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【第三部】西の国イスタリア

120 レティシア王女の提案

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 クリスティアンとは昨日の宴で顔を合わせてはいたが話はしていない。会釈をするついでに顔を擦って気持ちを落ち着かせた。

「お久しぶりです、クリスティアンさん。お元気そうで何よりです」
「神子殿もお変わりなく」

 彼はそう言ってチラ、とダルガートを見たが、サイードさんの時のように剣呑な目つきで睨むことはなかった。
 以前神殿で会った時、彼はやたらとサイードさんを敵視していた。それは僕が《選定の儀式》でサイードさんを選んだからというだけでなく、レティシア王女がサイードさんに「婿に来い」などと言ったせいだ。彼がレティシア王女を特別に思っていることは一目瞭然だったし、市場での別れ際の会話を聞けばますます確信できた。
 そういえばレティシア王女が婚約したことについて彼はどう思っているのだろうか。ふとそう思った時、彼が僕の顔を見て少し驚いたように目を見張った。な、なんだろう。涙の痕でも残っていただろうか。

「あの、何か」

 うろたえそうになるのをぐっと堪えて問いかける。すると彼は薄くて形のいい唇の端を持ち上げて「見事な細工のようですな」と言った。細工? その言葉で彼が見ていたのが僕の顔ではなく耳につけた飾りだと気づいて思わず顔が熱くなった。

「ええと、こちらの世界ではお守りなんだそうですね」

 そう白を切ろうとすると、クリスティアンが頷いた。

「わがイスタリアにも同様の風習がある。ちなみに神子殿はそれを誰から?」
「僕の護衛をしてくれているダルガートと、サイードさんです」

 後ろに立つダルガートを見上げながらそう答える。するとクリスティアンは驚いた顔のまま「……なるほど」と答えた。え、なんなのその微妙な間は。

「あ、あの、これって何かおかしいんですか!? なんでみんなそんな微妙な顔すんの!?」

 思わず二人を見て叫ぶと、憎らしいことにダルガートはまったく他人事のような顔でクリスティアンを見つめ、クリスティアンは僕の剣幕に一歩引きながら言った。

「いや、確かにそれは災いを遠ざけ持ち主の身の安全を祈るものだ。神子の守護者たる者が貴方に贈ること自体はそうおかしいことではないと思う」
「そ、そうですか……」

 良かった、と思わず胸をなでおろす。

「だがその耳環の細工は非常に精巧で、一見してたいそう値打ちのあるものだとわかる。おそらくそのようなものを身に着けているのは王族ぐらいなものではないか?」
「そ……そんなに高いものなんですかコレ!?」

 そんなすごいもん簡単に貰っちゃって良かったの!? というかもし落っことしたり無くしたりしちゃったらまずいじゃん!!
 密かに冷や汗をかく思いで硬直していると、不意にクリスティアンが僕に向かって言った。

「……ところで、そのサイード殿が今こちらに来ておられるのはご存知か?」
「え? サイードさんが?」
「レティシア様のお召しを受けたようだ」
「レティシア王女の……」

 嫌な予感がしてみぞおちの辺りがヒヤリ、とする。
 確かにサイードさんが朝からどこかへ行っているのは知っていた。けれどアドリーと一緒だと聞いていたから何か仕事や任務があるのだろうと思っていた。なのにレティシア王女に呼ばれてここに来ているってどういうこと?

「どうやら神子殿もご存知なかったようだな」

 そう言ってクリスティアンが深く息を吐き出した。
 今彼は「神子殿も」と言った。つまり彼も知らなかったということだ。クリスティアンはレティシア王女を特別に思っている。それなのに因縁あるサイードさんが密かに彼女に呼ばれたと知って動揺しているのだろう。

「あの、一体なんの用で?」
「わからぬ。だが傍仕えがあちらの四阿あずまやへお茶を運んだと聞いた」

 そう言って彼は今いる大きな回廊の内側にある庭園を見た。その視線の向こうには白木で作られた小さな建物がある。あそこに王女とサイードさんがいるのだろうか、と目を凝らそうとした時、突然クリスティアンが勢いよく回廊を歩き出した。

「え、あの……っ」

 思わずダルガートと視線を交わし、二人で慌ててその後を追いかける。彼は回廊伝いに四阿の背後に回り、少し離れたところの柱に隠れた。僕とダルガートもつられて手前の柱に身を潜める。
 花の咲いた蔦が絡まる優美な四阿の中には確かに金色の髪に透けるベールを流した王女と、その向かいに立つサイードさんの姿があった。

「遠慮せずともよい、サイード殿よ。そのように間をとられては話もできぬ」

 澄んだ鈴の音のような声が風に乗って聞こえてくる。そしてそれに答えるサイードさんの声も。

「我らが《慈雨の神子》に関わる重要な話があるとか」
「おお、確かに。それ、もっと近くに参られよ、サイード殿よ」
「私はここにて。疾く、ご用件を」
「ふふ、相変わらずつれないお方じゃ」

 象牙の扇で口元を隠して王女が笑う。
 本当ならこんな風に人の会話を盗み聞きするなんてもってのほかだ。けれど僕の足は根っこが生えたようにその場から動けず、固唾をのんで彼らの会話に耳を澄ませる。するとレティシア王女が扇を揺らしながら言った。

「では単刀直入に言おうか。妾はそなたと取引がしたい」
「取引?」
「その通りじゃ」

 と、王女の顔にそれはそれは艶やかな笑みが浮かぶ。

「そなたの一族の仇がまだ生きておる、と言ったらどうする?」

 サイードさんがハッと息を呑んだのが遠目にもわかった。
 サイードさんの仇だって? でも確か王都御用達の商隊を襲った罪でイスタリアの兵に処刑されたって言ってなかったか? 思わず肩越しにダルガートを見ると彼も厳しい眼差しを王女へ向けていた。
 サイードさんはしばしの沈黙の後、落ち着き払った声で問い返した。

「……王女殿下は、何をどこまでご存知か」
「そなたの一族を襲い殺したのは南のバクラムの一族だそうじゃのう。彼らは一族の証として皆腕にゲムズボーク砂猛牛の入れ墨をいれ、その角で柄を作ったナイフを持ち歩く。その柄に刻まれた紋様を見ればバクラムのどの氏族の者かまでわかるそうじゃの」

 まるで歌うような口調で王女が答える。

「先だって、妾は珍しい入れ墨をした男を見た。右の角が短いゲムズボークじゃ。なんでも以前は一族の荒くれものを率いてあちこちの氏族を襲い、土地や家畜を奪っていたとか。そなたも知っておろう?」

 その言葉を聞いてサイードさんがぎゅっと強く拳を握りしめる。レティシア王女の顔は、それはそれは美味そうな餌を目の前に置かれた優美な猫のように満足そうだった。

「さあ、取引じゃ。その男がどこの誰で、今どこにいるのか知りたくはないか? ダウレシュのサイードよ」
「…………条件は」
「なに、簡単なことじゃ」

 パチン、と象牙の扇を閉じて王女が笑う。

「そなたの優秀な血と種を妾に貰おうか」

 ドクン、と心臓が大きく跳ねる。え、それって、まさか。
 サイードさんが厳しい眼差しで王女を見据える。

「王女殿下はご婚約が調われたばかりと窺っておりますが」
「確かにその通りじゃ。我が婚約者となられたアドルフィオ王子は海向こうで最も権勢を誇るエスペレラス王国のご次男であらせられる。我が国がさらに栄え豊かになるためには最上の取り合わせじゃ。じゃが妾が夫とするにはそれだけでは足りぬ」

 レティシア王女の目がまるで光を浴びた宝石のように輝いた。

「代々このイスタリアの女王となる者は最も強く最も美しい男をおのれの王配とする。妾が欲しいのはそなたじゃ。じゃがそなたはアル・ハダールの騎士であり《慈雨の神子》のイシュク。ハリファ殿よりもくれぐれも勝手な真似はするなと再三釘を刺されておるからの。さすがに妾も東の帝国と事を構えるつもりはない。じゃからのう、サイード殿よ」

 王女の赤い唇が美しく深い弧を描く。

「まさに今この時に我が国へ参られたのも良き巡り合わせじゃ。そなたに一夜の寵を許す。妾にそなたの子を与えよ。そなたの種ならばさぞや強く美しい子が生まれるであろう」

 あまりのことに言葉も出なかった。思わず足から力が抜けて回廊の石畳にくずおれそうになったところを後ろからダルガートに掴まれる。
 気持ちが悪い。胸がむかむかして吐きそうだ。ふっと目の前が暗くなって目を閉じると、ダルガートが僕を引っ張られるようにして後ろに下がらせた。

「……ごめん。僕、部屋に戻る……」

 多分そう言ったんじゃないかと思う。はっきりとは覚えていない。そのままダルガートに抱えられるようにして、僕はその場を逃げ出した。

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