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【最終章】新世界

132 国境

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 それから四日後、イスタリア領に入ったすぐのところにある辺境の聖廟でカハル陛下たちといったん別れることになった。
 国境と言っても別に柵や関所などがあるわけでもなく、僕が同行したのも万が一イスタリアの国境警備隊に見咎められることがあったら、という保険程度のものだったようだ。
 陛下たちはこのまま商人のふりをして一気に海を目指し、また戻って来るという。

「どうぞお気をつけて」
「十日で戻る。その時はたっぷりと海の話を聞かせてやろう!」

 そう言ってニヤリと笑ったカハル陛下と二人の護衛騎士はあっという間に馬で走り去って行った。その後姿をしばらく見送ってから小さく息を吐き出す。
 これからしばらくはダルガートと二人きりだと思うとなんとなく落ち着かない。それでも覚悟を決めて「聖廟に参ってきます。少しだけ待っていて下さい」と言った。

 神殿内の身分はダルガートの方が上になる。しかも年も一回り以上上なのに昔のような言葉遣いではいけない。それに前と違う接し方をしていれば、すぐ近くにいるのに以前のようには話せない辛さも少しは和らぐのではないだろうか。

 神殿領とイスタリアの国境の砂漠にあるその聖廟は、あのオアシスの聖廟のように小さな無人の祠のような場所だった。それでも旅をする人たちの良い目印になっているらしく、中の聖壇には手ずれの跡や祈りを捧げたろうそくの燃えかすなどが残っている。
 聖壇の前にひざまずき、最近ではスラスラと口から出てくるようになった祈りの文句を唱えて立ち上がる。そして例の水晶玉のような球体を覗き込んだが何も見えなかった。

 聖廟を出るとダルガートがあの黒い大きな馬の鞍を置き直していた。見れば見るほど僕が勝手に黒王号と呼んでいた馬に似ているな、と思う。でもあの馬は元々はサイードさんの馬ではなかっただろうか。それがなぜアル・ハダールではなく神殿領に?
 そんなことを考えていたら鞍の前後が昨日と逆になっているのに気が付いた。
 ジャヒーヤを深く被り直してから彼のところへ戻ると、腰を掴まれて鞍の前に乗せられる。

「え、あの」
「腕が疲れるのだろう」

 そう言ってダルガートが後ろに乗り、馬首を南へ向けた。慌てて鞍の前の高くなっている部分を握ると、ダルガートが馬の腹を軽く蹴って言った。

「神殿長からはダウレシュへ行けとだけ言われているが、それでよいのか」
「あ、はい。でも場所は……」
「絵図を見た。大体わかる」

 ダルガートの話し方にはまだ慣れない。別に敬語で丁寧に接してもらいたい訳ではないが、以前の自分は神子だったお陰で最初からずいぶんと気を遣って親切にしてもらっていたのだなぁ、と今更ながら実感する。

 昨夜、眠れない頭で色々考えた。
 ダルガートが僕を覚えていないなら、また一から新しい関係を築いていくしかない。

 以前の僕は《慈雨の神子》という強力な肩書があったからダルガートもサイードさんも初めから僕に好意的だった。けれど今の僕はただの身寄りのない下級神官にすぎない。
《イシュマールの地を救う慈雨の神子とその守護者》という特殊な前提がなくなった今、以前のような特別な関係には多分なれないだろう。

 以前からこの大陸では男同士で付き合うというのはなくはないが一般的とは言えないものだった。その割に戦場では日本の戦国時代のように若い男相手に性欲を発散する習慣はあるそうで、そのせいでサイードさんもダルガートも同性相手とのセックスの方法は知ってはいたらしい。けれど男同士で付き合うのは僕が初めてだと聞いたから、本来の恋愛対象はやっぱり女性なのだろう。

 贅沢は言わない。でもできれば毎日顔を合わせた時に挨拶をしたり、何かどうでもいいことを話せるような仲になりたい。ウルドとだってうまくやれているのだから決して不可能ではないはずだ。

 聖廟を出てからダルガートは無言で馬を走らせ続けた。手綱を握る彼の腕が後ろから僕を囲うように伸びている。まるで懐に抱かれているようにダルガートの体温を背中で感じて高鳴る鼓動をなんとか鎮めようと、僕は馬が走るリズムに合わせることに集中した。
 時々当たるダルガートの腕や胸や足にドキドキする。いや、でもそんなことを考えている暇はない。カハル陛下が戻ってくるまで十日しかないのだ。それまでにダウレシュまで行って、またこの聖廟に戻ってこなければならない。
 見渡す限り何もないだだっぴろい礫砂漠が続いていて、こんな風でどこがダウレシュなのかわかるのだろうか。少しばかり不安になりながらも馬を駆るダルガートを信じて黙って彼にすべてを任せた。


     ◇   ◇   ◇


 その夜、僕とダルガートは途中で見つけたオアシスで野宿をすることにした。やった、身体が洗える! と内心大喜びする。
 旅の最中、何が一番つらいかといえば砂埃にまみれたまま何日も過ごさなければならないことだ。つい浮かれてダルガートの黒い大きな馬に「喉かわいたよねぇ。水飲みに行こうか」などと言いながら手綱を引っ張ると、荷物を下ろしていたダルガートが僕を見た。

「あ、ごめんなさい」

 もしかして自分の馬を勝手に触られるのが嫌だっただろうか。とっさに手綱から手を引くとダルガートは何もなかったように視線を戻し荷物を木陰に運んでいった。
 この黒い馬は陛下や護衛騎士が近づくと威嚇するように歯を鳴らしたりしていたが、不思議と僕が触れるのは嫌がらない。昔僕をよく乗せてくれていたあの賢い馬によく似た彼の手綱を引いて水際まで行き、水を飲ませた。

 この辺りはまだ小石が転がる不毛の地ばかりなのに突然ぽっかりと湖や池が現れる。初めてアル・ハダールで砂漠の中のオアシスを見た時はまるで絵やマンガの中の風景のようだと思ったが、本当に不思議な光景だ。

「あの、水浴びするならお先にどうぞ」

 そう言うとダルガートが軽く顎で水辺を指し示した。多分僕が先に入っていいという意味だろう。
 こういう時はやはり無防備になるので、誰かが身体を洗っている時は他の者が見張りに立つのが普通だ。
 できるだけ手早く済ませようと急いで服と靴を脱ぎ亜麻布の薄いシャツだけを着て、水際に生えているアシの陰で身体と髪を洗う。ついでに服とジャヒーヤを洗ってぎゅっと絞っていると、アシの隙間からダルガートが馬を繋ぎ火を起こしてくれているのが見えた。

 日がかなり傾き始めている。水から上がったらとりあえずお茶を淹れて、夕飯は種なしパンとチーズだけでいいだろう。
 昨日まではカハル陛下がいたからスープも作っていたが、普通は野営の時の食事なんて大体そんなものだ。
 せめてチーズは大き目に切って焚火で炙ってあげよう。ダルガートの好物だし。ああ、でも残りが心配だから僕は少しだけにしておこうかな……。

 そんなことをぼんやり考えていた時、ふいにアシが擦れる音がして飛び上がりそうになる。慌てて振り向くとそこにダルガートが立っていた。

「ダ、……っ」

 けれど相手を威圧するような黒い目に射すくめられて言葉を失う。
 彼を前にすると、見上げるほどの巨躯に漂う獰猛な雰囲気とそれを裏切るような冷ややかな黒い目に圧倒されて動けなくなる。
 彼というひとを知っているから怖いとは思わない。でも妙にぞわぞわとして落ち着かない。
 その時、ダルガートが口を開いた。

「あの夜、なぜあの塔に?」

 そう聞かれて思わず動揺する。一体何を、なんと説明すればいいのか。わからずにただ心に浮かんだ言葉を口にする。

「…………寂しかったから」

 それからまた沈黙が続いて、再びダルガートが尋ねた。

「なぜいつも私に多くチーズを渡す」
「えっ? だってあれ好きでしょ? 白く固めた山羊のチー……」

 突然の問いに口をついて出てしまったけれど、言って初めて『今』のダルガートもあれが好物だとは限らないと気づく。それにもし今の彼もあれが好きだったとしても、それを僕が知っているわけがない。

「あ……っ」

 しまった、と唇を噛んで青ざめる。またおかしなやつだと思われただろうか。とっさに後ずさろうとして湖の底の泥に足をとられた。「うわっ」と声を上げてバランスを崩した瞬間、ダルガートに肘を捕まえられる。

「あ、ありが……」

 とう、と最後まで言えなかった。
 昔のように、息がかかりそうなほど近くにダルガートがいる。肘を掴まれ、見下ろされ、冷たい視線に射抜かれて息もできない。

「大切な相手に貰った、と言っていたな」

 彼の手が僕のピアスに触れる。

「これを贈った相手は今どこに?」
「……っ、そ、それは……っ」

 答えられずにただ震える息を吐いてじっと相手を見ていると、感情の見えないダルガートの目の奥にふと何かが揺らめく。それと同じものを僕は何度も彼やサイードさんの中に見たことがあった。

 そんな馬鹿な。だってそれは、二人が僕を欲しがる時の。

 とっさに腕をつっぱねようとしたけれど、掴まれた肘を引かれて懐に捕らえられた。

「あの時私を好きだと言ったのにはどういう意味が?」
「……ッ!」

 強く引っ張られたせいでかかとが浮いて立っていられなくなる。黒い革の胴鎧に胸が擦れて、自分が今濡れた薄いシャツしか纏っていないことを思い出した。
 ダルガートの視線が僕の目から口へ、そして喉元を過ぎ肩から胸元へと降りていく。
 そんなまさか。これじゃまるでダルガートが僕に欲情してるみたいじゃ……。

 どうしよう、どんどん速くなっていく心臓の音が伝わってしまう。腹の奥に不意に灯った熱に息が上がる。
 いつも冷ややかなダルガートの目が獲物を狙う獣のような色に変わっていく。

 その時僕は初めて気づいた。
 確かに今の僕は《慈雨の神子》というチートな肩書を持ってはいない。けれどそれはつまり、ダルガートが僕に対して遠慮や躊躇する理由が何もないということなのだ。

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