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【第三部】西の国イスタリア
121 それぞれの想い
しおりを挟む回廊を抜けて僕らが泊る部屋にほど近い庭園でダルガートが足を止めた。そして石でできたベンチに僕を座らせる。
「少し風に当たられた方がよろしかろう」
「……うん、ありがとう」
イスタリアの宮殿はアル・ハダールの宮城と同じく小高い丘の上にある。城の防衛上その方が都合がいいのだろう。
遠くに見える太陽にきらめく海から渡ってくる風が気持ちがいい。あのまま部屋に戻って鬱々としているよりはここに座っていた方が遥かに良かった。
「さすがダルガートだね。僕のことよくわかってる」
冗談交じりにそう言いながらも思わず深いため息が出てしまった。
レティシア王女がサイードさんに言ったのはつまり、婚約者がいるのにも関わらず今ここで自分と寝て子どもを作れ、ということだ。カハル皇帝に言われている通りサイードさんは無事に返すが、その代わり子種を置いていけ。それなら王女は自分の望みを遂げることができ八方無事に収まる、という彼女の理屈は頭では理解できなくはないが、とてもじゃないが感情がついていけない。
あまりの衝撃に思わず逃げてきてしまったけれど、サイードさんはなんと答えたのだろうか。もちろん断ってくれるとは思う。あんなに愛情深くて曲がったことを許さない人には到底許容できることではないと思うし、そんなことをすれば僕が悲しむって当然わかっているはずだ。
でも、もし断ったら国同士の関係が悪化したりするのだろうか。カハル皇帝に大きな恩義を感じているサイードさんは、もしかして国のために受け入れようと思ったりするだろうか。
「……それに、彼女の要求を受け入れれば、今度こそサイードさんは仇が討てるんだよね」
大事な家族や一族の人たちの無残な死は今でもサイードさんの心に深く突き刺さっている。そのあまりに大きな傷と痛みは十年以上経っても少しも癒えていない。それは彼が過去のことを話してくれた時の目を見れば痛いほどよくわかったし、彼が時々うなされていることからも明らかだった。
ダルガートはサイードさんのことを「彼はずっと誰かを愛したくてたまらなかったのかもしれない」と言った。
僕たちが出会ったばかりの頃の彼は神子を守る守護者としての使命以上に、亡くした家族の代わりに僕を大事にしてくれていたんだと思う。けれど身代わりとしての僕ではサイードさんの後悔や悲しみを完全に癒すことはできない。
彼が本当に心の決着をつけることができるのは、自分の手で家族の仇を討つことしかないんじゃないだろうか。
ベンチに座ってうつむいて、ぎゅっと服を握りしめる。
もしそうなら、なんとしても王女から腕に入れ墨があるという男の正体を聞き出さなければ。
その時、傍らに立つダルガートの声がした。
「サイード殿」
思わずバッと顔を跳ね上げる。するといつもと変わらぬきびきびとした足取りでサイードさんがこちらへやって来るのが見た。
「どうした、カイ。このようなところで」
少し驚いたように眉を上げて尋ねる彼に、途端に申し訳ない気持ちになる。多分サイードさんは僕たちが四阿での会話を盗み聞きしていたとは気づいていないのだろう。けれど僕とダルガートの顔を見て、すぐに何があったか悟ったようだった。
「二人とも、あれを聞いていたのか」
「…………ごめんなさい」
「気にするな」
サイードさんは僕の前に膝をついて尋ねる。
「それで、俺の答えも聞いたのか?」
僕が無言で首を振ると、かすかに微笑んで言った。
「もちろん断った。例え何と引き換えであろうとカイを裏切ることはできない」
それを聞いた時の気持ちをどう表していいかわからない。嬉しくて、ほっとして、なのにひどく苦い。
「……でも、せっかく仇が見つかるかもしれないのに……」
「確かにあの頃の俺はこの手で一族の仇を討てるのならおのれの心臓だって差し出しただろう。だがすでに過ぎたことだ。今ここに生きているカイと比べられるものではない」
「…………うん、ありがとう」
ほかにどう言っていいかわからなかった。
もちろん、僕のためにレティシア王女の誘惑を退けてくれたのはとても嬉しい。でもそのせいでサイードさんはせっかくの仇討ちのチャンスを目の前でふいにした。
理屈を言えば仇を討ったからといって死んだ家族が生き返るわけでもないし、無駄と言えば無駄なことだ。でもそんなに簡単に割り切れるはずがない。
アマルという名の山羊を大事に抱えて僕たちに見せてくれたあの幼い兄妹やあの親切なおじいさんたちが飼う山羊や羊や馬たちへ向けていた優しい眼差し。帝都でも遠征中でもいつも馬たちを大事に撫でて話しかけて、従士に任せず自分で水を与え蹄を見てやるサイードさんの姿を見れば、彼がどれほど愛情深い人なのか誰だってわかるはずだ。
そんな彼が、神の恵みも絶えて久しい乾いた地で身を寄せ合うようにして生きていた家族をどれだけ愛していたか。
一体どうすればいいのだろう。ここで「ありがとう」だけで済ませていいとは思えない。なんとかしてレティシア王女から情報を引き出すために打てる手はないだろうか。そう言おうと口を開きかけた時、回廊に足音が響いてクリスティアンがやって来るのが見えた。
「ここにいたか」
初めて神殿領で彼の目を見た時はまるで宝石のようだと思った。レティシア王女にも負けないくらい美しく輝く青い瞳。それが今、彼の青い目は暗い陰りを帯び、そのくせ埋火のように揺らめく光を宿してサイードさんを見た。
「貴兄が探しているのは右の角が短いゲムズボークを腕に彫った男だな」
「……ああ、その通りだ」
「その男の行方、私が知っている」
その言葉に思わず息を呑む。目を見張るサイードさんに向かって彼は言った。
「先日、王女殿下の婚約祝いにエイレケより特使が参った。その護衛兵として付き従っていた男の右腕にその入れ墨があったのをこの目で見た」
「エイレケの護衛兵……?」
予想もしなかった答えに驚く。
「特使は三日前にカナーンを発った。急いで追えばエイレケの国境にたどり着く前に追いつけるだろう」
「……なぜそれを私に?」
そう問い返したサイードさんを、クリスティアンは忌々しげに睨みつけた。
クリスティアンは一人の男としてレティシア王女に恋焦がれている。そんな彼にとって、王女自身が納得している政略上価値のある相手との婚姻ならまだしも、自分と同じ一介の騎士にすぎないサイードさんへの王女の申し出ははらわたが煮えくり返るほど腹立たしいものだっただろう。
だがサイードさんが求めている情報を渡せば王女とサイードさんとの取引は事実上不可能になり、憎い恋敵をこのカナーンから追い出すことができる。クリスティアンが僕たちに敵の正体を教えたのは恐らくそれが理由だ。
「サイードさん、行こう」
仇を討つならエイレケに入る前に追いつかなければならない。そう言って僕はベンチから立ち上がった。
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