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1巻
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するとようやく僕の惨状に気付いたらしいサイードさんが驚いたように「すまない」と言った。
え、すまないって……? ぼんやりとした頭で振り返ろうとすると、突然サイードさんに身体を持ち上げられた。
「っ⁉」
そればかりか布越しではなく、直接僕のアレを握られてしまう。
「え……っ⁉ ちょ、だめ……っ、手を、離して……!」
「気にするな。男ならよくあることだ。神子よ、力を抜いてくれ」
「で、でも……っ!」
押し返そうとしても、サイードさんの力が強くてビクともしない。抱き竦められたまま、完全に勃起してしまったモノをサイードさんの手が扱く。
え、嘘、も、もしかしてこの世界ではこういうのって普通なの⁉ ぬ、ヌく手伝い⁉
「あ、あ、ひう……っ!」
指の腹で先端を擦られたり、カリの下を優しく撫でられたりすると喘ぎ声が止まらない。ところどころ硬い肉刺のあるサイードさんの大きな手のひらにすっぽりくるまれて根元から先までぬるぬる扱かれて、我慢できずに馬鹿みたいな声が口から漏れてしまう。
どうしよう、きもちいい、人に触られるのって、こんなにきもちいいんだ……
それでも声を押し殺そうと必死に口を手で押さえると、ウルドさんがそっとこちらに身を屈めた。そして何かとろとろしたものをサイードさんが触れている場所に垂らされる。
「あ、い、いやだ、で、でる、んっ、でちゃう……っ!」
生まれて初めて他人の手で扱かれ、味わう快感はあまりに凄くて、結局そのまま僕はサイードさんの手の中に思いっ切り射精してしまった。
「……ッ、や、う、~~~~っ」
とぷとぷと白濁を溢れさせるそこに触れたまま、サイードさんが僕を見ている。
ああ、どうしようどうしよう、会ったばかりの人の腕にしがみついてイってしまったなんて信じられない。
にわかに頭が冷えて、僕はあわててサイードさんに謝った。
「……っ、す、すみません……っ!」
恥ずかしすぎて本気で涙が出てきた。物心ついた頃から泣いた覚えなんてほとんどないのに、こっちに来てからやたら涙腺が緩い気がする。いくら異常事態とはいえ情けない。慌てて目を擦ると、サイードさんが慰めるように肩を撫でてくれた。
「近従はあらゆる世話をするのが仕事だ。恥ずかしがらなくていい」
あらゆる世話ってこんなことまで……? それにサイードさんは近従じゃないよね?
乱れた息を必死に整えようとしていると、ウルドさんが手桶に汲んだ水を、僕の身体に掛けてくれた。
室内の蒸気と与えられた快感で火照った身体に、その水は凄く気持ちがよかった。そのままサイードさんに髪や身体を拭くために触れられるたびゾクゾクした感覚が戻ってきて、僕はまた熱くなってしまった顔を必死に隠した。
それから二人に服を着せてもらい、再びサイードさんに抱えられて寝室の隣の部屋へと連れてこられた。どうやらここは居間のような場所らしく、床には分厚いラグが敷かれ色とりどりのクッションが並べられている。その中の一つにぐったりともたれて、僕はようやく息をついた。
それと同時に、先程アドリーと名乗った人が部屋に入ってきた。
「湯浴みはお済みになりましたか」
彼はサイードさんより少し若いように見える。頭には彼らの国――アル・ハダールの色らしい暗赤色の布をきちんと巻いていて、着ている上着も細身のズボンにも一分の乱れもない。いかにも文官らしい几帳面そうな人だ。けれど僕の正面に腰を下ろした彼の顔は妙に上の空で、どこかそわそわしているように見える。
不思議に思って首を傾げると、サイードさんも彼の様子の違いに気付いたようだ。
「どうした、アドリー」
「ああ……いえ、それより貴兄も濡れておられるようだ。先にどうぞ着替えを」
そう言って手を叩くとどこからかウルドさんと同じ格好をした人がやって来て、サイードさんに服を手渡した。そして居住まいを正して僕に言う。
「失礼、神子よ。改めてアル・ハダール宰相補佐のアドリーと申します。お見知りおきを」
「カイです。あの、僕には神子なんて特別な力はないと思いますが……。お世話になります、アドリーさん」
「どうかアドリーとお呼びください」
硬い口調で訂正されてドキリとする。やはり、年上の人にあまりに丁重な態度を取られると落ち着かない。けれど僕が何かを言う前に、彼は続けて話し始めた。
「……ご自分の力に酷く懐疑的なようですが、神子でなければ召喚に応じてこちらへ来ることはありえませぬ。貴方が慈雨の御業をお持ちであることは間違いのないこと。どうかもっと自信をお持ちになり、そのお力を我らにお与えくださいますようお願い申し上げまする」
言葉は丁寧だし、へりくだった言葉のはずなのに一方的に滔々と言われると、少し嫌な気分になる。するとサイードさんが「アドリー」と彼を遮った。
その声にアドリーがぴたりと話すのをやめる。まるで僕の気持ちを察してくれたようで嬉しさに振り向くと、ちょうどサイードさんは濡れて身体に張り付いたシャツを脱いだところだった。
薄々気付いてはいたけれど、美術館の彫刻か外国の映画スターのような見事な身体につい目が釘付けになってしまう。厚い胸筋にがっしりとした肩。くっきりと割れた腹筋や厚みのある胴周りが褐色の肌と相まって凄い迫力だ。これじゃ僕が抵抗したってビクともしないはずだ。昨日だってさっきだって……と思ったところでカッと顔が熱くなった。
「どうかしたか?」
サイードさんの声がして彼を見すぎていたことに気がつき、慌てて顔を前に戻す。
「な、なんでもない、です」
間違いなく今僕の顔は真っ赤だろう。ああ、もうこの癖は本当になんとかならないのかな。
なんとか視線をアドリーに戻すと、先程のサイードさんの言葉が効いたのか、彼は居住まいを正し、僕に向かって頭を下げた。
「……失礼しました。確かに貴方にしてみれば突然のことで色々と思うところもおありでしょう。ですが神子の力は貴方にしかないもの。どうか我々のために雨の恵みをもたらしていただきたい」
そう言われても、雨を降らせる方法など知らないのに簡単には頷けない。そもそも自分にそんな能力があるのかもわかっていないのだ。
頷くことも断ることもできないままでいると、着替え終わったサイードさんが僕たち二人の間に割って入った。
「アドリー、まずは食事だ。神子殿は昨日から何も食べていない」
「ああ、そうでした。重ね重ね失礼を」
アドリーが手を挙げると、白い服の人たちがいくつもの大皿や茶器を運んできて敷物の上に並べ始めた。皿の上には色とりどりの料理や果物が置かれ、香ばしく焼かれた肉の香りと香辛料らしい独特な匂いが入り交じっている。
サイードさんは気を遣ってくれたのだろうが、正直食欲なんてまるでなかった。
アドリーは胡坐をかいた膝の上に手のひらを上に向けて置き、目を閉じて何かを呟いている。
「食事の前に唱える聖句です」
いつの間にか隣にいたウルドさんが教えてくれた。サイードさんもアドリーと同じように「イル・マーク・アバール」と唱え、肉と野菜が刺さった串を手に取る。それをぼんやりと見ていると、隣から食べ物を載せた皿を差し出された。
「ええと……ありがとうございます、ウルドさん」
慌ててお礼を言うと、ウルドさんはもの凄く困った顔をして頭を下げた。その様子を見たサイードさんは、僕に向かって少し厳しい顔で首を振った。
「神子よ、人はおのれの分を超えてはいけない。彼のことはただウルド、と」
サイードさんの言葉に、ウルドはほっとしたように微笑んだ。その表情に、僕が間違ったことをしても、近従という立場であるウルドにはそれを指摘できないということに気がついた。
この世界の身分制度によるものなのだろう。
「……ありがとう、ウルド」
言い直すと、ウルドはまた微笑んで頭を下げる。けれどやっぱり年上の人を呼び捨てにしてあれこれさせるのはどうにも落ち着かず、僕は手元に視線を落とした。
皿にはウルドがよそってくれた料理が綺麗に盛りつけられている。肉と野菜の串焼き、クレープに似た生地で巻いたひき肉、茶色のクリームのようなものが塗られたパンにレモンのような果物の輪切りを載せた炒め物。確かに日本とは違うスパイスの匂いがするけれど、食材自体はどれも僕の世界とほとんど一緒のようだ。とはいえ相変わらず食欲は湧いてこない。
仕方なくそのまま皿を膝に置くと、すでに食べ終わってお茶を注がせていたアドリーと目が合った。
「先程は話を急いてしまい失礼いたしました。雨の恵みをもたらす方法について……それはとりあえず置いておいて問題ありませぬ。それよりまずこの大陸の状況をお話しいたしましょう」
え、雨を降らせる方法って一番重要なんじゃないの? というか僕は自分が神子だと納得したわけじゃない。でも今の僕は、あまりにもこの世界のことを知らないし、どうするにせよ情報はきっと必要だ。そこまで考えて、僕はサイードさんを見る。
サイードさんは僕の視線に気付くと励ますように頷いてくれた。彼のまっすぐで真摯な眼差しを見ると不思議と肩の力が抜けて、きっとなんとかなるんじゃないかという気になってくる。
僕はアドリーに向き直ると「お願いします」と頭を下げた。
アドリーの話では、このイシュマールという大陸には現在三つの大国があるらしい。
東のアル・ハダール。
西のイスタリア。
そして南のエイレケ。
その三つの国に囲まれた中央にあるのがこのダーヒル神殿領だそうだ。神殿領は三国を含む大陸の国々の中で完全中立の立場をとる、大陸全土で信仰されているアルダ教の総本山だという。アドリーは付け加えるように続けた。
「昨日、儀式の間にて貴方が会われた三人の男たちは皆、三つの国を代表して集まった《選定の騎士》にございます。貴方が選ばれたサイード殿はアル・ハダールの騎士。つまり貴方を守護する権利を我らアル・ハダールが得たというわけです」
そう言ってアドリーが僕を見た。
「我々大陸の者にとって雨を降らせる神子は喉から手が出るほど欲しい存在。それゆえ奪い合いにならぬよう、神子自らに守護者を選ばせるのです」
「選ばせるって……」
それが昨日、僕がここに来た時に三人の騎士たちが手を差し出していたアレだったのか。でも選ぶといってもあんな、なんの説明もなくいきなり誰か一人に決めろというのはあまりにも無茶が過ぎるのでは? すると僕の疑問に気付いたのかアドリーが言った。
「事前に情報を与えず選ばせるのは互いの公平を期すためです。そうなれば神子がおのれの感覚で選ぶことになり、そのことに対して他の二国が文句をつけるのは不可能となりますゆえ」
「な、なるほど」
だから他の二人の騎士たちはあんな鬼気迫る目で僕を見ていたのか。完全に逆効果だったけど。
「そして貴方はこのサイード殿を選ばれた。彼は実に頼りになる男です。きっと貴方をよく助け、守り抜くでしょう。貴方には男を見る目がある」
そう言ってアドリーはこくりと頷いた。確か同じことを昨日カハル陛下にも言われた気がする。しかし見る目があると言っても、僕がサイードさんを選んだ理由は彼だけが穏やかで優しそうに見えたからだ。何か深い考えや神の啓示のようなものがあったわけではない。
……その選択が間違っていたとは今のところ思わないけれど。
そう思いながら隣を見るとサイードさんはこっちを見て少しだけ微笑んだ。うう……だめだ、また顔が熱くなりそうだ。僕は慌ててアドリーへと視線を戻して、疑問を口にした。
「あの、この神殿領は完全中立の立場なんですよね? 全部の国が信仰しているような宗教の総本山なら、神子はここで保護するのが一番公平なんじゃないんですか?」
するとそれに答えてくれたのはサイードさんだった。
「ここには神子を守るための兵がいないのだ」
「え?」
思わぬ答えに目を瞬かせる。すると後を引き継ぐようにアドリーが言った。
「神殿は武力を持ちませぬ。万が一どこかの国が神子を奪おうと神殿を襲っても、神子を守る者がおらぬのです」
その言葉にハッと顔を上げる。
「じゃあ僕はこれからここで暮らすんじゃないんですか?」
「貴方にはここで最初の儀式を終えた後、我々と共にアル・ハダールに来ていただくことになります」
「アル・ハダールっていうと、ええと、東の国でしたっけ」
するとサイードさんが僕を見て答えた。
「そうだ。ここからは帝都イスマーンまで馬で二十日ほど掛かる」
「神子にはまず《カルブの儀式》を行っていただき、そこで最初の恵みを与えていただきます。それから我々が貴方をお守りしてアル・ハダールに戻る予定にございます」
「さ、最初の恵みって……」
それって、その《カルブの儀式》で雨を降らせろという意味だよね。ただの高校生だった僕にできるわけがない。それとも、あんなに自信たっぷりにアドリーが言っていたのだから、『神子』がその儀式さえすれば雨が降るのだろうか。
僕はぎゅっと服を握って唇を噛む。やってみなければ結果はわからない。でももしできなかったら? カハル陛下の視線の強さや、儀式の間で口々に何かを叫んでいた大勢の兵士たちの姿、僕をギラギラした目で見ていた他の二国の騎士たちが脳裏に浮かんでくる。
マンガや小説で異世界に行った主人公たちは皆、努力とチート能力でバンバン世界を救っていた。もしかしたら僕もそんなことができるのだろうか。もっと楽天的で自分に自信があればこの状況を楽しむくらいでいられたんだろうか。
思わずため息を漏らすと、向かいに座ったアドリーが首を横に振った。
「神子よ。先程も申しましたが、雨の恵みをもたらす方法について悩む必要はありませぬ。恵みを与える力を持つのは確かに貴方だが、雨を降らせるきっかけを作るのは別の者なのです。神子たる貴方は、ただそこにおられるだけでいい」
「え?」
それってどういうこと? 僕が何かをするというよりは、誰かが僕を使って何かをする、というように聞こえて首を傾げる。
すると淡々と話していたアドリーが不意に目を輝かせて頷いた。
「貴方は間違いなくイシュマールに恵みをもたらす《慈雨の神子》だ。なぜなら恵みの前兆はすでにこの地に表れているのだから」
「本当か?」
サイードさんが眉を上げてアドリーを見る。
「いかにも。貴兄らがハマームで身体を清めている時に。それで少し席を外しておりました」
なるほど。さっきアドリーが部屋に入ってきた時なんかそわそわしていたのはそのせいだったのか。けれどアドリーとは対照的にサイードさんは何か考え込むような顔になってしまった。
ええと、ハマームってさっきの蒸し風呂のことだよな。あそこにいる時に恵みの前兆……つまり雨雲でも出たってことかな。でもあそこで何かしたっけ?
そこまで考えてカッと火がついたように顔が熱くなった。……これ以上考えるのはとりあえずやめておこう。
お茶を飲むふりをして真っ赤になった顔をごまかしていたら、サイードさんの視線がふと僕の手元に落ちた。
「口に合わないか?」
「え? あ、いえ……」
しまった。さっきから全然食べていないのがついにバレてしまった。
正直、肉や揚げ物ばかりでまったく食欲が湧かない。僕は曖昧に言葉を濁して目の前の皿を見る。
だってうちの普段の朝ごはんは、せいぜいパンかご飯に玉子とソーセージを足すくらいだった。父さんと僕がご飯派で、母さんと兄貴がパン派。僕と兄貴が子どものころは朝ごはんがパンかご飯かでよくケンカになっていたらしい。だから母さんがいつも一日置きに交代でパンとご飯にしてくれて……そうだ、玉子も半熟か硬めかってまた言い合いになって……そこまで思い出して目頭が熱くなりそうなのを必死にこらえる。
……だめだ。とても今は食べられそうにない。
「今はちょっとお腹が空いてなくて」
首を振って皿を置くと、サイードさんだけでなくアドリーまでが眉間に皴を寄せているのに気がついた。
確かに神子が雨を降らせる前に過労や栄養失調で倒れたりしたら元も子もないだろう。
申し訳ないなと思うと同時に、胃の辺りがずしんと重くなる。
そうだ、この人たちは別に僕の心配をしているわけではない。砂漠に雨を降らせる大事な神子が倒れたら困るから、あれこれ気を遣ってくれているだけだ。
そんな考えが浮かんで、胃の辺りがムカムカして気持ち悪くなる。
それを振り払うように僕は勢いよく顔を上げた。
「あ、あの……っ!」
「どうされました、神子よ」
「僕が呼ばれた理由はわかりました。正直、そんなことができるとは全然思えないんですけど」
今まで僕は年上のよく知らない人相手にこんな風に自分から何かを言ったことなんて一度もない。それでも緊張と不安と訳のわからない焦りのようなものに突き動かされて僕は言った。
「だけど、もし僕が本当に神子で、無事雨を降らせることができたとして」
ごくり、と唾を飲み込んで言う。
「僕はいつ元の世界に帰してもらえるんですか?」
僕の言葉にしん、と部屋が静まり返る。その時落ちた沈黙ほど重たくて痛いものはなかった。それだけで答えがわかってしまう。
「……っふ、……っ」
ああほんとに、なんでこんな。俯いた顔に血が上って目の奥がたまらなく熱くなる。
「神子よ……!」
「神子様!」
アドリーとウルドの声がしたけれどとても返事なんてできなかった。
この世界に連れてこられてずっともしかしたらと心のどこかに引っかかっていた。僕が本当に神子だったとしても、果たして僕はちゃんと元の世界に帰してもらえるんだろうか、って。
僕は確かに地味で目立たない人間だったけど、勉強を頑張ってテストの順位が上がれば母さんは仕事から帰ってきてから僕の好物を作ってくれたし、兄貴だって褒めてくれた。父さんは毎晩帰りが遅かったからあまり顔を合わせていなかったけれど、そんな時間まで働いてくれていたからこそ、僕は今まで恵まれた生活を送れていたんだとわかっている。
お互いに何か特別なことを言ったことなんてなくても、僕があの家族の一員だったことを疑ったことは一度もない。なのにもう二度と会えないなんて。鼻の奥がツンとして涙が込み上げてきて、僕は乱暴に顔を擦った。
「……う、ぐ……っ」
こめかみがズキズキして喉の奥が痛くて、強く目をつぶっても涙が溢れてきてしまう。いい年をして人前で泣くなんて恥ずかしいと思うのにどうしても止められない。その時、ふと傍に人の気配がして誰かの腕が肩に回された。
「す、すみま、せん」
ぎゅっと肩を抱いてくれたサイードさんの服を握りしめて歯を食いしばる。涙を止めたくて息を詰めてもどうにもならない。するとサイードさんが僕の身体を持ち上げてしっかり抱きしめてくれた。
同時にアドリーの声が聞こえてくる。その声は先程までの淡々とした調子とは違い、ほんの少し震えているように聞こえた。
「……神子よ。私にとって、神子をお迎えすることは長年の悲願でありました。また、神子さえ得ることができれば、当然我らはその恵みを受けることができるのだとも思っておりました。だが神子の方にも失い難き人生があったのだということを、恥ずかしながら今初めて思い知らされました」
その言葉に驚き、思わず彼を見る。するとアドリーは両方の拳を床につき深々と頭を下げて言った。
「こちらの勝手ばかりを押し付けて申し訳ない、神子よ。だが我が国には、この世界には、どうしても貴方が必要なのです。どうか、どうか貴方の恵みの力を我らにお与えください」
さっきまでずっと無表情だったアドリーの目が苦しそうに歪んでいて、僕は涙でぼやける目を瞬いた。アドリーは息を短く吸うと、先程とは打って変わった真摯な声で僕に言う。
「現在この大陸のほとんどが砂漠に覆われております。北のエルミラン山脈から湧く地下水こそ我々に残された唯一の生命線なのです」
アドリーがそう説明してくれる。
「しかしそのエルミランに降る雨は年々減り、このままではいずれ各地に点在するオアシスは枯れ、ほどなく国の中心部に流れる地下水路も干上がるでしょう。そうなる前にどうか慈雨の恩寵をお与えいただきたい。それができるのは神子である貴方だけなのです」
そう言うアドリーの目は怖いほど切実だった。藁にもすがる思い、というのはこういうのを言うのだろう。
ようやく上辺だけではない、彼の本当の気持ちを知れたような気がした。震える息を吐き、もう一度考える。
こうしてこの世界に来てしまった以上、もう僕が帰ることはできないのだろう。そして彼らが僕を大事にしてくれるのは、僕が雨を降らせることができる唯一の人間だから、ただそれだけなのも仕方のないことだ。それでも、とサイードさんの顔を見る。それでも、僕がこの世界でできることがあるのなら……
僕は頭を振って、まだ上手く声が出てこない喉を叱咤して答えた。
「……事情は大体わかりました。僕も、できるだけのことはお手伝いしたいと思います。……すみません、今言えるのはそれだけです」
「感謝申し上げます、神子よ」
そう言ってアドリーは深々と頭を下げ、なぜかサイードさんの方を見た。サイードさんはアドリーが言わんとしていることをわかっているようで、軽く頷くと彼に言った。
「神子殿への給仕は私がしよう。急ぎアジャール山の様子を見てきた方がいい」
「はい。神子よ、申し訳ないが御前を失礼いたします」
アドリーはそう言って慌ただしく部屋を出て行った。
「あの、アジャール山って……?」
僕がサイードさんを見上げて尋ねると、サイードさんは小さく頷いた。
「今、話に出ていたエルミラン山脈への入り口となる山の名だ。この神殿のちょうど北の正面から見ることができる」
「そうなんですね……」
まだまだ知らないことばかりだ。そう思い視線を戻すと、まだ自分がサイードさんの膝に座ったままであることに気がついた。
「うわっ! すみません、僕……っ」
「気にするな」
サイードさんはその言葉通り気にした様子は見せず、胡坐をかいた足の片方に僕を乗せ、ウルドに指示していくつか食べ物を持ってこさせた。
「少しだけでも腹に入れた方がいい。これならどうだ?」
そう言って差し出されたスープの器を受け取ろうとしたけれど、いつになく取り乱したせいか指先が震えてしまう。するとサイードさんは僕の手ごと一緒に器を持って唇にあてがってくれた。
完全に甘やかされているな……恥ずかしい。
けれどサイードさんの腕に囲われているとなぜかとても安心できる。ありがたいことに彼は僕が膝に座ったままでも気にせず、途中で食べ物を断っても「無理はしなくていい」と言ってウルドにお茶を頼んでくれた。
この世界では皆よくお茶を飲むらしい。食事中もウルドたちが銀の大きなポットに茶葉とたっぷりの熱い湯を注いではアドリーやサイードさんに渡していた。
食事が終わってもサイードさんは僕を胸にもたれさせて静かに座っている。目の前を召使いの人たちが足音もたてずに静かに動き回ってクッションを整えたりお皿を下げたりしているのを、温かいお茶を手に持ってぼんやりと眺めた。
サイードさんは「人に仕えられることに慣れた方がいい」と言うけれど、両親が共働きだったせいもあってできることは自分でやるのが当たり前だったし、なんでも自分でやった方が母も喜んでくれた。――皆、今頃どうしているだろう。また家族のことばかり思い出してしまいそうになって僕はぐいと顔を手の甲で拭い、サイードさんを見上げた。
「さっき、そのアジャール山は神殿から見えるって言ってましたよね。僕も見られますか?」
「ああ、問題ない」
そう言ってサイードさんは僕の手から空の茶碗を取り、ウルドを呼んだ。
「神子殿の履物を」
すかさずウルドがサンダルのような靴を床に揃えてくれる。僕が手を伸ばそうとすると、サイードさんがそれより先に僕をひょいとクッションに座らせ、僕のかかとを持ち上げた。
「えっ⁉」
慌てる僕を気にもせず、サイードさんはそのまま僕にサンダルを履かせてくれる。
その端正な横顔にまた心臓が跳ねた。僕が神子だから特別扱いしているのか元々そういう風習なのか、この人のすることはいちいち心臓に悪い。その時、ふと朝彼から聞いた言葉を思い出した。
「あの、サイードさんが最初に言ってた『アル・ハダール第一の槍』っていうのは……」
するとサイードさんは僕の足を床に置いて顔を上げた。
「私はハリファ・カハルよりアル・ハダール第三騎兵団の団長職を拝命している。第一と第二の長は剣を使うが、私が得意とするのは鋼鉄の大槍だ。だから帝国第一の槍と呼ばれている」
凄い。騎兵団の団長で、鋼鉄の大槍を使っているなんてかっこよすぎじゃないか⁉ マンガや小説が大好きなオタクのサガで、思わずさっきまでの悲壮な気分が吹っ飛んでしまう。
しかしなんとなくそうだと思っていたけど、やはりサイードさんは偉い人だった。僕が敬語で話していても、サイードさんに対してだけは誰も咎めない。そんな凄い人にサンダルを履かせてもらったり、風呂場でもあんなことまでさせてしまったり……
「す……すみません……」
思わず謝ってしまった。するとサイードさんがいぶかしげに僕を見る。
「肩書はどうであれ、今は貴方を守ることが我が務めだ。どうかいつでも、どんなことでも頼ってほしい、神子よ」
とんでもない美形がもの凄くかっこいいことを言っている……。相手が僕なのがもったいないぐらいだ。また真っ赤になってしまっていそうな顔をごまかしたくて僕はサイードさんに言った。
「あの、できたら名前で呼んでもらえませんか? 僕は春瀬櫂……ええと、カイという名前です。あとできたらもう少し普通に……本当に僕、ただの平民なので、あまり畏まられると、その」
するとサイードさんが珍しく目を丸くする。そしてふっと笑って言った。
「わかった。これからはそうしよう、カイ殿」
「いや、呼び捨てでいいです! 殿とかいいので!」
慌てて手を振る僕にサイードさんがまた笑った。
「ならばカイも俺にそう畏まらなくていい」
い、今俺って言ったよね⁉ 今までは私だったのに! サイードさん、普段は自分のこと俺って言うのか……意外だけどそのギャップがカッコいい……
そんなことをぽーっと考えていると、サイードさんは僕の手を取って立ち上がった。
「ではカイ、アジャール山が見えるところに案内しよう」
「あ、ありがとうございます」
するとすかさずウルドが近づいてきた。
「外はすでに日差しが強うございますので」
そう言って頭を下げたウルドから畳んだ布らしき物を受け取ると、サイードさんは僕の手を引いて歩き出した。そして彼が扉を開けようとするのを見て、今朝そこで見た黒い鎧姿の男のことを思い出す。思わずサイードさんの手をぎゅっと握りしめると、彼が驚いたように振り向いた。
「どうした? カイ」
「あ、いえ……」
あの男が誰なのかサイードさんに聞けばいいのに、僕を見下ろした冷ややかな黒い目や獰猛な気配を思い浮かべただけでなぜか喉が詰まって声が出なくなる。そうこうするうちにサイードさんは扉を開け、僕の手を引いた。恐る恐る部屋から出てみると、扉の外には誰もいなかった。
部屋の外には長い石造りの廊下がずっと向こうまで続いていた。
「ダーヒル神殿は東西に長い形をしていて、中央にカイが最初にいた儀式の間がある。アジャール山へはその儀式の間から北へ続く通路を通って行くことができる」
サイードさんについて廊下の端まで行き、螺旋状の階段をひたすら上る。階段の先にあった扉のない狭い出入口から外に出た途端、強烈な日差しと熱に襲われて思わずたじろいだ。分厚い石造りの神殿の中ではそこまで暑さは感じなかったが、さすが砂漠の国だ。直射日光の威力は相当なもので目が眩む。するとサイードさんがウルドから受け取った布を広げて被せてくれた。
「あれがアジャール山だ」
そう言ってサイードさんが指差した先を見て思わず息を呑んだ。そこには切り立った巨大な岩が重なる崖を越えた先に、黒々と聳える山があった。その後ろにも高い山々が連なりその部分だけが砂漠の世界で寒々しく見える。
僕の様子を見ながらサイードさんが説明をしてくれた。
「この神殿はアジャール山を北に背負う形で建てられている。アジャール山に連なるエルミラン山脈に降る雨と山頂の雪解け水が地中に深く染み込んで、大陸全土に地下水として蓄えられる。我らはそこから地下水路を経由して街へと水を引き込んでいる」
本で読んだことがあるな。地中の水を通しにくい粘土層まで達すると地下水が溜まる、と書いてあった。そもそもあそこに雨が降らなかったら地下水は溜まらないまま干からびていくということだ。
「あの、それでさっきアジャール山に雨の兆候が見えたっていうのは……あれですか……?」
そう言って僕が指差した先には、山頂に重苦しく垂れこめた真っ黒な雲があった。……なんというか、恵みの雨をもたらすというより何か悪いものが降ってきそうな禍々しさだ。
サイードさんも厳しい顔をして山の上の雲を見上げている。
「……あんまりいい雲には見えないですけど……」
「……そうだな」
やっぱりそうなんだ。え、でも朝食の時のアドリーはちょっと嬉しそうに報告してくれていなかった? そう聞いてみると、サイードさんも眉を顰めたまま頷いた。
「恐らく、最初にアドリーが見た時とは様子が変わったのだと思う」
朝はいい兆候が見えていたのに悪化したということか。それは僕が何かしでかしたせいなんだろうか。そう考えるとサーッと血の気が引いていく。すると肩に大きな手が乗せられた。
「考えても詮なきことだ。儀式の日まで心安くあれ、カイ」
そう言ったサイードさんは元の穏やかな顔に戻っていてホッとした。
サイードさんはカハル陛下や神殿長、アドリーに対してはいつもキリリと唇を引き結んでいて言葉数もかなり少ない。けれど僕が不安になった時はいつも少しだけ笑みを向けてくれる。それがとても嬉しい。
「あの、サイードさんは僕がやる最初の儀式の内容を知ってるんですか?」
「……ああ、少しだけだが」
珍しく歯切れの悪い口調でサイードさんが頷いた。な、なんか不安になってくるんだけど……
目に入った雲の不穏さと相まってどんどん不安が増して、手が冷えていくのを感じる。するとそんな僕を見たサイードさんは踵を返した。
「顔色が悪い、一度部屋へ戻ろう。カイさえよければ後で神殿長殿が話をしたいそうだ」
そう言われて急にどっと疲れが押し寄せてくる。次々にいろんなことが起きて頭がくらくらするし、この強い日差しと太陽の熱にも慣れるまで大変そうだ。
部屋に戻った僕は相当顔色が悪かったようで、サイードさんにしばらく休むように言われてしまった。彼はウルドに水を持ってこさせ、僕の上着を取って身軽にしてから寝台に寝かせてくれた。昼が近づくにつれ、馴染みのない異国の香りと部屋に籠もり始めた熱気が鼻孔に絡みついてくるようだ。軽く頷いて出て行こうとする彼をつい目で追っていると、すぐに気付いて近寄り、またかすかに笑ってくれた。
「眠れ、カイ。また迎えに来る」
サイードさんの声は穏やかだけれど言葉の音のひとつひとつがはっきりしていて力強い。だからこんなにも安心できるのだろうか。彼の温かい手のひらを目蓋に感じながら僕は眠りに落ちた。
え、すまないって……? ぼんやりとした頭で振り返ろうとすると、突然サイードさんに身体を持ち上げられた。
「っ⁉」
そればかりか布越しではなく、直接僕のアレを握られてしまう。
「え……っ⁉ ちょ、だめ……っ、手を、離して……!」
「気にするな。男ならよくあることだ。神子よ、力を抜いてくれ」
「で、でも……っ!」
押し返そうとしても、サイードさんの力が強くてビクともしない。抱き竦められたまま、完全に勃起してしまったモノをサイードさんの手が扱く。
え、嘘、も、もしかしてこの世界ではこういうのって普通なの⁉ ぬ、ヌく手伝い⁉
「あ、あ、ひう……っ!」
指の腹で先端を擦られたり、カリの下を優しく撫でられたりすると喘ぎ声が止まらない。ところどころ硬い肉刺のあるサイードさんの大きな手のひらにすっぽりくるまれて根元から先までぬるぬる扱かれて、我慢できずに馬鹿みたいな声が口から漏れてしまう。
どうしよう、きもちいい、人に触られるのって、こんなにきもちいいんだ……
それでも声を押し殺そうと必死に口を手で押さえると、ウルドさんがそっとこちらに身を屈めた。そして何かとろとろしたものをサイードさんが触れている場所に垂らされる。
「あ、い、いやだ、で、でる、んっ、でちゃう……っ!」
生まれて初めて他人の手で扱かれ、味わう快感はあまりに凄くて、結局そのまま僕はサイードさんの手の中に思いっ切り射精してしまった。
「……ッ、や、う、~~~~っ」
とぷとぷと白濁を溢れさせるそこに触れたまま、サイードさんが僕を見ている。
ああ、どうしようどうしよう、会ったばかりの人の腕にしがみついてイってしまったなんて信じられない。
にわかに頭が冷えて、僕はあわててサイードさんに謝った。
「……っ、す、すみません……っ!」
恥ずかしすぎて本気で涙が出てきた。物心ついた頃から泣いた覚えなんてほとんどないのに、こっちに来てからやたら涙腺が緩い気がする。いくら異常事態とはいえ情けない。慌てて目を擦ると、サイードさんが慰めるように肩を撫でてくれた。
「近従はあらゆる世話をするのが仕事だ。恥ずかしがらなくていい」
あらゆる世話ってこんなことまで……? それにサイードさんは近従じゃないよね?
乱れた息を必死に整えようとしていると、ウルドさんが手桶に汲んだ水を、僕の身体に掛けてくれた。
室内の蒸気と与えられた快感で火照った身体に、その水は凄く気持ちがよかった。そのままサイードさんに髪や身体を拭くために触れられるたびゾクゾクした感覚が戻ってきて、僕はまた熱くなってしまった顔を必死に隠した。
それから二人に服を着せてもらい、再びサイードさんに抱えられて寝室の隣の部屋へと連れてこられた。どうやらここは居間のような場所らしく、床には分厚いラグが敷かれ色とりどりのクッションが並べられている。その中の一つにぐったりともたれて、僕はようやく息をついた。
それと同時に、先程アドリーと名乗った人が部屋に入ってきた。
「湯浴みはお済みになりましたか」
彼はサイードさんより少し若いように見える。頭には彼らの国――アル・ハダールの色らしい暗赤色の布をきちんと巻いていて、着ている上着も細身のズボンにも一分の乱れもない。いかにも文官らしい几帳面そうな人だ。けれど僕の正面に腰を下ろした彼の顔は妙に上の空で、どこかそわそわしているように見える。
不思議に思って首を傾げると、サイードさんも彼の様子の違いに気付いたようだ。
「どうした、アドリー」
「ああ……いえ、それより貴兄も濡れておられるようだ。先にどうぞ着替えを」
そう言って手を叩くとどこからかウルドさんと同じ格好をした人がやって来て、サイードさんに服を手渡した。そして居住まいを正して僕に言う。
「失礼、神子よ。改めてアル・ハダール宰相補佐のアドリーと申します。お見知りおきを」
「カイです。あの、僕には神子なんて特別な力はないと思いますが……。お世話になります、アドリーさん」
「どうかアドリーとお呼びください」
硬い口調で訂正されてドキリとする。やはり、年上の人にあまりに丁重な態度を取られると落ち着かない。けれど僕が何かを言う前に、彼は続けて話し始めた。
「……ご自分の力に酷く懐疑的なようですが、神子でなければ召喚に応じてこちらへ来ることはありえませぬ。貴方が慈雨の御業をお持ちであることは間違いのないこと。どうかもっと自信をお持ちになり、そのお力を我らにお与えくださいますようお願い申し上げまする」
言葉は丁寧だし、へりくだった言葉のはずなのに一方的に滔々と言われると、少し嫌な気分になる。するとサイードさんが「アドリー」と彼を遮った。
その声にアドリーがぴたりと話すのをやめる。まるで僕の気持ちを察してくれたようで嬉しさに振り向くと、ちょうどサイードさんは濡れて身体に張り付いたシャツを脱いだところだった。
薄々気付いてはいたけれど、美術館の彫刻か外国の映画スターのような見事な身体につい目が釘付けになってしまう。厚い胸筋にがっしりとした肩。くっきりと割れた腹筋や厚みのある胴周りが褐色の肌と相まって凄い迫力だ。これじゃ僕が抵抗したってビクともしないはずだ。昨日だってさっきだって……と思ったところでカッと顔が熱くなった。
「どうかしたか?」
サイードさんの声がして彼を見すぎていたことに気がつき、慌てて顔を前に戻す。
「な、なんでもない、です」
間違いなく今僕の顔は真っ赤だろう。ああ、もうこの癖は本当になんとかならないのかな。
なんとか視線をアドリーに戻すと、先程のサイードさんの言葉が効いたのか、彼は居住まいを正し、僕に向かって頭を下げた。
「……失礼しました。確かに貴方にしてみれば突然のことで色々と思うところもおありでしょう。ですが神子の力は貴方にしかないもの。どうか我々のために雨の恵みをもたらしていただきたい」
そう言われても、雨を降らせる方法など知らないのに簡単には頷けない。そもそも自分にそんな能力があるのかもわかっていないのだ。
頷くことも断ることもできないままでいると、着替え終わったサイードさんが僕たち二人の間に割って入った。
「アドリー、まずは食事だ。神子殿は昨日から何も食べていない」
「ああ、そうでした。重ね重ね失礼を」
アドリーが手を挙げると、白い服の人たちがいくつもの大皿や茶器を運んできて敷物の上に並べ始めた。皿の上には色とりどりの料理や果物が置かれ、香ばしく焼かれた肉の香りと香辛料らしい独特な匂いが入り交じっている。
サイードさんは気を遣ってくれたのだろうが、正直食欲なんてまるでなかった。
アドリーは胡坐をかいた膝の上に手のひらを上に向けて置き、目を閉じて何かを呟いている。
「食事の前に唱える聖句です」
いつの間にか隣にいたウルドさんが教えてくれた。サイードさんもアドリーと同じように「イル・マーク・アバール」と唱え、肉と野菜が刺さった串を手に取る。それをぼんやりと見ていると、隣から食べ物を載せた皿を差し出された。
「ええと……ありがとうございます、ウルドさん」
慌ててお礼を言うと、ウルドさんはもの凄く困った顔をして頭を下げた。その様子を見たサイードさんは、僕に向かって少し厳しい顔で首を振った。
「神子よ、人はおのれの分を超えてはいけない。彼のことはただウルド、と」
サイードさんの言葉に、ウルドはほっとしたように微笑んだ。その表情に、僕が間違ったことをしても、近従という立場であるウルドにはそれを指摘できないということに気がついた。
この世界の身分制度によるものなのだろう。
「……ありがとう、ウルド」
言い直すと、ウルドはまた微笑んで頭を下げる。けれどやっぱり年上の人を呼び捨てにしてあれこれさせるのはどうにも落ち着かず、僕は手元に視線を落とした。
皿にはウルドがよそってくれた料理が綺麗に盛りつけられている。肉と野菜の串焼き、クレープに似た生地で巻いたひき肉、茶色のクリームのようなものが塗られたパンにレモンのような果物の輪切りを載せた炒め物。確かに日本とは違うスパイスの匂いがするけれど、食材自体はどれも僕の世界とほとんど一緒のようだ。とはいえ相変わらず食欲は湧いてこない。
仕方なくそのまま皿を膝に置くと、すでに食べ終わってお茶を注がせていたアドリーと目が合った。
「先程は話を急いてしまい失礼いたしました。雨の恵みをもたらす方法について……それはとりあえず置いておいて問題ありませぬ。それよりまずこの大陸の状況をお話しいたしましょう」
え、雨を降らせる方法って一番重要なんじゃないの? というか僕は自分が神子だと納得したわけじゃない。でも今の僕は、あまりにもこの世界のことを知らないし、どうするにせよ情報はきっと必要だ。そこまで考えて、僕はサイードさんを見る。
サイードさんは僕の視線に気付くと励ますように頷いてくれた。彼のまっすぐで真摯な眼差しを見ると不思議と肩の力が抜けて、きっとなんとかなるんじゃないかという気になってくる。
僕はアドリーに向き直ると「お願いします」と頭を下げた。
アドリーの話では、このイシュマールという大陸には現在三つの大国があるらしい。
東のアル・ハダール。
西のイスタリア。
そして南のエイレケ。
その三つの国に囲まれた中央にあるのがこのダーヒル神殿領だそうだ。神殿領は三国を含む大陸の国々の中で完全中立の立場をとる、大陸全土で信仰されているアルダ教の総本山だという。アドリーは付け加えるように続けた。
「昨日、儀式の間にて貴方が会われた三人の男たちは皆、三つの国を代表して集まった《選定の騎士》にございます。貴方が選ばれたサイード殿はアル・ハダールの騎士。つまり貴方を守護する権利を我らアル・ハダールが得たというわけです」
そう言ってアドリーが僕を見た。
「我々大陸の者にとって雨を降らせる神子は喉から手が出るほど欲しい存在。それゆえ奪い合いにならぬよう、神子自らに守護者を選ばせるのです」
「選ばせるって……」
それが昨日、僕がここに来た時に三人の騎士たちが手を差し出していたアレだったのか。でも選ぶといってもあんな、なんの説明もなくいきなり誰か一人に決めろというのはあまりにも無茶が過ぎるのでは? すると僕の疑問に気付いたのかアドリーが言った。
「事前に情報を与えず選ばせるのは互いの公平を期すためです。そうなれば神子がおのれの感覚で選ぶことになり、そのことに対して他の二国が文句をつけるのは不可能となりますゆえ」
「な、なるほど」
だから他の二人の騎士たちはあんな鬼気迫る目で僕を見ていたのか。完全に逆効果だったけど。
「そして貴方はこのサイード殿を選ばれた。彼は実に頼りになる男です。きっと貴方をよく助け、守り抜くでしょう。貴方には男を見る目がある」
そう言ってアドリーはこくりと頷いた。確か同じことを昨日カハル陛下にも言われた気がする。しかし見る目があると言っても、僕がサイードさんを選んだ理由は彼だけが穏やかで優しそうに見えたからだ。何か深い考えや神の啓示のようなものがあったわけではない。
……その選択が間違っていたとは今のところ思わないけれど。
そう思いながら隣を見るとサイードさんはこっちを見て少しだけ微笑んだ。うう……だめだ、また顔が熱くなりそうだ。僕は慌ててアドリーへと視線を戻して、疑問を口にした。
「あの、この神殿領は完全中立の立場なんですよね? 全部の国が信仰しているような宗教の総本山なら、神子はここで保護するのが一番公平なんじゃないんですか?」
するとそれに答えてくれたのはサイードさんだった。
「ここには神子を守るための兵がいないのだ」
「え?」
思わぬ答えに目を瞬かせる。すると後を引き継ぐようにアドリーが言った。
「神殿は武力を持ちませぬ。万が一どこかの国が神子を奪おうと神殿を襲っても、神子を守る者がおらぬのです」
その言葉にハッと顔を上げる。
「じゃあ僕はこれからここで暮らすんじゃないんですか?」
「貴方にはここで最初の儀式を終えた後、我々と共にアル・ハダールに来ていただくことになります」
「アル・ハダールっていうと、ええと、東の国でしたっけ」
するとサイードさんが僕を見て答えた。
「そうだ。ここからは帝都イスマーンまで馬で二十日ほど掛かる」
「神子にはまず《カルブの儀式》を行っていただき、そこで最初の恵みを与えていただきます。それから我々が貴方をお守りしてアル・ハダールに戻る予定にございます」
「さ、最初の恵みって……」
それって、その《カルブの儀式》で雨を降らせろという意味だよね。ただの高校生だった僕にできるわけがない。それとも、あんなに自信たっぷりにアドリーが言っていたのだから、『神子』がその儀式さえすれば雨が降るのだろうか。
僕はぎゅっと服を握って唇を噛む。やってみなければ結果はわからない。でももしできなかったら? カハル陛下の視線の強さや、儀式の間で口々に何かを叫んでいた大勢の兵士たちの姿、僕をギラギラした目で見ていた他の二国の騎士たちが脳裏に浮かんでくる。
マンガや小説で異世界に行った主人公たちは皆、努力とチート能力でバンバン世界を救っていた。もしかしたら僕もそんなことができるのだろうか。もっと楽天的で自分に自信があればこの状況を楽しむくらいでいられたんだろうか。
思わずため息を漏らすと、向かいに座ったアドリーが首を横に振った。
「神子よ。先程も申しましたが、雨の恵みをもたらす方法について悩む必要はありませぬ。恵みを与える力を持つのは確かに貴方だが、雨を降らせるきっかけを作るのは別の者なのです。神子たる貴方は、ただそこにおられるだけでいい」
「え?」
それってどういうこと? 僕が何かをするというよりは、誰かが僕を使って何かをする、というように聞こえて首を傾げる。
すると淡々と話していたアドリーが不意に目を輝かせて頷いた。
「貴方は間違いなくイシュマールに恵みをもたらす《慈雨の神子》だ。なぜなら恵みの前兆はすでにこの地に表れているのだから」
「本当か?」
サイードさんが眉を上げてアドリーを見る。
「いかにも。貴兄らがハマームで身体を清めている時に。それで少し席を外しておりました」
なるほど。さっきアドリーが部屋に入ってきた時なんかそわそわしていたのはそのせいだったのか。けれどアドリーとは対照的にサイードさんは何か考え込むような顔になってしまった。
ええと、ハマームってさっきの蒸し風呂のことだよな。あそこにいる時に恵みの前兆……つまり雨雲でも出たってことかな。でもあそこで何かしたっけ?
そこまで考えてカッと火がついたように顔が熱くなった。……これ以上考えるのはとりあえずやめておこう。
お茶を飲むふりをして真っ赤になった顔をごまかしていたら、サイードさんの視線がふと僕の手元に落ちた。
「口に合わないか?」
「え? あ、いえ……」
しまった。さっきから全然食べていないのがついにバレてしまった。
正直、肉や揚げ物ばかりでまったく食欲が湧かない。僕は曖昧に言葉を濁して目の前の皿を見る。
だってうちの普段の朝ごはんは、せいぜいパンかご飯に玉子とソーセージを足すくらいだった。父さんと僕がご飯派で、母さんと兄貴がパン派。僕と兄貴が子どものころは朝ごはんがパンかご飯かでよくケンカになっていたらしい。だから母さんがいつも一日置きに交代でパンとご飯にしてくれて……そうだ、玉子も半熟か硬めかってまた言い合いになって……そこまで思い出して目頭が熱くなりそうなのを必死にこらえる。
……だめだ。とても今は食べられそうにない。
「今はちょっとお腹が空いてなくて」
首を振って皿を置くと、サイードさんだけでなくアドリーまでが眉間に皴を寄せているのに気がついた。
確かに神子が雨を降らせる前に過労や栄養失調で倒れたりしたら元も子もないだろう。
申し訳ないなと思うと同時に、胃の辺りがずしんと重くなる。
そうだ、この人たちは別に僕の心配をしているわけではない。砂漠に雨を降らせる大事な神子が倒れたら困るから、あれこれ気を遣ってくれているだけだ。
そんな考えが浮かんで、胃の辺りがムカムカして気持ち悪くなる。
それを振り払うように僕は勢いよく顔を上げた。
「あ、あの……っ!」
「どうされました、神子よ」
「僕が呼ばれた理由はわかりました。正直、そんなことができるとは全然思えないんですけど」
今まで僕は年上のよく知らない人相手にこんな風に自分から何かを言ったことなんて一度もない。それでも緊張と不安と訳のわからない焦りのようなものに突き動かされて僕は言った。
「だけど、もし僕が本当に神子で、無事雨を降らせることができたとして」
ごくり、と唾を飲み込んで言う。
「僕はいつ元の世界に帰してもらえるんですか?」
僕の言葉にしん、と部屋が静まり返る。その時落ちた沈黙ほど重たくて痛いものはなかった。それだけで答えがわかってしまう。
「……っふ、……っ」
ああほんとに、なんでこんな。俯いた顔に血が上って目の奥がたまらなく熱くなる。
「神子よ……!」
「神子様!」
アドリーとウルドの声がしたけれどとても返事なんてできなかった。
この世界に連れてこられてずっともしかしたらと心のどこかに引っかかっていた。僕が本当に神子だったとしても、果たして僕はちゃんと元の世界に帰してもらえるんだろうか、って。
僕は確かに地味で目立たない人間だったけど、勉強を頑張ってテストの順位が上がれば母さんは仕事から帰ってきてから僕の好物を作ってくれたし、兄貴だって褒めてくれた。父さんは毎晩帰りが遅かったからあまり顔を合わせていなかったけれど、そんな時間まで働いてくれていたからこそ、僕は今まで恵まれた生活を送れていたんだとわかっている。
お互いに何か特別なことを言ったことなんてなくても、僕があの家族の一員だったことを疑ったことは一度もない。なのにもう二度と会えないなんて。鼻の奥がツンとして涙が込み上げてきて、僕は乱暴に顔を擦った。
「……う、ぐ……っ」
こめかみがズキズキして喉の奥が痛くて、強く目をつぶっても涙が溢れてきてしまう。いい年をして人前で泣くなんて恥ずかしいと思うのにどうしても止められない。その時、ふと傍に人の気配がして誰かの腕が肩に回された。
「す、すみま、せん」
ぎゅっと肩を抱いてくれたサイードさんの服を握りしめて歯を食いしばる。涙を止めたくて息を詰めてもどうにもならない。するとサイードさんが僕の身体を持ち上げてしっかり抱きしめてくれた。
同時にアドリーの声が聞こえてくる。その声は先程までの淡々とした調子とは違い、ほんの少し震えているように聞こえた。
「……神子よ。私にとって、神子をお迎えすることは長年の悲願でありました。また、神子さえ得ることができれば、当然我らはその恵みを受けることができるのだとも思っておりました。だが神子の方にも失い難き人生があったのだということを、恥ずかしながら今初めて思い知らされました」
その言葉に驚き、思わず彼を見る。するとアドリーは両方の拳を床につき深々と頭を下げて言った。
「こちらの勝手ばかりを押し付けて申し訳ない、神子よ。だが我が国には、この世界には、どうしても貴方が必要なのです。どうか、どうか貴方の恵みの力を我らにお与えください」
さっきまでずっと無表情だったアドリーの目が苦しそうに歪んでいて、僕は涙でぼやける目を瞬いた。アドリーは息を短く吸うと、先程とは打って変わった真摯な声で僕に言う。
「現在この大陸のほとんどが砂漠に覆われております。北のエルミラン山脈から湧く地下水こそ我々に残された唯一の生命線なのです」
アドリーがそう説明してくれる。
「しかしそのエルミランに降る雨は年々減り、このままではいずれ各地に点在するオアシスは枯れ、ほどなく国の中心部に流れる地下水路も干上がるでしょう。そうなる前にどうか慈雨の恩寵をお与えいただきたい。それができるのは神子である貴方だけなのです」
そう言うアドリーの目は怖いほど切実だった。藁にもすがる思い、というのはこういうのを言うのだろう。
ようやく上辺だけではない、彼の本当の気持ちを知れたような気がした。震える息を吐き、もう一度考える。
こうしてこの世界に来てしまった以上、もう僕が帰ることはできないのだろう。そして彼らが僕を大事にしてくれるのは、僕が雨を降らせることができる唯一の人間だから、ただそれだけなのも仕方のないことだ。それでも、とサイードさんの顔を見る。それでも、僕がこの世界でできることがあるのなら……
僕は頭を振って、まだ上手く声が出てこない喉を叱咤して答えた。
「……事情は大体わかりました。僕も、できるだけのことはお手伝いしたいと思います。……すみません、今言えるのはそれだけです」
「感謝申し上げます、神子よ」
そう言ってアドリーは深々と頭を下げ、なぜかサイードさんの方を見た。サイードさんはアドリーが言わんとしていることをわかっているようで、軽く頷くと彼に言った。
「神子殿への給仕は私がしよう。急ぎアジャール山の様子を見てきた方がいい」
「はい。神子よ、申し訳ないが御前を失礼いたします」
アドリーはそう言って慌ただしく部屋を出て行った。
「あの、アジャール山って……?」
僕がサイードさんを見上げて尋ねると、サイードさんは小さく頷いた。
「今、話に出ていたエルミラン山脈への入り口となる山の名だ。この神殿のちょうど北の正面から見ることができる」
「そうなんですね……」
まだまだ知らないことばかりだ。そう思い視線を戻すと、まだ自分がサイードさんの膝に座ったままであることに気がついた。
「うわっ! すみません、僕……っ」
「気にするな」
サイードさんはその言葉通り気にした様子は見せず、胡坐をかいた足の片方に僕を乗せ、ウルドに指示していくつか食べ物を持ってこさせた。
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そう言ってサイードさんは僕の手から空の茶碗を取り、ウルドを呼んだ。
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「えっ⁉」
慌てる僕を気にもせず、サイードさんはそのまま僕にサンダルを履かせてくれる。
その端正な横顔にまた心臓が跳ねた。僕が神子だから特別扱いしているのか元々そういう風習なのか、この人のすることはいちいち心臓に悪い。その時、ふと朝彼から聞いた言葉を思い出した。
「あの、サイードさんが最初に言ってた『アル・ハダール第一の槍』っていうのは……」
するとサイードさんは僕の足を床に置いて顔を上げた。
「私はハリファ・カハルよりアル・ハダール第三騎兵団の団長職を拝命している。第一と第二の長は剣を使うが、私が得意とするのは鋼鉄の大槍だ。だから帝国第一の槍と呼ばれている」
凄い。騎兵団の団長で、鋼鉄の大槍を使っているなんてかっこよすぎじゃないか⁉ マンガや小説が大好きなオタクのサガで、思わずさっきまでの悲壮な気分が吹っ飛んでしまう。
しかしなんとなくそうだと思っていたけど、やはりサイードさんは偉い人だった。僕が敬語で話していても、サイードさんに対してだけは誰も咎めない。そんな凄い人にサンダルを履かせてもらったり、風呂場でもあんなことまでさせてしまったり……
「す……すみません……」
思わず謝ってしまった。するとサイードさんがいぶかしげに僕を見る。
「肩書はどうであれ、今は貴方を守ることが我が務めだ。どうかいつでも、どんなことでも頼ってほしい、神子よ」
とんでもない美形がもの凄くかっこいいことを言っている……。相手が僕なのがもったいないぐらいだ。また真っ赤になってしまっていそうな顔をごまかしたくて僕はサイードさんに言った。
「あの、できたら名前で呼んでもらえませんか? 僕は春瀬櫂……ええと、カイという名前です。あとできたらもう少し普通に……本当に僕、ただの平民なので、あまり畏まられると、その」
するとサイードさんが珍しく目を丸くする。そしてふっと笑って言った。
「わかった。これからはそうしよう、カイ殿」
「いや、呼び捨てでいいです! 殿とかいいので!」
慌てて手を振る僕にサイードさんがまた笑った。
「ならばカイも俺にそう畏まらなくていい」
い、今俺って言ったよね⁉ 今までは私だったのに! サイードさん、普段は自分のこと俺って言うのか……意外だけどそのギャップがカッコいい……
そんなことをぽーっと考えていると、サイードさんは僕の手を取って立ち上がった。
「ではカイ、アジャール山が見えるところに案内しよう」
「あ、ありがとうございます」
するとすかさずウルドが近づいてきた。
「外はすでに日差しが強うございますので」
そう言って頭を下げたウルドから畳んだ布らしき物を受け取ると、サイードさんは僕の手を引いて歩き出した。そして彼が扉を開けようとするのを見て、今朝そこで見た黒い鎧姿の男のことを思い出す。思わずサイードさんの手をぎゅっと握りしめると、彼が驚いたように振り向いた。
「どうした? カイ」
「あ、いえ……」
あの男が誰なのかサイードさんに聞けばいいのに、僕を見下ろした冷ややかな黒い目や獰猛な気配を思い浮かべただけでなぜか喉が詰まって声が出なくなる。そうこうするうちにサイードさんは扉を開け、僕の手を引いた。恐る恐る部屋から出てみると、扉の外には誰もいなかった。
部屋の外には長い石造りの廊下がずっと向こうまで続いていた。
「ダーヒル神殿は東西に長い形をしていて、中央にカイが最初にいた儀式の間がある。アジャール山へはその儀式の間から北へ続く通路を通って行くことができる」
サイードさんについて廊下の端まで行き、螺旋状の階段をひたすら上る。階段の先にあった扉のない狭い出入口から外に出た途端、強烈な日差しと熱に襲われて思わずたじろいだ。分厚い石造りの神殿の中ではそこまで暑さは感じなかったが、さすが砂漠の国だ。直射日光の威力は相当なもので目が眩む。するとサイードさんがウルドから受け取った布を広げて被せてくれた。
「あれがアジャール山だ」
そう言ってサイードさんが指差した先を見て思わず息を呑んだ。そこには切り立った巨大な岩が重なる崖を越えた先に、黒々と聳える山があった。その後ろにも高い山々が連なりその部分だけが砂漠の世界で寒々しく見える。
僕の様子を見ながらサイードさんが説明をしてくれた。
「この神殿はアジャール山を北に背負う形で建てられている。アジャール山に連なるエルミラン山脈に降る雨と山頂の雪解け水が地中に深く染み込んで、大陸全土に地下水として蓄えられる。我らはそこから地下水路を経由して街へと水を引き込んでいる」
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「あの、それでさっきアジャール山に雨の兆候が見えたっていうのは……あれですか……?」
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サイードさんも厳しい顔をして山の上の雲を見上げている。
「……あんまりいい雲には見えないですけど……」
「……そうだな」
やっぱりそうなんだ。え、でも朝食の時のアドリーはちょっと嬉しそうに報告してくれていなかった? そう聞いてみると、サイードさんも眉を顰めたまま頷いた。
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「考えても詮なきことだ。儀式の日まで心安くあれ、カイ」
そう言ったサイードさんは元の穏やかな顔に戻っていてホッとした。
サイードさんはカハル陛下や神殿長、アドリーに対してはいつもキリリと唇を引き結んでいて言葉数もかなり少ない。けれど僕が不安になった時はいつも少しだけ笑みを向けてくれる。それがとても嬉しい。
「あの、サイードさんは僕がやる最初の儀式の内容を知ってるんですか?」
「……ああ、少しだけだが」
珍しく歯切れの悪い口調でサイードさんが頷いた。な、なんか不安になってくるんだけど……
目に入った雲の不穏さと相まってどんどん不安が増して、手が冷えていくのを感じる。するとそんな僕を見たサイードさんは踵を返した。
「顔色が悪い、一度部屋へ戻ろう。カイさえよければ後で神殿長殿が話をしたいそうだ」
そう言われて急にどっと疲れが押し寄せてくる。次々にいろんなことが起きて頭がくらくらするし、この強い日差しと太陽の熱にも慣れるまで大変そうだ。
部屋に戻った僕は相当顔色が悪かったようで、サイードさんにしばらく休むように言われてしまった。彼はウルドに水を持ってこさせ、僕の上着を取って身軽にしてから寝台に寝かせてくれた。昼が近づくにつれ、馴染みのない異国の香りと部屋に籠もり始めた熱気が鼻孔に絡みついてくるようだ。軽く頷いて出て行こうとする彼をつい目で追っていると、すぐに気付いて近寄り、またかすかに笑ってくれた。
「眠れ、カイ。また迎えに来る」
サイードさんの声は穏やかだけれど言葉の音のひとつひとつがはっきりしていて力強い。だからこんなにも安心できるのだろうか。彼の温かい手のひらを目蓋に感じながら僕は眠りに落ちた。
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両親にも会いたいアデルは、アダム・グランデとして生きていくことを決めた。
しかし、約束の日に会ったアダムは、体はバキバキに鍛えており、肌はこんがりと日に焼けていた。
幼少期は瓜二つだったが、ベッドで生活していた色白で病弱なアデルとは、あまり似ていなかったのだ。
そのため、化粧でなんとか誤魔化したアデルは、アダムになりきり、両親のために王都へ向かった。
アダムとして平和に暮らしたいアデルだが、婚約者のヴィンセントは塩対応。
初めてのデート(アデルにとって)では、いきなり店前に置き去りにされてしまい――!?
同性婚が可能な世界です。
女性も登場しますが、恋愛には発展しません。
※ 感想欄はネタバレを含みますので、お気をつけください‼︎(><)
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