月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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後日談やおまけなど

後日談 下級神官・ウルドの独白(前)

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「ウルド、スープ足りそうですか? 追加持ってきましたけど」

 大きな寸胴鍋を台に乗せて私にそう尋ねたのは、同じ下級神官のカイだった。

「ちょうど良かった。あと少ししかないんだ。ありがとう、カイ」
「いえいえ」

 そう言ってカイがニッと笑う。
 少し前までは一人で何かを考え込んでいることが多かった彼が、旅から戻って来て以来ずいぶんと明るくなったことに私はホッとしていた。

 カイが神殿長様の命で十八日間の旅に出たのはつい先月のことだ。
 なんでも五十年に一度のサフィーナの祭りのために東のアル・ハダールから来られたハリファ・カハルが、西の国境へ行くための案内人を必要とされたらしい。そして神殿長様と中級神官のアルバハル様はそのお役目に神武官のダルガ―ト様を選ばれ、旅の途中彼らのお世話をする者としてカイに同行を命じられたのだ。

 初めこのことを聞かされた時は私だけでなく皆が驚いた。
 普通、我々下級神官が神殿の外に出るのは町での奉仕の時ぐらいなものだ。それが突然この神殿に来てまだ一年も経っていないカイを、それも神殿長様直々のお声掛かりで旅に出すとはまさに前代未聞のことだ。
 当然それをやっかむ者たちもいたが、旅の間お世話をする相手が十年ほど前に前王朝から王位を簒奪しそれ以来破竹の勢いで大陸の東を平定したハリファ・カハルとその護衛騎士たちで、さらにはあの無口で近寄りがたい神武官のダルガート様が一緒だと聞いて、文句を言っていた者たちもピタリと口を閉ざしてしまった。

 それでも長く下級神官の職にあるガリムのように裏でぶつぶつと文句を言う者はいた。

「あのような新参者が一体どんな手を使って神殿長様をたぶらかしたのか。一度厳しく叱ってやらねば」

 今も給仕の仕事をおろそかにして、神殿に入ったばかりの年若い者相手にそんなことを言っているのを見つけて、私は後ろから近づいて言った。

「おや、その言い方ではまるで神殿長様がたやすく他人の言につられて態度を変えられるお方のように聞こえますが、まさかあのように清廉潔白なお方をそのように思っておいでか? ガリム殿」
「な……ッ! 私はそんなことはひとことも……っ」
「それに、少なくともカイは貴方のように他人の食事を奪って自らの腹を満たそうなどとしたことは一度もありませんよ」

 そう言って彼がさりげなくパンを懐に仕舞おうとしていた手を押さえると、ガリムにカイのあらぬ噂を聞かされていた若い神官はハッと顔を上げ、ガリムを軽蔑の眼差しで見つめた。
 元々貧しさから神殿に入るものが多い私たち下級神官の間では、他人のものを盗む行為は最も嫌われ、蔑まれることなのだ。

「フンッ」

 鼻息も荒く逃げ出したガリムを見送り、若い神官には「他人の言に左右されず、自らの目と耳で物事を見極めるように」と言ってから私はカイの姿を探した。

(今の会話が耳に入っていないといいが……)

 だがカイは少し離れた場所で、運んできた寸胴鍋から器にスープを盛りつけているところだった。いつもと変わらぬ彼の様子にホッとする。

(それにしても、カイは旅から戻って来てからずいぶんと顔色がよくなった)

 ジャヒーヤの裾を翻して手際よく給仕をしている姿を見て思う。
 以前のカイはよく青褪めた顔を俯かせて、夜も何かを思い煩うように遅くまで寝台で転々としていた。だが旅から戻って来て以来何か吹っ切れたような清々しい顔をして、今まで以上に熱心に働くようになった。

 旅をしながら毎夜夜営をし、行く先々で食事などの世話をするのは、慣れている者でもなければかなり大変な仕事だろう。他の神官たちと比べても決して頑強な体つきとは言えないカイが二十日近くもの旅に耐えられるのかと心配したが、案外楽しかったのかもしれない。

 カイは半年ほど前からこの神殿にいる。それ以来私と同じ部屋で過ごしているが、ここへ来る前のことは聞いたことがない。だから彼が神殿に来るまでどんな暮らしをしていたのかは知らないが、旅がいい気晴らしになったのならよかったと思う。

 その時、ふとカイが鍋から顔を上げた。その視線を追うと、夜番明けの神武官たちが食堂に入って来るのが見える。その中に他の神武官たちよりもひと際逞しい人がいた。
 深々と被ったシュマグの下の顔は相変わらず無表情で、いかにも意志が強く獰猛そうな太い眉やがっしりとした顎とは反対にひどく冷めた目をしている。
 彼が一人離れたところに腰を下ろすと、カイが鍋とパンの入った籠を乗せた台車を押して近づいた。そして彼の後ろから給仕をする。

 その人はダルガート様といって、このダーヒルの神殿領を守る神武官の一人だ。そしてカイと共にハリファとの旅に出た人でもある。

 カイが旅から戻ってきて皆で夕食をとっていた時「道中はどうだった?」と尋ねると、カイはほんの少し考えてから「楽しかったです」と言って微笑んだ。他の下級神官が冗談交じりに「ダルガート様は怖くはなかったのかい?」と言うと、カイは何も言わずに笑っていた。

 旅に出る前は、カイはどちらかと言えばダルガート様を避けていたように思う。給仕などは普通にしていたが、深く俯いて彼とは決して目を合わせようとはしなかった。そんな風にカイが相手によって態度を変えるのは非常に珍しい事だったので今でもよく覚えている。
 けれど旅の間に彼とも話などをして打ち解けることができたのだろうか。

 カイという子は不思議と周りの目を引いてしまう。普段はジャヒーヤで隠しているが明らかにこの大陸の者たちとは違う顔立ちのせいなのか、それともどこか捉えどころのない不思議な雰囲気のせいだろうか。
 最近、神殿長様に目を掛けられ信頼されているらしいのは良い事だが、そのせいでいらぬやっかみを買うことが多いのが難点だ。だからこそカイの味方になってくれるような人が一人でも増えて欲しい。
 何かあった時、果たしてダルガート様はカイの力になって下さるだろうか。 


     ◇   ◇   ◇


 それからしばらく経って、神殿ではサラムの日を迎えた。それはその年に人々が得たものの一部をラハル神に捧げ、次なる年の恵みを祈る神事だ。毎年夏至と冬至のちょうど真ん中の日を起点に前後五日間ほど行われる。
 その間に大陸中から多くの人たちがそれぞれの供物を持ってこのダーヒルの中央神殿へとやって来るのだ。

 ある日私が神殿の大階段の前で訪れた巡礼者を案内をする役についていた時、見知らぬ人に声を掛けられた。

「すまないが人を探している。心当たりはないだろうか」

 そう私に尋ねたのは淡い褐色の肌をした、背が高く堂々とした体躯の男だった。
 着ている上着の刺繍や腰のナイフの造りを見るに、恐らく西方の草原の騎馬の民ではないだろうか。立派な鹿毛の馬を連れていて、少し癖のある黒い前髪と横の髪を後ろで結び、まっすぐな眉と秀でた額を露わにした凛々しい顔立ちをしていた。近くにいた町の娘たちもわずかに目元を赤らめ彼を盗み見ながらそばを通り過ぎていく。

「はい、どなたをお探しでしょうか」
「カイという名の下級神官だ。この中央神殿に仕えていると聞いているのだが」

 彼の口から出た意外な名に思わず驚いてしまう。

「ええ、彼のことなら知っていますが……」

 だがカイの口からここへ尋ねてくるほど親しい友人がいるという話は今まで聞いたことがない。

 今でこそカイは落ち着いた様子だが、旅に出る前は突然「頭を打ったせいで記憶が曖昧だ」と言い、妙に危なっかしい雰囲気だったことがある。そんな彼が心配で、私はずっと彼が血の繋がらない弟でもあるかのような心持ちでいた。だからつい目の前の男に警戒心を持ってしまう。

「一体どのようなご用件でしょうか」

 ところがその男は私の無礼な問いを咎めるどころか、目を細めてかすかに微笑んだ。

「俺はダウレシュのサイードという。ハウルの月の頃に我が土地でカイと神武官のダルガートに会い、良い時を持った」
「あ……、ではあの旅で……」

 ハウルの月の頃と言えばちょうどカイが旅に出ていたあたりだ。ダルガート様の名も出てきたことで彼の言葉もさらに信憑性が増す。私は慌てて頭を下げて礼をとった。

「カイは今、神殿の地階の仕事についております。五の鐘で交代になります。その時にここへ連れて参りましょう」
「そうか。では馬を預けてまた来るとしよう」

 そう言って彼は馬の手綱を引いて群れをなす巡礼者たちの中に消えて行った。
 姿勢の良い立ち姿とまっすぐに向けられる視線、そして大らかな人柄が伝わってくるような笑みとがひどく印象的で、私は彼の後ろ姿をしばし見送る。その時彼の右袖が揺れて、片腕がないのだと初めて気が付いた。

「神官様、貢物を持って来たんじゃがのう」

 突然横から声がしてハッと我に返る。そして参拝にきたその老人の荷物を預かり、神殿の大階段を上がるのを手伝った。
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