月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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後日談やおまけなど

後日談 神武官・ダルガートの幸福(1)

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「そこまで!」

 神武官長の鋭い声を合図に、ダルガートは振り下ろした円月刀シャムシールを相手の首の手前でピタリと止めた。そして剣を引くと、硬直していた相手が恐る恐る息を吐き出す。それを見て神武官長のラシッドが腕を組んで言った。

「結局、今日もダルガートに勝てた者はおらぬのか」
「面目次第もございませぬ」

 今ダルガートに負けた相手がかしこまったように頭を下げる。その時、ちょうど五の鐘が鳴って午後の鍛錬は終了となった。
 神武官は、普段から神殿や町の哨戒や国境警備の任に当たらぬ時は神殿裏で日々厳しい鍛錬を行う習わしだ。剣を鞘に納め汗を拭いながら、ダルガートは裏手にある井戸へと向かう。そこでは今日の鍛錬に参加していた神武官たちが手足を洗い汗を流していた。

 ダウレシュへの旅から戻って以来、井戸に立つ度に水の清らかさと量の豊富さへの感慨が心中に湧き起こる。それは「前の世界の記憶」を取り戻す前にはなかったことだ。
 以前は当たり前だと思っていたこの豊かな水が、すべてあの《慈雨の神子》の呼び起こした奇跡によるものだと今は知っている。だからこそ、この一口の水がこの上なく甘くありがたいものに感じられた。
 その時、先ほどダルガートに負けた神武官のティムルが言った。

「やはり強いな、ダルガート殿は」

 すると隣で水を飲んでいた男も頷く。

「次の鍛錬ではぜひ手合わせ願いたいが、どうだ」
「ああ」

 その時、ふと視線を感じて顔を上げると神殿の窓から誰かがこちらを覗いていた。その相手はダルガートと目が合うとさっと頭を引っ込めてしまう。けれど翻るジャヒーヤの影から一瞬見えた顔は確かに見知ったものだった。
 するとティムルがおかしそうに笑って言った。

「あれは先日、貴方と共に旅をした下級神官だろう」
「いつも食堂で給仕をしている神官だな? どうやらずいぶんと好かれているようではないか」

 普段はあまり話しかけてこない男までもがなぜか寄って来る。
 
「皆、気づいているぞ。ダルガート殿のチーズだけいつも大きいことに」
種なしパンクマージュも大きくはないか?」
「よくあの窓からこちらを覗いているだろう。羨ましいことだ」

 周りにいた男たちがここぞとばかりに揶揄うように言った。恐らく、普段愛想のないダルガートが珍しく見せた隙を面白がっているのだろう。
 ダルガートはわざとこれみよがしに目を細めて鼻で笑ってやる。するとある者は愉快そうに笑い、ある者は肩をすくめ、ある者は羨まし気に頭を振りながらその場を去った。

 ダルガートは神殿の裏口へと歩きながらティムルに言う。

「神殿長様より御用を仰せつかった。しばらくここを離れることになる」
「そうか、行先を聞いても?」
「南の砂漠、エイレケとの国境辺りだ。戻るまでは数日掛かるだろう」
「わかった。その間の夜番についてはアジム殿に話しておこう」
「頼む」

 このティムルという男は、サイードには遠く及ばぬがなかなかの槍の使い手だ。性根もまっすぐで責任感が強く、そんなところもかの御仁に少しばかり似ていると思う。
 そんな生真面目な男が珍しく気にした風に声を潜めて言った。

「すまない、もしや気分を害しただろうか」

 先ほどの彼らの軽口のことを言っているのだろう。だからダルガートは「いいや」とだけ答えた。するとティムルがわずかに眉を下げて頭を掻く。

「皆、ダルガート殿と言葉を交わしたかったのだと思う。だが普段はなかなかきっかけがなくてな。それできっと皆、ここぞとばかりに調子に乗ってしまったのだろう」

 なんとも可愛げのあるその言葉にダルガートは思わず口角を上げた。
 おそらく、それを言われたのが記憶を取り戻す前だったら「下らぬことを」と鼻も引っかけなかったことだろう。だがかつての飢えと渇きに満ちた世界と比べるとなんとも平和な話に、今はただ笑みが漏れる。

 もちろん、この世界にも争いごとはある。他の三国、とくにエイレケとの間には並々ならぬ緊張感が漂っていることは事実だ。だがそれでもやはり今の世は平和極まりないと思う。
 それもこれもすべてあの神子殿の尽力と覚悟の賜物なのだと思うと頭が下がる。

 正直、彼の言う「過去の歴史を改竄し、新たな世界が再スタートした」という言葉の意味を完全に理解できたとは言えない。それでもあの神子がとてつもない勇気と度胸で何か大変なことを成し遂げたのだということだけはわかった。
 初めてあの儀式の間で見た時は、こんな剣もまともに握れなさそうな子どもが《慈雨の神子》などという重責に耐えられるのか、と案じたものだった。今となっては片腹痛い心配であったと言わざるを得ない。

 そんなことを考えていると、ティルムが笑って言った。

「名を何と言ったか。あの下級神官にずいぶんと慕われているようだな。ダルガート殿も隅に置けぬ」

 突然そんなことを言われてダルガートは思わず深く被ったシュマグの下から相手を見返す。するとティルムが恥じ入ったように顔を赤らめて咳ばらいをした。

「いや、すまん。調子に乗っているのは私も同じようだ」

 それから少し歩いて、また口を開く。

「ダルガート殿とはもうかなり長いが、以前から親しく話をしたいと思っていたのだ。他の者とて同じだろう。差し出たことを言ってすまない」
「いや」

 それから使った武器を手入れし、所定の位置に片付けてから食堂へと向かった。





 そんなことがあった日の夜、ダルガートが夜番の交代へ向かう途中に神殿の裏を歩いていると、窓からかすかに名を呼ぶ声を聞いて足を止めた。

「ダルガート」

 案の定、そこからカイが顔を覗かせて小さく手を振っている。

「今日、夜番?」
「いかにも」
「そっか。お疲れ様」

 カイはそう言って窓から手を伸ばし、何かをダルガートへと差し出した。それはチーズを種なしパンで包んで焼いたもので、彼が自分で考えて余り物で作ったのだと言って以前もダルガートに分けてくれたことがある。布に包まれたそれはまだ少し温かかった。

「他の人に見つからないようにね」

 そう言ってカイがニヤリと笑う。ダルガートはそれを懐にしまうと小声で尋ねた。

「神殿長よりお聞きか」
「うん。ダルガートも一緒に来てくれるんだよね。ありがとう」
「出発は大体三日後あたりでよろしいか」
「いいよ。サイードさんもそれまでにはこっちに来てくれると言ってたからね」

 サイードがこの神殿までダルガートたちを尋ねて来てくれたのはひと月ほど前のことだ。その時三人で相談し、彼の手が比較的空きやすいこの時期に再び落ち合うことを決めていた。その約束の日が間もなくやってくる。

「ではサイード殿が来られたら、その翌日に」
「うん。それまでに旅の支度もしておくね」

 ダルガートは辺りに人の気配がないことを確認してから、カイの頬に手を添えた。するとカイが慌てたように口を開く。

「ダ、ダルガー……」

 その言葉を遮るように彼の唇を盗んだ。軽く触れただけでカイの肩が小さく跳ねる。わざとそのまま動きを止めると、カイは落ち着かなげに視線を飛ばしながらも、恐る恐る自分から唇を寄せてきた。

「ん……っ」

 ほんのわずかに食んで、ほどけた唇から舌先を忍ばせそっとなぞる。目を閉じ束の間の口づけを味わうカイの顔を楽しんだが、かすかに聞こえた足音に仕方なくダルガートは身を引いた。遅れてカイも人の気配に気づいたようで、ジャヒーヤを引っ張って口元を隠す。そして目に笑みを滲ませ、足早に立ち去って行った。

「ダルガート殿か。今から交代に?」

 聞こえて来た神武官の声にダルガートは「そうだ」と答える。
 その男と二人で神殿の外の見張り台へと歩きながら、ダルガートは今日ティルムに言われた言葉をふと思い出した。

――――あの下級神官にずいぶんと慕われているようだな。
(とんでもない。恋焦がれているのはこちらの方だ)

 日中わずかに目が合うだけで知らず笑みを浮かべてしまうような相手は彼しかいない。ましてや心づくしの小さな食べ物一つ貰っただけでこんなに心が浮き立つなど、これまでの自分にはありえなかったことだ。

(神子は、一体どれほど私に多くのものを与えてきたか、わかっているのだろうか)

 カイはよくダルガートに「守ってくれてありがとう」「いつも助けてくれてありがとう」と言う。だがダルガートが今まで彼にしてやったことなど、どれほどのことでもない。
 それどころか新しい世になってからは記憶がなかったとはいえカイに酷い仕打ちをした。あれは一生償えぬ過ちだ。

 今の世界で再会し記憶を取り戻すまでの間、自分がカイの正体を疑い問い詰め、サイードに疑惑の目を向けられた時もカイを庇わなかったことに後悔や慙愧の念はない。それは神武官として当然の警戒であり務めであったからだ。
 だがダウレシュに着く前、あのオアシスでカイの秘密を探るのにひどく下賎な手段に出たことだけは彼にも、そしてサイードにも申し訳ないことをしたと思っている。なぜならカイの口を割らせるとしても他にやりようはいくらでもあったからだ。

 あの夜オアシスでダルガートはカイを力づくで抱いた。そこに愛はなく、彼を屈服させ、隠していることを洗いざらい吐かせるための手段として犯したのだ。

 あの場合は確かにそれ自体は悪い手ではなかった。
 神殿長に一目置かれている相手を暴力で痛めつけて痕を残すわけにはいかない。また搦め手で聞き出したり外堀から埋めていくだけの時間もなかった。ましてやカイは度々ダルガートを熱の籠った目で盗み見たり、ダルガートを好きだなどと言ったりしていたのだ。ならばダルガートが己の身体を武器にしてカイを篭絡し、服従させようとしたこと自体は有効で効率のいい手段だったと今でも思う。

 けれどダルガートはあの夜、彼の告白を聞いて、自分のしたことを後悔した。
 カイの話は荒唐無稽でとても信じられるようなものではなかった。それでも彼は嘘を言ってはいない、となぜか思った。
 過去を変えただとか天候を操る力だとかそういうことよりも、もしもカイが本当にダルガートを愛しているのなら自分がやったことは彼にとって最悪の仕打ちだったと思ったからだ。
 
「どうかしたか、ダルガート殿」

 急に声を掛けられてダルガートは我に返った。

(今更何を思ったところで詮なきことだ)

 一度してしまったことをなかったことになどできるはずもない。それこそカイが起こした奇跡の力でもなければ無理な話だ。

 いぶかしげに見ている神武官に首を振り、ダルガートは見張りのための胸壁から明かりの瞬く町へと視線を落とした。

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