月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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1巻

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   第二章 神子みこの受難


 目を覚ますと辺りが真っ暗で、思わず飛び起きた。
 しまった、神殿長が話を、と言っていたのに眠ってしまったようだ。
 今は何時頃だろうと見回すと、部屋の中は静まり返っていて人の気配もない。少し肌寒さを感じて、掛けられていた薄布を体に巻きつけて窓から外を覗く。するとランプの灯った白い石造りの街並みとどこまでも広がる砂漠、そして数えきれないほどの星がまたたく夜空が見えた。約束をすっぽかしただろうことに胃が重くなりつつも、あまりに美しい星空に目を奪われる。本当にアラビアンナイトの世界だ。匂いも昼間とはどこか違っていて、肌に当たる空気はとても冷たい。
 そういえば父親の本棚にあった昔のマンガに『砂漠は乾燥していて雲が少ないから、昼夜の気温差がとても激しい』と書いてあったな、とふと思い出した。

「……ほんとに、夢じゃないんだよな」

 寒さに粟立つ腕を擦りながら、日本とは明らかに違う異国の景色を見て呟く。教室からいきなり飛ばされた異世界で神の遣いと呼ばれるなんて、夢でなければ完全にマンガの世界だ。
 ……だめだ。やっぱり僕が雨を呼ぶなんてとてもできるとは思えない。けれどこの世界の人たちは皆、僕が《慈雨じう神子みこ》だと本当に信じているようだった。

「山の上に雲がかかったのが証拠だって言ってたけど……」

 神子みこが力を示すと、アジャール山に恵みの前兆が表れるのだとアドリーが言っていた。そしてその前兆は僕がこの世界に来てからすでに何度か目撃されているらしい。けれど僕には自分がそれを引き起こしている自覚はまったくない。

「何かの間違いだと思うんだけどなぁ……」

 そもそもここは本当にまったくの異世界なんだろうか。
 この世界に住んでいる人たちは皆僕たち人間と全然変わらないし、この建物の建材も今朝食べた料理も僕がいた地球とそっくりだ。空の月が青いとか二つあるということもない。この世界ではどうやって生命が生まれてどう進化したのかは知らないが、何もかもが偶然地球とまったく同じになるなんてどう考えてもおかしい。

「もしかして昔のエジプトとかアラブとかそういう場所にタイムスリップしたのかな」

 そう考える方がよっぽど自然に思える。でもそれなら『雨を降らせる力を持つ人間を召喚する』なんてことができるはずがない。

「同じ星座があったら間違いなくタイムスリップ説でオーケーだと思うんだけど」

 窓から身を乗り出して空を見上げる。
 けれど夜空に輝く星の数は現代日本とは比べ物にならないほど多く、火星や金星はおろか北極星だってどれかわからなかった。
 結局何一つ悩みは解決できず、眠気も戻ってきそうにない。少し辺りを歩いてみたら気分転換になるだろうか。そう思って寝室から居間を抜け、廊下へと出る扉まで歩いて行った。だが扉に手を掛けたところでふと迷う。
 今朝ここを開けた時、黒いよろいとマントをつけた恐ろしく大きな男が立っていた。ぶかに布を被っていて表情はよく見えなかったが、布の下から僕を見下ろしたあの黒い目は今でもはっきりと覚えている。
 重い扉に手を当て、恐る恐る押してみる。すると廊下の壁に灯されたランプに照らされて、あの男が立っているのが見えた。すぐに扉を閉めようとしたが、それより早く男が僕に気付く。目が合った瞬間、なぜかぞくりと奇妙な震えに襲われた。
 逃げ出したいのになぜか身体が動かない。まるで何かに魅入られたように目が離せなくて――

「いかがなされましたか、神子みこ様」

 後ろから突然ウルドの声がして、反射的に扉を閉めた。そして扉に額を押し付け、暴れる心臓を必死になだめる。ウルドはひざまずいて落ちてしまった薄掛けを僕に差し出しながら、心配そうに言った。

「すでに深更しんこうでございます。ご気分でも悪くなられましたか?」

 もう夜中だと聞いて、そんな時間まで室内に控えてくれていたのかと驚く。同時に今の奇行を見られていたことに顔が熱くなった。

「ごめん、なんでもないんだ。ただ外に誰かがいて、驚いて……」
神子みこ様の護衛でございましょうか。神殿奥のこの場所まで入れるのは、アル・ハダールの者のみ。どうぞご安心くださいませ」

 そう言ってウルドは僕を安心させるように微笑んだ。
 その言葉を聞いて寝台に戻る。天蓋てんがいから下がるベールを直してウルドは寝室から出て行った。
 護衛だって? しかもこんな夜中まで? 神子みこってそこまでVIP待遇なのか。でも今も初めて会った時も、あの男が僕を見下ろした目はもの凄く冷たくて恐ろしいほどの威圧感だった。穏やかで温かいサイードさんの目とは大違いだ。正直、守られているというより抜け出さないよう見張られているようで怖かった。そのくせ、暗がりの中の見上げるほどの巨躯きょくとあの冷たい目が僕の脳裏に焼き付いて離れないのはなぜなんだろう。
 とても眠れそうになくて布団の中で何度も寝返りをしていると扉の開く音がした。
 ウルドだろうか、と耳をそばだてると、思わぬ声が鼓膜を揺らした。

「何かあったのか、カイ」
「サ、サイードさん⁉」

 飛び起きると、サイードさんがベールを開けて僕の顔を覗き込んでいた。顔の近さについ顔が熱くなる。サイードさんは形のよい眉をしかめて僕の顔に触れた。

「ダルガートから連絡を受けた。悪い夢でも見たのか?」
「え……いや、そういうわけじゃないんですけど……」

 ダルガート、という聞き覚えのない名前はもしかして外にいた男の名前だろうか。
 どうにも眠れなくて、と言葉を濁すと、サイードさんは少し考えてから僕を抱き上げた。そしてさっき僕が外を眺めていた窓を開けると、外に向かってひょい、と僕を座らせる。投げ出された足が空を切って思わず「うひゃっ」と声をあげた。あまりにも突拍子もない彼の行動に度肝を抜かれる。

「怖くはないか?」
「だ、大丈夫です」

 この神殿は山の斜面に立っているせいで相当な高さがある。けれどサイードさんが後ろからしっかりと腕を回して抱いてくれているお陰で、驚きはしたが怖さはあまり感じなかった。宙に投げ出した素足にひんやりとした夜の風が当たる。

「今夜はいい月だ。太陽神ラハルは昼を、月神カマルは夜をべ、常に我らを守り導いてくれる。だからカイも夜の闇を恐れることはない」

 言われて空を見上げると、さっき一人で見た時はただ元の世界そっくりだとしか思わなかった月がなぜか全然違って見える。信じられないほどたくさんの光がまたたく星の海と半分ほど欠けた月はまるで御伽噺おとぎばなしのように綺麗だった。こんな風に外に足を投げ出して座っているとまるで夜の空に浮かんでいるような錯覚におちいりそうになる。わくわくするけれど、少し怖い。それはとても不思議な感覚だった。

「僕、こんな夜中に誰かと星を眺めるなんて初めてです」

 そう言ってサイードさんを見上げると、彼は少し目を見開いて微笑んだ。

「そうか。少しでも気が晴れたのならいいが」
「サイードさんは今日は何をしてたんですか?」

 するとまた少し考えるようなそぶりを見せてサイードさんが言った。

「今、神殿下の町には神子みこの召喚を祝って大陸中から巡礼者たちが集まっている。その間は人が多い分、揉め事も多い。慣例で神子みこを得た我らが警備に当たることになっているんだ」
「じゃあ忙しいんですね」
「ああ。そのせいで国から連れてきた馬の世話を従士任せにしているのがどうも……いや、つまらない話だな。すまない」
「そんなことないですよ」

 馬、という言葉が出た時、不意にサイードさんの表情が明るくなった。それから他の人に世話を任せっぱなしにしているのが、と言いながら少しだけ眉間にしわが寄る。いつも凛々しい彼の珍しい表情の変化に思わず顔が緩む。垣間見えた彼の人柄にちょっと嬉しくなって微笑むと、サイードさんは少しバツが悪そうに顔をそむけてしまった。そして窓の外を指さす。

「ああ、ほら。町はあそこだ」

 その言葉と同時に腹に回されたサイードさんの腕に力がこもった。夜着の薄い布越しにじんわりと温もりが肌に伝ってくる。言われるがままに視線を落とすと、すでに深夜だというのに神殿の下の町にまだところどころ明かりが灯っているのが見えた。

「本当は気晴らしに連れて行ってやりたいが、今は巡礼者が多すぎて不審な者がいても気付きにくい。すまないがしばらくはこの部屋から出ないでいてほしい」
「……わかりました」

 彼の声音は僕を心配するようだったけれど、それも神子みこを逃がさないためのものなのだろうか。
 扉の外にいた男のことを思い出して少し胸が痛む。すると不意に風が吹いて夜着のすそを揺らした。太陽に熱せられた昼の空気とは打って変わって、夜の神殿はこうにまとわりつく甘さと刺激的なスパイスが混ざり合ったような不思議な匂いがする。

「身体が冷えてしまうな」

 ふと気付いたようにサイードさんが呟き、僕を床に下ろすと窓を閉めて掛け布を引いた。部屋が月あかりを失って暗くなり、サイードさんの体温が遠ざかる。けれど次の瞬間彼は僕をしっかりと抱きかかえて寝台に座らせてくれた。

「ウルド」

 サイードさんが声を掛けると彼が静かに茶器を運んできた。食事時のすっきりとしたお茶と違ってこれはほんのり甘い。銀のお盆の上には蝋燭ろうそくを立てた小さなランタンもっていて、オレンジ色の明かりに照らされたサイードさんはよく見るとずいぶんとラフな格好をしていた。白いストンとした長い服の肩に丈の長い上着を引っ掛けているだけだ。それに昼間は後ろで結んでいた前髪が下りている。自室で休んでいたところを来てくれたのだろう。
 いつもキリッとしている彼のプライベートな姿を見て少し気恥ずかしくなると同時に、申し訳なさがつのる。僕は茶器をウルドに渡して、縮こまるように頭を下げた。

「あの、こんな夜更けにすみませんでした」
「気にするな。もう眠れそうか?」
「はい」

 頷くと、サイードさんはほっとしたように微笑み、僕を寝台に横たえようとする。僕は薄掛けを引っ張りながらどうしても気になったことを尋ねた。

「……僕は見張られてるんですか? その、外に出ないように」

 するとサイードさんはわずかに目をみはり、首を振った。

「誓ってそのつもりはない。この神殿は元々出入りが容易で、あまりに外部への守りが薄い。巡礼者に紛れてよからぬことを企む者がいるのではと警戒しているだけだ」
「そうなんですか」

 納得できるような、できないような言葉に曖昧あいまいに頷くとサイードさんは続けた。

「俺もしばらくここにいよう。安心して休むといい」
「……ありがとうございます」

 低く穏やかな彼の声は、温かくて少しくすぐったくて妙にふわふわする。その晩サイードさんは本当に僕が寝付くまで傍にいてくれた。


    ◇


 翌朝、膝をついて服を差し出すウルドを断って自分で着替えをした。やっぱりどう見ても十は年上の人に服を着せてもらうのは抵抗がある。ウルドは少しだけ困ったような顔をしたけれど僕の望む通りにしてくれた。スタンドカラーの柔らかな服とズボンの上から膝丈の上着を羽織り、腰帯を結ぶ。この帯がなかなか難しい上にスカートのような上着のすその広がりが落ち着かない。そういえばこっちに来た時に着ていた制服はどうなったのだろうか。

「あの、僕が元々着てた服って……」

 そう尋ねるとウルドが「今は洗って手入れをさせております」と微笑んだ。僕の高校の制服は至って普通のブレザーでこの世界で着るには暑いだろうが、できれば慣れた服が着たい。それに用意された服はよく見ると上着のすそや帯全体に細かなしゅうがたくさん施されていて、うっかり何かこぼしてしまったらと思うと怖いのだ。そんなことを考えているとウルドから緑色の石がついた房飾りを渡された。

「帯に下げる飾りです。形や紋様、房の数や色に様々な意味が込められております」

 手に取ると、確かに石の表面には複雑な幾何学模様が刻まれ、布の部分にも精緻せいちな模様が織り込まれていてとても綺麗だ。これは東の国アル・ハダール独特の装飾品らしい。この模様にも何か意味があるのかな、と思わずれているとサイードさんが部屋に入ってきた。

「よく休めたか、カイ」

 その声を聞いて、昨夜綺麗な星空を見せてもらった時の感動を思い出してしまう。おかしい。胸がどきどきする。なぜかまともに顔が見られなくて微妙に視線をずらしながら答えた。

「は、はい、あの、昨日の夜はお騒がせしてすみませんでした」
「気にするな」

 幸い、彼の涼やかな目元や明瞭な口調に疲れや寝不足は感じない。ほっとしているとウルドがサイードさんに向かって尋ねた。

「シュマグはいかがいたしましょうか」

 またしても聞き慣れない単語に首を傾げると、頭に巻く布のことだとサイードさんが言った。
 この国では出身や身分に応じて布で頭をおおう風習があるらしい。確かにさいのアドリーも暗赤色の布を巻いていたし昨日の兵士たちや神殿長もそうだった。ふと、昨夜扉の前にいた男の姿を思い出す。彼は布をぶかに被り、長い余り布を首に巻いていた。廊下の暗闇で自分を見下ろした冷ややかな黒い目が頭に浮かんで、ぞくりとする。

「どうする、カイ」

 そう尋ねるサイードさんを見上げれば、彼は昨日と同じく何も被らずに少し癖のある黒髪をあらわにしている。つまり絶対につけなければいけないわけではないのだろう。

「ええと、僕はなくていいです」

 そう言うと、サイードさんは頷きまるでエスコートするかのように僕の手を取った。思わず肩が跳ねる。この世界ではこういうのが普通なんだろうか。ずいぶんと心臓に悪い。顔が熱くなるのをこらえていると、サイードさんは僕と目を合わせて言った。

「神殿長殿から昨日話せなかったことについて話があるそうだ。その前に朝食をとろう。昨夜は結局何も食べずに寝てしまったからな」
「はい」

 正直まだ食欲はない。でも、もう元の世界に戻れずこの世界で生きていくしかないのなら、少しは食べておかなければ。
 サイードさんに手を引かれて昨日食事をとった場所へ移ると、ウルドが銀のお盆にいくつもの皿をせて持ってきてくれた。スープと何かの生地で肉や野菜を巻いたもの、豆らしきものがった小皿と果物とお茶だ。細かく刻んだ肉と野菜の入った薄味のスープは美味しかったので全部飲んだ。肉と野菜を巻いたものは半分だけ食べて、それから豆を……と手に取って口に入れた途端、脳天を突き抜ける辛さに思わず飛び上がった。

「~~~~ッ‼」
「大丈夫か?」

 サイードさんはすぐに水のグラスを手渡してくれた。
 び、びっくりした。ごくごく水を飲んでもまだ辛くて涙までにじんでくる。
 基本的にこの世界の食べ物は元の世界のものと変わらない。もちろん日本では見ない果物やお茶などはあるが今まで出されたパンや牛肉、野菜は日本のものとそう変わらないものだった。
 なのにまさかこんなに辛いものがあるなんて……

「カイ、これを」

 そう言ってサイードさんが隣の小鉢に盛ってあった果物を差し出した。かぶりつくと食べたことのない甘みが広がって鼻の奥の痛みがだいぶやわらぐ。そういえば昨日の朝も涙目になるほど酸っぱい果物があった。いくら地球とそっくりだといっても油断は禁物だ。
 そう肝に銘じて、ひと息つくとサイードさんの顔が驚くほど間近にあった。切れ長の黒い目に至近距離からじっと見つめられて顔が熱くなる。みっともないくらい赤くなっているに違いない顔を隠したくて下を見ようとしたけれど、サイードさんに甘い果実をもうひと切れ唇に押し当てられてはばまれた。なんとなく下から彼を盗み見ながらそろそろと口を開けると、蜜のしたたる果肉を舌の上にせてくれた。……本当に、甘い。

「すまなかった」

 酷く真面目な顔で謝るサイードさんに慌てて首を横に振る。

「えっ、いえ、サイードさんのせいじゃないんで……」

 けれどしばらく経ってもサイードさんは厳しい顔のままだった。そこまで気にしなくてもいいのに、ずいぶんと生真面目な人のようだ。さすがにそれ以上は食べる気になれず、食後のお茶だけ飲んでおしまいにしてもらった。聞くとさっきの馬鹿みたいに辛い豆はインガ豆というらしい。次、お皿にっていてもそれは絶対食べないように気をつけようと心に決めた。


 食事が終わるとサイードさんに付き添われて石造りの廊下を歩き、部屋に入る。するとそこで待っていたらしい神殿長が振り向いた。

「これは界渡り殿」
「おはようございます。あの、昨日は申し訳ありませんでした」
「なんのなんの。少しは落ち着かれたかの」

 結構なお年のようだが、僕を見て微笑んだ表情はずいぶんと若々しい。優しい言葉に頷くと、また笑みを返されてほっとする。
 サイードさんはそんな僕と神殿長の会話を聞くと、姿勢を正して礼をとり、止める間もなく部屋を出て行った。その動きに驚き、扉を見つめると神殿長が重々しく呟く。

神子みこと神殿との話には他者を入れぬしきたりなのじゃよ」
「そうなんですか……」

 それはなぜなのだろうか。少し不思議に思っていると、神殿長は急に笑みを浮かべて僕に言った。

「して、界渡り殿が選ばれたあの騎士とは仲よくできておるのかの」
「ぅえっ⁉」

 予想外の質問にうろたえる。な、仲よく⁉ それは一体どういう意味で⁉ とっさにハマームのことを思い出してしまって慌ててそれを打ち消し、神殿長に向かってこうべを垂れる。

「と、とても親切にしてもらっています……」
「そうか。それは重畳ちょうじょう

 そう言って神殿長が目を細めた。

「さて、界渡りの君よ。アル・ハダールの者たちよりこの大陸の現状について聞かされたと思うがどうかの」
「はい、雨が降らなくてこのままだと地下水が干上がってしまいかねない、と……」
「その通り。そして……ちとついてきてくれるかの」

 歩き出した神殿長の後を追うと、神殿長は窓を開き、僕に外を見るように促した。白い石造りの建物の群れとどこまでも続く砂漠が眼前に広がり、すでに日光によって空気に熱がもり始めているのがわかる。神殿長は空を指して言った。

「我らアルダ教徒は太陽……ラハル神を拝む者。よって神殿は南を向いて建っておる。頭にシュマグと呼ばれる被り布を巻いているのは神をおそれ敬う証じゃ。まあ、単に日よけの意味もあるがの。そして、この砂漠を越えたところにあるのが南のエイレケ王国じゃ」

 南のエイレケ。確かに昨日アドリーからも聞いた。神殿領を取り巻く三国の一つだ。

「あの、最初に三人の男の人がいましたが、サイードさん以外の二人はどっちがどっちの……」
「身に着けている色が紺なのが西のイスタリア王国、深緑が南のエイレケじゃ」

 確か金髪のイケメンが紺色だった。その人が西のイスタリアで深緑の布を頭に巻いていたマッチョが南のエイレケ。頷いて、さらに尋ねる。

「水不足になってるのは三つの国全部なんですか?」
「そうじゃの。このダーヒル神殿領はエルミラン山脈に最も近いがゆえに最も水に恵まれておる。そして西のイスタリアと南のエイレケには海がある。もちろん海の水を真水に変えるすべはないが、それでも東のアル・ハダールよりはまだマシじゃ」
「ということは……」

 すると神殿長は重々しく首を振って言った。

「そう、アル・ハダールは慈雨じうの恵みに最もとぼしく、また常に二国以外の小国による侵攻の危機にさらされておる。それに記録にある限り東方の国が神子みこを勝ち得たのは今回が初めてじゃ。昨日のカハル陛下の喜びようも無理のないことじゃて」

 そんなこと、アドリーもサイードさんも言っていなかった。ごくりと唾を飲み込む。
 この世界、特にサイードさんの国は、もしかしたら僕が思っていた以上に深刻な状況なのかもしれない。

「界渡りの君よ」

 神殿長が僕の方を向いて言った。

神子みこが祈ればこのイシュマール全体に雨の恵みがもたらされる。じゃが、やはり実際に神子みこようする国はそれだけ与えられる恩寵おんちょうも大きい。そなたがアル・ハダールを選んだのも何かの縁じゃ。どうか、どうかその力をそなたがよいと思う方法で与えてやってはくれぬかの」

 神殿長の静かな目を見て、僕が神子みことして扱われることを喜んでいないと彼は理解してくれているのだと気がついた。
 この人自身もなんの葛藤もなく僕を呼び出したわけではないのだろう。
 神殿長は三国に対して完全中立を守ると言っていた。つまりそう簡単には自分の意見や意志を表に出せる立場ではない。物語や史実では権力を持って好き放題している神殿勢力が出てくることもあるが、多分この人は違う。本気でこの大陸を愛しているのだろう。
 僕は拳を握りしめると、顔を上げて言った。

「正直まだ戸惑ってはいますが、できることがあるなら最大限の努力はしようと思います」

 もう二度と元の世界に戻れないのなら、僕はここで生きていくしかない。
 一方的にこの世界へ連れてこられたことへのわだかまりはまだ消えていない。でも、サイードさんやアドリーやこの人のためにできることがあるのならしてあげたい。そう思うことができた。

「感謝いたす。界渡りの君よ」

 僕の言葉に神殿長は深々と頭を下げた。その時突然部屋の外からやけににぎやかな声が聞こえてきた。同時に勢いよく扉が開く。

神子みこ殿との会話は終わったか、神殿長殿!」

 そう言って入ってきたのはアル・ハダールのカハル陛下だった。

あぶみが切れて神殿に戻ってきた時に知らせを受けた。まったくあの禿げ狸どもが! わざとわしのおらぬ時に神子みこ殿と会おうと企んだらしい!」

 昨日引き合わされた時と同じ威勢のいい大声に、神殿長が呆れたように答える。

神子みこを得てまだ一日しか経たぬうちから砂漠を駆け回っておられる陛下にも問題がおありでは?」
「一日馬に乗らずば足がえてしまうわ」

 そう言い放ったカハル陛下が不意にニヤリと笑った。

「それにエイレケとイスタリアとの国境をこの目で見られる機会はそうそうないからの」
「なるほど。抜け目がないのは南と西の御仁だけではなかったようですな」

 突然飛び込んできたカハル陛下と、それにまるで動じていない神殿長に呆気に取られていると、カハル陛下は無造作にこちらに近寄り僕の顔を覗き込んで言った。

「これは神子みこ殿。あまり顔色がよくないな。きちんと食事はとったか? たくさん食べねばならんぞ? 肉を食え、肉を」
「え、あ、はい」

 いきなりバンバン背中を叩かれながらそう言われて上手い返事が出てこない。するとカハル陛下がまたニヤリと笑って言った。

「西と南の王族たちがどうしてもそなたに挨拶を、とごり押ししてきたようだ。肉でも食って精をつけねば、腹黒い砂漠の狸とぎつねに頭からとって食われてしまいかねん」
「は?」

 その時、再び扉が開いた。言葉とは裏腹に面白い見世物でも見るような笑みを浮かべたカハル陛下が腕を組んでそちらを見る。いつの間にか僕の左にはサイードさんが立っていた。それに安心したのも束の間、見知らぬ人間が部屋に入ってくる。その中の一際眩しい誰かが僕の前に立った。

「そなたが今代の神子みこ殿か」

 目の前にやって来るなりそう言ったのは、輝く金色の髪に驚くほど綺麗な青い目をしたド迫力のきらびやかな美女だった。

わらわはイスタリア王国第一王女、レティシアという。遥か異国から来た神子みこ殿にぜひ、ひと目会うてご挨拶せねばと思うてのう」

 豊かな肢体に流れるような美しい装束を身にまとい、透ける長いベールを後ろに流した女性――レティシア王女はにっこりと微笑んで、後ろを指した。

「そしてこの者は我がしゅのクリスティアンじゃ。神子みこ殿とはすでに面識があると思うが?」

 彼女の後ろを見ると、確かに見覚えのある金髪の美男子が控えていた。僕が最初に来た時にいた三人の騎士のうちの一人だ。彼らの後ろに他の護衛や傍仕えらしき人々が何人もいるが、この二人の目をみはるほどの華やかさは群を抜いている。

「は、初めまして。カイといいます」

 あまりに派手な美貌に気圧されつつなんとかそう返事をし、反応を見て思わず震えあがった。王女の後ろからクリスティアンがもの凄い形相でサイードさんを睨みつけている。な、なんで⁉
 こわごわ隣のサイードさんを見上げるが彼は特に挑発された様子もなく、ただ静かに相手を見返している。その時、不意をつくようにレティシア王女が口を開いた。

神子みこ殿はご存じか? 先代と三代前の神子みこ殿は我がイスタリアを選ばれた。我らは神子みこ殿の歓待には慣れておる。ぜひそなたも我が国に住まわれては?」
「えっ?」

 突然すぎて言葉に詰まった僕にレティシア王女が微笑んで言った。

「異なる世界から訪れた神子みこ殿はみな、こちらの世界に慣れるまでなかなかに苦労されたと聞いておる。我がイスタリアはこのイシュマール大陸の最も西にあり、アル・ハダールやエイレケよりは気候も穏やかで豊かじゃ。神子みこ殿がお暮しになるにはよき場所じゃと思うがのう」

 え、これはどういう意味だろうか。アル・ハダールはやめてイスタリアに来いと言っているのか? それとも単に遊びに来いとでもいう意味? 戸惑っていると彼女は優雅に持ち上げた扇で口元を隠し、今度はサイードさんを見た。

「もちろんそなたもご招待申し上げるぞ、サイード殿よ。そなたの勇名は我が国にも鳴り響いておる。先のジャハール王の兵どもを次々にち倒し、南の蛮族を退け、先だっては北のゲイルハンとの戦いにおいて数々の首級しるしを挙げたとか」

 そしてそれは華やかな笑みを浮かべて彼女は言った。

「そなたとこのクリスティアンとが共にお守りすれば、神子みこ殿も安心して祈りの日々を送ることができよう。神子みこ殿と共にそなたもぜひ我が国へ来るとよい。心から歓迎するぞ?」

 口を挟む隙もないとうの口上に唖然としていると、突然カハル陛下がさもおかしそうに笑った。

「なるほど、聞きしに勝って油断のならぬ姫君だ。わしの目の前でこうも堂々と神子みこ殿と我が臣下を口説き落とそうとするとはのう!」

 けれど次の瞬間、カハル陛下の目がギラリと光る。

「だが神子みこ殿が選びたるは我がアル・ハダールの騎士。たとえイスタリアの次期女王殿とはいえ、この目の黒いうちはけっして勝手なことはさせぬ。そう心に留め置かれよ」

 口調の軽さを裏切るカハル陛下の眼力と威圧感に呑まれて、自分が言われたわけでもないのにすくみあがってしまう。けれど当のレティシア王女の笑みは少しも崩れなかった。

「人の心というものはいかようにも変わってゆくものじゃ。先の事はわからぬぞ、ハリファ殿」

 まったく動揺する素振りも見せず、優雅に長い睫毛まつげひらめかせながらレティシア王女はにっこりと微笑む。その間で、火を吐き毒鱗粉りんぷんをまき散らす怪獣たちに挟まれた一般市民の気持ちを味わいながら、僕はひたすら身を縮こまらせていた。
 おまけにその間もずっとクリスティアンさんがサイードさんを睨みつけていて、生きた心地がしない。けれどサイードさんはレティシア王女の輝く微笑みにも彼の殺人光線にも眉一つ動かしてはいなかった。その時、二人に割り込むように別の男の声が聞こえてきた。

「次は我が挨拶を受けていただこうか《慈雨じう神子みこ》よ」

 深緑色のターバンを頭に巻いた男がイスタリアの二人を下がらせて僕の前に立つ。

わしはエイレケの王弟、ワズーフという」

 五十代ぐらいの小太りな男で頭に巻いたターバンがもの凄く大きい。よく似た格好のカハル陛下はとても威厳ある姿に見えるのに、この人の場合は酷く厚かましく滑稽こっけいに感じるのはなぜだろうか。
 彼は僕がひそかに顔をしかめたことにも気がつかず、胴間どうまごえで続けた。

「なぜ神子みこ殿が歴史ある我がエイレケの国を選ばなかったのかまったくもってわからぬが、何か深きお考えあってのことなのだろう。我らは神子みこ殿が見事《カルブの儀式》を成し遂げこのイシュマールの地に恵みをもたらすのを、下界にてお待ちいたす」

 そう言って、ワズーフの目が僕の頭のてっぺんから足の先まで値踏みするように往復する。あまりの居心地悪さに思わず目を逸らしかけた時、妙にねっとりとした視線を感じた。
 その視線の主を追うと、ワズーフの後ろに驚くほど大きな男が立っていた。その深緑色のシュマグを巻いた男のごつごつとした岩のような顔と潰れたような太い鼻を見て、彼があの時僕が選ばなかったもう一人の騎士だと気がついた。あまりに無遠慮にじろじろと僕を見る目つきが怖くて無意識に身体が後ろに下がる。その時、まるで僕をかばうようにサイードさんが一歩前に出た。
 イスタリアの王女と騎士相手には少しも表情を崩さなかったサイードさんがエイレケの騎士を睨みつけている。エイレケの騎士はもう一度僕を見ると、サイードさんに向かって小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
 イスタリアの人たちを挟んだ時とは比べ物にならない緊張が漂い、僕は思わずサイードさんの帯を掴む。すると、サイードさんの片手が支えるように僕の背に回った。その温かさに、自然と僕は顔を上げることができた。静かにワズーフとエイレケの騎士の視線を見返す。

「そこまででよろしかろう、エイレケのお方よ」

 緊迫した空気を破ったのは神殿長が手を打つ音だった。

「本日、わしは界渡りの君へこの世界の申し伝えをおこなっておる。神子みこのお役目の話も儀式の話もまだ済んでおらぬ。これ以上貴重な時間を取らせてはなりませぬぞ」

 神殿長の言葉に、腕組みをして成り行きを見守っていたカハル陛下がエイレケとイスタリアの双方に向けて声を張る。

「どうしてもひと言神子みこ殿に挨拶がしたいというそなたらの目的はすでに達せられた。取り決め通りに即刻兵を連れて神殿を出よ。そして《カルブの儀式》をもって神子みこわざが表れるのを粛々と待たれるがよい」

 威厳のある声が部屋中に響き渡り、初めにイスタリアの王女が、それに続いてエイレケの王弟が部屋から出て行った。その姿が見えなくなってようやく肩の力が抜ける。

「やれやれ、王族の面子だかなんだか知らぬが面倒なことよ」

 カハル陛下がゴキ、と首を鳴らすのと同時に、僕の肩に温かな手が触れた。

「カイ、大丈夫か」

 その手と声に顔を上げるとサイードさんが僕を見つめていた。その目にはいつもの穏やかな光が戻っている。僕を見る優しい視線に、慌てて首を振った。

「いえ、ありがとうございました」

 するとサイードさんが何気ない仕草で僕の背中を撫でてくれた。服越しに感じる体温と大きな手のひらの感触に安堵するはずがなぜか妙に心臓が跳ねて落ち着かない。けれど今の一件ではっきりとわかった。
 いざという時サイードさんはきっと僕を守ってくれる。さっきもサイードさんを睨みつけていたイスタリアの騎士に対してはどこ吹く風といった風情だったのに、僕に視線を向けていたエイレケの騎士には、すぐに前に出て相手をかくしてくれた。
 あの時選んだのがこの人でよかった。傍にいてくれるのがこの人でとても嬉しい。だから、僕も彼を助けたい。
 そう思い胸に手を当ててうつむくと、パン! と大きく手を打つ音が響いた。
 見上げるとカハル陛下がニッと笑っている。

「さて! これから神子みこ殿には神殿長よりまだ話があるようだ。お主も久々にわしと共にひと駆けするか、サイードよ!」

 そんなカハル陛下にサイードさんは苦笑すると、僕の肩を叩いて「また迎えに来る」と言って扉を開いた。そのままサイードさんとカハル陛下を見送っていると、廊下に見覚えのある人影が見えた。
 彼だ。僕の部屋の前に立ち、黒いよろいを身に着け、ぶかにシュマグを被っていたあの男。彼の視線がほんの一瞬、僕へと向けられる。その黒く冷ややかな目に心臓がドクンときしんだ。
 なんでだろう。彼は敵ではないはずなのにどこか怖くて、そのくせいつも目が離せなくなる。まるで道路に飛び出した猫が迫りくる車のライトに魅入られて動けなくなるような――
 重い扉が閉まって、ようやく僕は息ができるようになった。


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