月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

文字の大きさ
上 下
114 / 161
【第三部】西の国イスタリア

121 それぞれの想い

しおりを挟む

 回廊を抜けて僕らが泊る部屋にほど近い庭園でダルガートが足を止めた。そして石でできたベンチに僕を座らせる。

「少し風に当たられた方がよろしかろう」
「……うん、ありがとう」

 イスタリアの宮殿はアル・ハダールの宮城と同じく小高い丘の上にある。城の防衛上その方が都合がいいのだろう。
 遠くに見える太陽にきらめく海から渡ってくる風が気持ちがいい。あのまま部屋に戻って鬱々としているよりはここに座っていた方が遥かに良かった。

「さすがダルガートだね。僕のことよくわかってる」

 冗談交じりにそう言いながらも思わず深いため息が出てしまった。
 レティシア王女がサイードさんに言ったのはつまり、婚約者がいるのにも関わらず今ここで自分と寝て子どもを作れ、ということだ。カハル皇帝に言われている通りサイードさんは無事に返すが、その代わり子種を置いていけ。それなら王女は自分の望みを遂げることができ八方無事に収まる、という彼女の理屈は頭では理解できなくはないが、とてもじゃないが感情がついていけない。

 あまりの衝撃に思わず逃げてきてしまったけれど、サイードさんはなんと答えたのだろうか。もちろん断ってくれるとは思う。あんなに愛情深くて曲がったことを許さない人には到底許容できることではないと思うし、そんなことをすれば僕が悲しむって当然わかっているはずだ。
 でも、もし断ったら国同士の関係が悪化したりするのだろうか。カハル皇帝に大きな恩義を感じているサイードさんは、もしかして国のために受け入れようと思ったりするだろうか。

「……それに、彼女の要求を受け入れれば、今度こそサイードさんは仇が討てるんだよね」

 大事な家族や一族の人たちの無残な死は今でもサイードさんの心に深く突き刺さっている。そのあまりに大きな傷と痛みは十年以上経っても少しも癒えていない。それは彼が過去のことを話してくれた時の目を見れば痛いほどよくわかったし、彼が時々うなされていることからも明らかだった。

 ダルガートはサイードさんのことを「彼はずっと誰かを愛したくてたまらなかったのかもしれない」と言った。
 僕たちが出会ったばかりの頃の彼は神子を守る守護者イシュクとしての使命以上に、亡くした家族の代わりに僕を大事にしてくれていたんだと思う。けれど身代わりとしての僕ではサイードさんの後悔や悲しみを完全に癒すことはできない。
 彼が本当に心の決着をつけることができるのは、自分の手で家族の仇を討つことしかないんじゃないだろうか。

 ベンチに座ってうつむいて、ぎゅっと服を握りしめる。
 もしそうなら、なんとしても王女から腕に入れ墨があるという男の正体を聞き出さなければ。
 その時、傍らに立つダルガートの声がした。

「サイード殿」

 思わずバッと顔を跳ね上げる。するといつもと変わらぬきびきびとした足取りでサイードさんがこちらへやって来るのが見た。

「どうした、カイ。このようなところで」

 少し驚いたように眉を上げて尋ねる彼に、途端に申し訳ない気持ちになる。多分サイードさんは僕たちが四阿での会話を盗み聞きしていたとは気づいていないのだろう。けれど僕とダルガートの顔を見て、すぐに何があったか悟ったようだった。

「二人とも、あれを聞いていたのか」
「…………ごめんなさい」
「気にするな」

 サイードさんは僕の前に膝をついて尋ねる。

「それで、俺の答えも聞いたのか?」

 僕が無言で首を振ると、かすかに微笑んで言った。

「もちろん断った。例え何と引き換えであろうとカイを裏切ることはできない」

 それを聞いた時の気持ちをどう表していいかわからない。嬉しくて、ほっとして、なのにひどくにがい。

「……でも、せっかく仇が見つかるかもしれないのに……」
「確かにあの頃の俺はこの手で一族の仇を討てるのならおのれの心臓だって差し出しただろう。だがすでに過ぎたことだ。今ここに生きているカイと比べられるものではない」
「…………うん、ありがとう」

 ほかにどう言っていいかわからなかった。
 もちろん、僕のためにレティシア王女の誘惑を退けてくれたのはとても嬉しい。でもそのせいでサイードさんはせっかくの仇討ちのチャンスを目の前でふいにした。
 理屈を言えば仇を討ったからといって死んだ家族が生き返るわけでもないし、無駄と言えば無駄なことだ。でもそんなに簡単に割り切れるはずがない。

 アマルという名の山羊を大事に抱えて僕たちに見せてくれたあの幼い兄妹やあの親切なおじいさんたちが飼う山羊や羊や馬たちへ向けていた優しい眼差し。帝都でも遠征中でもいつも馬たちを大事に撫でて話しかけて、従士に任せず自分で水を与え蹄を見てやるサイードさんの姿を見れば、彼がどれほど愛情深い人なのか誰だってわかるはずだ。
 そんな彼が、神の恵みも絶えて久しい乾いた地で身を寄せ合うようにして生きていた家族をどれだけ愛していたか。

 一体どうすればいいのだろう。ここで「ありがとう」だけで済ませていいとは思えない。なんとかしてレティシア王女から情報を引き出すために打てる手はないだろうか。そう言おうと口を開きかけた時、回廊に足音が響いてクリスティアンがやって来るのが見えた。

「ここにいたか」

 初めて神殿領で彼の目を見た時はまるで宝石のようだと思った。レティシア王女にも負けないくらい美しく輝く青い瞳。それが今、彼の青い目は暗い陰りを帯び、そのくせ埋火のように揺らめく光を宿してサイードさんを見た。

「貴兄が探しているのは右の角が短いゲムズボークを腕に彫った男だな」
「……ああ、その通りだ」
「その男の行方、私が知っている」

 その言葉に思わず息を呑む。目を見張るサイードさんに向かって彼は言った。

「先日、王女殿下の婚約祝いにエイレケより特使が参った。その護衛兵として付き従っていた男の右腕にその入れ墨があったのをこの目で見た」
「エイレケの護衛兵……?」

 予想もしなかった答えに驚く。

「特使は三日前にカナーンを発った。急いで追えばエイレケの国境にたどり着く前に追いつけるだろう」
「……なぜそれを私に?」

 そう問い返したサイードさんを、クリスティアンは忌々しげに睨みつけた。

 クリスティアンは一人の男としてレティシア王女に恋焦がれている。そんな彼にとって、王女自身が納得している政略上価値のある相手との婚姻ならまだしも、自分と同じ一介の騎士にすぎないサイードさんへの王女の申し出ははらわたが煮えくり返るほど腹立たしいものだっただろう。
 だがサイードさんが求めている情報を渡せば王女とサイードさんとの取引は事実上不可能になり、憎い恋敵をこのカナーンから追い出すことができる。クリスティアンが僕たちに敵の正体を教えたのは恐らくそれが理由だ。

「サイードさん、行こう」

 仇を討つならエイレケに入る前に追いつかなければならない。そう言って僕はベンチから立ち上がった。


しおりを挟む
感想 398

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

宰相閣下の執愛は、平民の俺だけに向いている

飛鷹
BL
旧題:平民のはずの俺が、規格外の獣人に絡め取られて番になるまでの話 アホな貴族の両親から生まれた『俺』。色々あって、俺の身分は平民だけど、まぁそんな人生も悪くない。 無事に成長して、仕事に就くこともできたのに。 ここ最近、夢に魘されている。もう一ヶ月もの間、毎晩毎晩………。 朝起きたときには忘れてしまっている夢に疲弊している平民『レイ』と、彼を手に入れたくてウズウズしている獣人のお話。 連載の形にしていますが、攻め視点もUPするためなので、多分全2〜3話で完結予定です。 ※6/20追記。 少しレイの過去と気持ちを追加したくて、『連載中』に戻しました。 今迄のお話で完結はしています。なので以降はレイの心情深堀の形となりますので、章を分けて表示します。 1話目はちょっと暗めですが………。 宜しかったらお付き合い下さいませ。 多分、10話前後で終わる予定。軽く読めるように、私としては1話ずつを短めにしております。 ストックが切れるまで、毎日更新予定です。

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。

桜月夜
BL
 前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。  思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

悪役令息を引き継いだら、愛が重めの婚約者が付いてきました

ぽんちゃん
BL
 双子が忌み嫌われる国で生まれたアデル・グランデは、辺鄙な田舎でひっそりと暮らしていた。  そして、双子の兄――アダムは、格上の公爵子息と婚約中。  この婚約が白紙になれば、公爵家と共同事業を始めたグランデ侯爵家はおしまいである。  だが、アダムは自身のメイドと愛を育んでいた。  そこでアダムから、人生を入れ替えないかと持ちかけられることに。  両親にも会いたいアデルは、アダム・グランデとして生きていくことを決めた。  しかし、約束の日に会ったアダムは、体はバキバキに鍛えており、肌はこんがりと日に焼けていた。  幼少期は瓜二つだったが、ベッドで生活していた色白で病弱なアデルとは、あまり似ていなかったのだ。  そのため、化粧でなんとか誤魔化したアデルは、アダムになりきり、両親のために王都へ向かった。  アダムとして平和に暮らしたいアデルだが、婚約者のヴィンセントは塩対応。  初めてのデート(アデルにとって)では、いきなり店前に置き去りにされてしまい――!?  同性婚が可能な世界です。  女性も登場しますが、恋愛には発展しません。  ※ 感想欄はネタバレを含みますので、お気をつけください‼︎(><)

悪役令息の七日間

リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。 気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

獣のような男が入浴しているところに落っこちた結果

ひづき
BL
異界に落ちたら、獣のような男が入浴しているところだった。 そのまま美味しく頂かれて、流されるまま愛でられる。 2023/04/06 後日談追加

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。