆談も交えればなんとかなるだろう)
カイルはトランクの中から新しいズボンを出し、昨日干しておいたシャツを着る。アイロンがないのが残念だが仕方がない。
昼を過ぎると一気に蒸し暑くなるので、行儀が悪いと思いつつこちらでは毎日シャツの首のボタンを二つほど開け、袖をまくって生活していた。だが正式にではなくとも人に紹介された相手に会いに行くのにその恰好ではさすがに失礼だろう。
仕方なく物置に吊るしておいたジャケットとネクタイを手に台所兼食堂に出た途端、いつも誰もいない家の中に立ちはだかる巨大な人影に気づいて息を呑んだ。
「び……びっくりした」
カイルの呟きに振り向いたのはヴィハーンだった。先日と同じく片肌を脱いだゆったりとした上衣にゆるやかなズボンを履いていて、高く縄のように結い上げられた黒い髪が逞しい背中に落ちている。彼が身体をこちらに向けると巨大な尻尾がゆっくりと回って後ろを向いた。なんとなくそれを目で追ってから、慌てて顔を上げてにっこり微笑む。そしてパドマたちのお陰で語彙だけは各段に増えたサンカラーラの言葉で挨拶をする。
『おはようさんだよ、旦那。あんた調子はどうだいね、たーんと眠れたかいな』
カイルは耳の良さには自信があった。だからパドマやダラーが毎朝言う挨拶を完璧に再現できた、と密かに胸を張る。だがヴィハーンは感心するどころかなぜかあっけにとられた顔でカイルを見た。
これまでずっと不機嫌そうな顔しかしなかった彼が初めて見せた表情にカイルは(おやおや、これはこれは)と瞬きをする。
(こんな顔もするのか、竜蛇族の王子さまは)
などと呑気に観察していたら、ヴィハーンがドスン! と大きく一歩踏み出した。床がぐらりと揺れた気がして足を踏ん張ると、今までで一番深く眉間に皺を刻んでヴィハーンが唸るような声で言う。
『……お前、なんだその言葉は』
「ええと……『わたし、覚えた。朝のあいさつ』」
そう答えてにっこり微笑むと、ヴィハーンの不機嫌そうな顔が最高潮になった。
(なぜだ……発音は完全にダラーと同じにできたはずなのに……)
微笑みの下で密かに冷や汗を流していると、ヴィハーンがフン、と鼻を鳴らしてようやくカイルから離れた。途端に重苦しい圧が抜けてカイルは息をつく。
「あー、どこか間違っていたかな」
『…………いや、いい』
思わず母国語で呟いてしまったカイルにヴィハーンが答えた。
「あれ? ひょっとして言葉通じてるのかい?」
不思議に思って尋ねると、今度は返事は返ってこなかった。ヴィハーンはカイルから顔を背け、家の中を見回している。カイルはズボンの隠しから取り出したダンの手帳を見ながら言った。
『家、掃除した。僕、パドマ、ダラー。あなた大丈夫、嬉しい』
文法に難はあっても単語を並べればとりあえずは通じることはパドマやダラー相手の会話で実証済みだ。すると視界の隅から突然にゅっと伸びて来た大きな手に手帳ごと腕を取られる。急に引っ張られてカイルはつま先立ちになった。ヴィハーンが覆いかぶさるようにして手帳の中身を覗きこんでくる。しばらく中を読んでいたが、ふいにくろぐろとした目をカイルに向けて言った。
『パドマとダラーというのは誰だ』
「パドマ? ああ、ええとなんと言えばいいかな」
カイルは窓の外を指さして『向こう。友人、二人』と答える。隣人という単語がわからず、友人と言い換えてみた。ヴィハーンは長い間カイルを見つめた後、フイと視線を逸らしてようやく手を離してくれた。そして竈のそばの台にもたれて腕を組む。昨日見たのと同じように、四本ある腕のうち上腕は分厚い胸の前で組み、下の腕は腰に当てている。どうやらそれが彼のお決まりのポーズらしかった。
ヴィハーンが無言で自分を見ている。その視線はひどく無遠慮で、まるで品定めされているようで人によってはひどく不快に感じただろう。だが自分をじろじろ見てくる人間たちには慣れっこなカイルは特に気にならない。かえってこれ幸いとばかりに同じように相手を観察した。
彫が深くて甘さなど一かけらもない厳しい顔つきに太くて頑丈そうな首。小山のように盛り上がった肩や腕の筋肉、分厚い胸や胴周りはあまりに人間離れしていて圧倒的だ。だがカイルは彼の肉体の造形よりもその不思議な色合いと質感に興味を抱く。
浅黒い肌がほんのり発光しているように感じるのは、きっとところどころ見える薄い鱗のせいだ、とカイルは気づいた。逞しい腕から太い血管が浮き出た手の甲にかけて、もう一枚の皮膚のように鱗に覆われている。その滑らかで規則的な連なりはカイルの目にひどく美しく映った。
隣人がおしゃべりだとずいぶんと語学の学習がはかどるものだ、とカイルはダンの手帳にあれこれ書き込みながら感謝する。
(そろそろ町へ行ってみようか)
この家に住み始めて四日目にカイルはそう思い立った。毎日崖から眺めていた港や町を実際歩いてみたいし、ダンが教えてくれた商人にも会ってみたかった。
(パドマたちのおかげでだいぶ彼らの話も聞き取れるようになってきた。話す方はまだ不得手だが、筆談も交えればなんとかなるだろう)
カイルはトランクの中から新しいズボンを出し、昨日干しておいたシャツを着る。アイロンがないのが残念だが仕方がない。
昼を過ぎると一気に蒸し暑くなるので、行儀が悪いと思いつつこちらでは毎日シャツの首のボタンを二つほど開け、袖をまくって生活していた。だが正式にではなくとも人に紹介された相手に会いに行くのにその恰好ではさすがに失礼だろう。
仕方なく物置に吊るしておいたジャケットとネクタイを手に台所兼食堂に出た途端、いつも誰もいない家の中に立ちはだかる巨大な人影に気づいて息を呑んだ。
「び……びっくりした」
カイルの呟きに振り向いたのはヴィハーンだった。先日と同じく片肌を脱いだゆったりとした上衣にゆるやかなズボンを履いていて、高く縄のように結い上げられた黒い髪が逞しい背中に落ちている。彼が身体をこちらに向けると巨大な尻尾がゆっくりと回って後ろを向いた。なんとなくそれを目で追ってから、慌てて顔を上げてにっこり微笑む。そしてパドマたちのお陰で語彙だけは各段に増えたサンカラーラの言葉で挨拶をする。
『おはようさんだよ、旦那。あんた調子はどうだいね、たーんと眠れたかいな』
カイルは耳の良さには自信があった。だからパドマやダラーが毎朝言う挨拶を完璧に再現できた、と密かに胸を張る。だがヴィハーンは感心するどころかなぜかあっけにとられた顔でカイルを見た。
これまでずっと不機嫌そうな顔しかしなかった彼が初めて見せた表情にカイルは(おやおや、これはこれは)と瞬きをする。
(こんな顔もするのか、竜蛇族の王子さまは)
などと呑気に観察していたら、ヴィハーンがドスン! と大きく一歩踏み出した。床がぐらりと揺れた気がして足を踏ん張ると、今までで一番深く眉間に皺を刻んでヴィハーンが唸るような声で言う。
『……お前、なんだその言葉は』
「ええと……『わたし、覚えた。朝のあいさつ』」
そう答えてにっこり微笑むと、ヴィハーンの不機嫌そうな顔が最高潮になった。
(なぜだ……発音は完全にダラーと同じにできたはずなのに……)
微笑みの下で密かに冷や汗を流していると、ヴィハーンがフン、と鼻を鳴らしてようやくカイルから離れた。途端に重苦しい圧が抜けてカイルは息をつく。
「あー、どこか間違っていたかな」
『…………いや、いい』
思わず母国語で呟いてしまったカイルにヴィハーンが答えた。
「あれ? ひょっとして言葉通じてるのかい?」
不思議に思って尋ねると、今度は返事は返ってこなかった。ヴィハーンはカイルから顔を背け、家の中を見回している。カイルはズボンの隠しから取り出したダンの手帳を見ながら言った。
『家、掃除した。僕、パドマ、ダラー。あなた大丈夫、嬉しい』
文法に難はあっても単語を並べればとりあえずは通じることはパドマやダラー相手の会話で実証済みだ。すると視界の隅から突然にゅっと伸びて来た大きな手に手帳ごと腕を取られる。急に引っ張られてカイルはつま先立ちになった。ヴィハーンが覆いかぶさるようにして手帳の中身を覗きこんでくる。しばらく中を読んでいたが、ふいにくろぐろとした目をカイルに向けて言った。
『パドマとダラーというのは誰だ』
「パドマ? ああ、ええとなんと言えばいいかな」
カイルは窓の外を指さして『向こう。友人、二人』と答える。隣人という単語がわからず、友人と言い換えてみた。ヴィハーンは長い間カイルを見つめた後、フイと視線を逸らしてようやく手を離してくれた。そして竈のそばの台にもたれて腕を組む。昨日見たのと同じように、四本ある腕のうち上腕は分厚い胸の前で組み、下の腕は腰に当てている。どうやらそれが彼のお決まりのポーズらしかった。
ヴィハーンが無言で自分を見ている。その視線はひどく無遠慮で、まるで品定めされているようで人によってはひどく不快に感じただろう。だが自分をじろじろ見てくる人間たちには慣れっこなカイルは特に気にならない。かえってこれ幸いとばかりに同じように相手を観察した。
彫が深くて甘さなど一かけらもない厳しい顔つきに太くて頑丈そうな首。小山のように盛り上がった肩や腕の筋肉、分厚い胸や胴周りはあまりに人間離れしていて圧倒的だ。だがカイルは彼の肉体の造形よりもその不思議な色合いと質感に興味を抱く。
浅黒い肌がほんのり発光しているように感じるのは、きっとところどころ見える薄い鱗のせいだ、とカイルは気づいた。逞しい腕から太い血管が浮き出た手の甲にかけて、もう一枚の皮膚のように鱗に覆われている。その滑らかで規則的な連なりはカイルの目にひどく美しく映った。
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