月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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後日談やおまけなど

後日談 神武官・ダルガートの幸福(3)

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 神殿領とエイレケ、そしてイスタリアの国境にほど近いオアシス都市イザーンを過ぎ、三人はついにあの『砂の顎』にたどり着いた。

 流砂は地下水と砂漠の砂が交じり合ってできる。よく見るとわずかに砂の色が違っていて、用心のためにダルガートが騎乗したまま近くに行くと、馬は途中で歩みを止めてそれ以上は頑として進もうとしなかった。

「この子は賢いからわかるんだね」

 カイがそう言って笑みを浮かべる。ダルガートが黒く大きな愛馬から下りると、同じく下馬したカイがダルガートとサイードを見た。

「ここね、流砂帯に見えるのは罠なんだ。『ブラフ』って言ってたけど」

 カイがそう言って目の前を指さす。

「本当はね、ここ、ほら、見て。今ならわかるかも」

 カイが目を閉じ、何かに集中するのを感じた。すると目の前の景色が揺れ、腹の底にざわざわと奇妙な感覚を覚える。条件反射で腰のシャムシールに手を掛けたが、突然霞が払われたように視界が明るくなり、見上げるほどの巨大な塔が現れた。

「……これは……」

 驚きに呟くサイードの声が聞こえる。ダルガートもただ無言で信じられない光景に目を瞠った。

「……ここが、神子が言っていた場所なのか」
「そう。ここで僕は『彼』に会って、この世界の秘密を知ったんだ」

 カイの言う人物こそが世界を統べる神のようであったが、カイは頑なにその名で呼ぼうとはしない。だからダルガートも慎重に言葉を選んで言った。

「それで、神子は今から再びその男に会いに行かれるのか」
「そう。僕ならもう一度彼を呼び出せると思う」

 塔を見上げたままカイが言う。

「僕に与えられた役目は『彼がこの世界で楽しむためのアバター』だったけれど、そのためにこの世界のあらゆる事象を操る端末としても使われてるんだと思う。つまり《神子の力》っていうのはこのフィールド限定のコントローラーとしての能力なんだ」

 ダルガートたちには見えぬ何かを見つめながら語るカイの横顔を黙って見ていると、カイが振り返って微笑んだ。

「大丈夫、心配しないで。ちゃんと戻ってくるから」

 そう言って差し出された手を握り、ダルガートとサイードは彼の額に口づける。

「じゃあ、行ってきます」

 そう言ってカイは姿を消した。
 ダルガートはいまだ消えずに残っている塔を見上げてしみじみと呟く。

「……私は素面で酔っているのか?」

 するとサイードが小さく吹き出して振り向いた。

「いや、俺の目にもちゃんと見えている」
「ならば蜃気楼という可能性もあるやもしれませぬな」
「こんな間近にか」

 ダルガートは馬を呼び寄せ括り付けた荷物から革袋を取ると中の水をあおる。そしてそれをサイードに手渡そうとした時、彼がわずかに戸惑うような素振りを見せた。ダルガートが眉を上げると、サイードが苦笑して左手で革袋を受け取る。

「まだ時々、右腕がないことを忘れてしまうことがある。ダルガートといると特にな」
「左様か」

 サイードは以前この地に来た時に流砂に呑み込まれたカイを救おうとして謎の光に右腕を斬り落とされた。そして皮肉なことに理由は違えども今の世でも彼は片腕をなくしていた。
 カイが歴史を変え、干ばつや渇水がなくなり、サイードは家族を失うことなく生まれ故郷のダウレシュで暮らしていたが、土地と家畜を狙って襲ってきた賊を倒す代わりに腕を失ったのだ。
 そして腕を治そうか、とカイに聞かれた時にサイードはそれを断った。

 ダルガートはサイードと並んで砂の塔を見つめながら、口を開いた。

「ひとつだけ、よろしいか」

 するとサイードが笑みを浮かべて頷く。

「もちろんだ。なんでも言ってくれ」
「……その腕」

 サイードがダルガートを見たまま、一つ瞬きをした。

「貴兄が納得の上なら何も言うことはござらぬ。だがいつか、片腕がなかったせいで神子殿をお守りするのに力及ばぬことがあった時、貴兄がどう思われるかが些か案じられまする」
「…………ああ、そうだな」

 サイードは静かにそう答えた。

 サイードは非常に責任感が強く、生真面目だ。そして自分の命よりもカイを大事に思っている。そんな男がもしも自らの力不足でカイを失うようなことになった時どう思うのかが気に掛った。
 サイードはしばらく無言で目の前に聳える塔を見上げていたが、ダルガートを見て「よく考えてみよう」と答えた。それに頷き視線を塔に向けると、今度はサイードの方がダルガートに尋ねてきた。

「俺もひとつ尋ねてもいいか」
「もちろん」
「ダルガートは記憶が戻る前、カイに会って何か思うところはなかったのか?」

 予想だにしなかったその内容に、ダルガートはシュマグの下からサイードを見る。そして再び視線を塔に戻して答えた。

「……何も感じなかったと言えば嘘になりましょうな」
「そうか」

 ダルガートがこの新しい世界で初めてカイと言葉を交わしたのは五十年に一度の《サフィーナの大祭》の最中のことだった。ダルガートが夜の見張りについていた時に真夜中の神殿の廊下に翻る白いジャヒーヤを見つけ、後を追った。そして神殿長やごく一部の者しか知らぬ隠し通路を通って神殿の屋上へ上がっていったカイを怪しんで問い詰めた。
 あの夜カイは分不相応な飾りを耳につけ、突然わけのわからぬことを言って泣き出し、あまつさえ今まで言葉を交わしたこともないくせに『ダルガートが好きだから』などとふざけたことを言った。
 とはいえあのように与えた者の執着がひとめで知れる高価な耳環を嵌めた者からの告白など、ダルガートが真面目に受け取るはずもない。カイが甘言をもってしてダルガートを篭絡しようとしていたのなら片腹痛いと言わざるを得ないほどのつたなさだ。

 だがダルガートはそれ以上カイを問いただすことはしなかった。
 もちろん、自由に泳がせて様子を見ていても、その気になればいつでも捕らえて尋問できると思ったせいもある。

「……神子と再び相対しても、かつての記憶はまったく浮かばなかった。だから私は彼がダウレシュへ向かう時も、神子が何を企んでいるのか見張るつもりで同行した。あの旅の行き来の間にすべてを探り出し、白状させるつもりだった」

 なのに神子はそんなダルガートの腹の底にも気づかず、相変わらずより大きい方のパンやチーズをダルガートに与え、馬に乗る時に身体が触れれば急に身を強張らせ、そのくせ嬉しくてたまらないというように顔を綻ばせた。
 時折ジャヒーヤの影から食い入るように見つめてくる視線も、騎乗しながらだんだん力を抜いてもたれてくる背中も、そしてあのオアシスで警戒心の欠片もなく薄物一枚になって水浴びをしていた姿も、何もかもがダルガートを誘っているように見えた。

「私は神子を傷つけた。彼の身体をもてあそび、口を割らせるために抱いた。そして神子の口からほとんどすべてのことを聞いて、その上あの耳環も見たのに何も思い出せなかった。それが口惜しく、そして申し訳なく思う」

 そう白状したダルガートを、サイードは一言も責めなかった。

「……カイに対して罪があるというなら俺も同じだ。カイは命を張ってあの入れ墨の男から俺たちを助けようとしてくれたのに、カイを心から信じることができなかった」

 もちろん、一族の長の子であるサイードなら会ったばかりの旅の神官よりも一族の安全を優先するのは当たり前のことだ。だがそう言ってもサイードの心は休まることはないだろう。何を言われてもダルガート自身がおのれの仕打ちを是とできないのと同じように。

「……もうひとつだけ、サイード殿に謝らなければならないことがある」
「なんだ」
「神子は貴兄に再び会い、その穏やかな人生を見て、貴兄に会うためにダウレシュに来たと話すのは止める、と私に言った。そして私はそれを諫めなかった」

 カイはサイードと再会してから何度も何度も感情が溢れ出るような顔をしてサイードを見つめていた。それも決して彼に気づかれぬよう、息を殺してそっと見つめていた。
 三人で狩りに行った時「このまま話さぬつもりか」と問うたダルガートに「サイードさんはここで幸せだから。だからこれでいいんだ」と言ってカイは泣いた。
 そんな彼のジャヒーヤを手荒く引き下ろしたのは、隠すというからにはそんな顔をサイードに見られてはまずいだろうと思ったのとは別に、ダルガート自身がサイードを思って泣く彼の顔を見ていたくなかったからだ。

 ダルガートはサイードを振り返ってニヤリと笑う。

「恐らく、私が貴兄に初めて感じた嫉妬でありましょうな」
「そうか」
 
 そう言ってサイードはなぜか嬉しそうに笑った。そこでそんな顔をされると思っていなかったダルガートは思わずシュマグの下で眉を顰める。

「なぜそこで笑う」
「ああ、それは――――」

 と、サイードが言いかけた時突然目の前にカイの姿が現れた。

「カイ」
「ただいま、サイードさん。ダルガート」

 塔へ行く前と変わらぬ笑顔でカイが答える。その背を抱き寄せてサイードが尋ねた。

「思うことは成し遂げられたのか」
「はい」
「そうか、それは良かった」
「それで、サイードさんにひとつ話があって」
「俺に?」

 瞬きをしたサイードを見上げて、カイが言った。

「――――腕、本当に治さなくていいですか?」

 奇しくも先ほどのダルガートと同じ問いを口にしたカイは、やや緊張したような面持ちだった。

「サイードさんとダルガートの記憶が戻ってからずっと考えていました。そして決めたんです。僕は、この先二度と《神子の力》は使わない。例えこの世界のためになると思われることであっても、もう僕は何かを変えるために力は使いません。でも、それじゃサイードさんの右腕はずっとこのままだ。だから、だから最後に、」
「カイ、無理はしなくていい」

 サイードの言葉にカイが目を見開く。

「カイは、自分の力の強大さを知って、それを使うのが怖くなったのだろう。違うか?」
「……ッ」
「ほら、顔が強張っている」

 言葉を詰まらせたカイを見下ろして、サイードがかすかに微笑んだ。

「カイは良かれと思って歴史を変えたが、完全な幸福だけがある世界にはならなかった。同じようにもしもここで俺の腕を治せば、また別の不幸がどこかで起こると心のどこかで案じているのではないか?」
「サイードさん……っ」

 ぎゅっと目を瞑ったカイをサイードが抱きしめる。

「カイの気持ちは嬉しい。だが腕をなくしたのは俺がカイや家族を守ろうと戦った結果だ。この身に起きたことはすべて、俺自身が選び歩んできた道の証だ。だからこのままでいい。カイもこれ以上自分の力のことで苦しむな」
「……っ、サイードさん……っ」

 カイがサイードの身体に両腕を回し、ぎゅっと抱き着いた。サイードがその背を撫で頭のてっぺんにキスを落とす。二人の姿を見てダルガートは考えた。
 いかにもサイードらしい結論だと思う。自分だったら神とやらを脅してでも腕を治そうと考えただろう。
 サイードは実益よりもカイの心の平安とおのれの矜恃をとったのだ。
 ならば自分の役目は万が一にもカイが身命を脅かされサイードがこの決断を悔やむことがないよう、カイをあらゆる災いから守ることにある。それならば最も得意とするところだ。
 ダルガートは口笛を吹いて馬たちを呼び寄せると、サイードの懐で顔を拭うカイに言った。

「お役目が終わったのなら戻るといたそう。神子殿はまだイザーンの町には行ったことがないはず。せっかく三人会えたのだから、少しは楽しみがあってもよろしかろう」
「うん、そうだね」

 カイが笑って頷く。そして一路イザーンの町へと馬を走らせた。

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