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【第三部】西の国イスタリア
117 王都・カナーン
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イスタリアの王都カナーンはたいそう活気のある街だった。広い通りの両側には白い石造りの店が立ち並び、そこかしこで客と店主が値段を交渉したり買ったものを荷車に運び込んだりしているのが見える。城へ続く大通りを馬と馬車を連ねて進んでいくと皆興味深そうにこちらに視線を投げかけた。
僕たちがカナーンへ着いたことは城壁の門をくぐった時点で城へ伝令が走っているはずだ。けれど城へ入るまではあまり大騒ぎにならないように、とあらかじめアドリーが頼んでいたお陰で街の人たちは僕たちがアル・ハダールからの正使だとは気づいていない。それでも何人かの子どもたちは遠国から来た黒髪の一行に手を振ってくれた。
「これは神子殿。お変わりなさそうで何よりじゃ」
城に着いて通された部屋で衣を改めきらびやかな広間で拝謁すると、レティシア王女は輝くように笑みを浮かべてそう言った。その後ろにはあの美形の騎士クリスティアンの姿も見える。
「ありがとうございます。王女殿下もお元気そうで良かったです」
そう挨拶すると、隣に控えたアドリーが姿勢を正して口上を述べた。
「王女殿下におかれましては、この度エスペレラス国の王子殿下とのご婚約が調われたとか。アル・ハダール皇帝、ハリファ・カハルに代わりまして謹んでお喜び申し上げまする」
「此度はハリファ殿より数々の祝いの品を頂戴したと聞く。礼を申す」
「はっ」
僕たちの前には、城についてから大急ぎで中身を検めここに運び込んだアル・ハダールからの贈り物が積んであった。長旅の間壊したり無くしたりすることなく無事に引き渡せて良かったと僕も安堵する。するとレティシア王女は優雅に頷いて言った。
「今宵ははるばる遠国よりいらした神子殿を歓迎する宴が開かれる。その時には女王陛下もご臨席下さり、改めてそなたらへのお言葉があろう。部屋に案内させるゆえ、それまでは長旅の疲れを癒してゆるりと過ごすがよい」
「王女殿下のご配慮、ありがたく存じまする」
それから僕たちはそれぞれの部屋で休み、夜の宴に出るための準備をした。
ちなみに名目上の主賓である僕とこの一行の中では一番位が高いサイードさんにはそれぞれ広く豪華な部屋が用意されていた。そしてこれも名目上僕の筆頭護衛騎士ということになっているダルガートには、僕の部屋と扉一枚隔てた小ぶりな部屋が与えられていた。
「偉い人の護衛ってこういう続き部屋で寝泊まりするんだね」
そう呟くと、宴のための正装を着付けてくれていたウルドが「傍仕え用や控えの護衛のための小部屋もあちらにございます。おそらく王族に準じる格式の客間でございましょう。それだけ神子様を厚遇しておられる証拠かと思われます」と教えてくれた。
その時、部屋の扉の前で誰何の声が上がり、サイードさんとアドリーが入ってきた。二人ともすでに準備は整っているようだ。
サイードさんは白の上下に金糸で刺繍がされたアル・ハダールの貴色である暗赤色の膝丈の上着を羽織り翡翠の帯飾りを下げている。実はこの飾りは僕が彼に贈った物だ。
帯飾りに刻まれた文様や用いられる石や色糸、金属の飾りなどはどれも様々な意味が込められているということは聞いていたが、特別大事な人に想いを込めて誂えた帯飾りを贈る習慣があるということを知ったのは半年ほど前のことだ。そこでウルドに相談しつつ密に材料を集めて彫師に頼んでいたものが揃ったので、この旅に出る直前に例の耳飾りのお礼としてサイードさんとダルガートに贈ったのだ。
ちなみにサイードさんのは緑色の翡翠でダルガートのは白い象牙でできている。石の文様や帯紐には防御力アップとか幸運値最大とかスピードアップとか、まあそういうバフ的なのをてんこ盛りに盛ってもらった。
残念ながら騎士である二人は普段はこの帯飾りを下げることはあまりないが、今夜のような王族臨席の宴という大事な場所で付けてくれたのがとても嬉しい。
綺麗な翠玉の輝きと相変わらずの凛々しい男振りに思わず見惚れていると、サイードさんが目を細めて僕に「よく似合っているな」と言った。
僕が着ているのは白い神官服に似た丈の長い上着と細身のズボンだ。それにアル・ハダールの暗赤色の帯を締め白玉と金糸の帯飾りを下げている。少々気恥しくなるようなノーブルな出で立ちだが、さすがにこういう服にもだいぶん慣れた。少なくとも立ち上がる時に裾を踏んづけて倒れるような恥はもうかかない。多分。
サイードさんの隣でアドリーが目礼して僕に言った。
「神子よ、今宵の宴にはナタリア女王陛下もいらっしゃるとのことですが、基本的に挨拶等は私の方で致しますゆえ、どうぞお気を楽になさいますよう」
「ありがとう、助かります」
さすがの僕も他国の第一権力者に会ったことなんて一度もないので、彼には感謝しかない。
ふと気づくと後ろにダルガートが戻ってきていた。僕がこの部屋に落ち着くなり姿を消していたが、恐らく事前にこの建物の造りを探っていたのだろう。
普通なら王女の客とはいえ他国の騎士がふらふらうろついていたら何か言われそうなものだが、地方の神殿や領主の館で彼に同行したことのあるヤハルの話ではこういう時ダルガートはなぜか誰にも見咎められることがないらしい。こんなに大きくて目立ちそうなのに不思議だ。
アル・ハダールの国内でも、僕と一緒に初めての場所へ行く時はいつも辺りに死角になりそうな場所がないか、いざという時の脱出口などを確認しているんだそうだ。
ウルドに髪を梳かれながら「お疲れ様」とダルガートに声を掛ける。彼は僕の護衛役なので正装はしておらず、黒い胴鎧に黒革の小手、そして黒いマントと目深に被ったシュマグと、恰好からして相変わらず威圧感半端ないのだが、マントの下に一瞬僕が贈った象牙の帯飾りが短く、あまり揺れないように帯に括ってあるのが見えて思わずにんまりとしてしまった。
「では行こうか、カイ」
「はい。よろしくお願いします」
いつものように差し出された手をとって、サイードさんと並んで部屋を出る。そして案内された場所はアル・ハダールやダーヒルの神殿の宴の間よりももっと広くきらびやかなところだった。
「さすがは大陸一豊かといわれる国ですね」
「ああ、そうだな」
サイードさんと二人で声を潜めて感嘆する。
この世界ではまだガラス、玻璃は貴重で珍しいものだけれど、この広間にはまるでシャンデリアのように玻璃のランプが数限りなく並べられたり高い天井から下げられたりしている。饗せられている料理もどれも珍しく、手の込んだものばかりで、肉などの間に綺麗に飾り切りされた彩り豊かな野菜や果物が目にも鮮やかだった。そしてアル・ハダールと違って魚料理がたくさんあるのに思わず歓声を上げる。
「やはり神子殿も魚がお好きかの」
そう声を掛けてきたのはレティシア王女だった。
「はい。あ、もしかしてこちらにいた三代前の神子も……」
「その通り。それもただシンプルに焼いただけの魚がお好きだったという話じゃ。それ、そちらの皿にある」
「あ、ほんとだ」
ウルドに取り分けてもらい口にすると、粗塩を振って焼かれた白身の魚はとても柔らかく、懐かしい味がした。
「……あの、こちらの国では米はないですか?」
「コメ? ああ、確か三代前の神子殿もそれをたいそう欲しがっておられたようじゃがの。そのような穀物はイスタリアにはない」
「そうですか……」
「もちろん海の向こうとの交易で新たに持ち込まれる可能性はあるがの。のう、アドルフィオ殿」
突然出てきた名前に顔を上げると、レティシア王女の隣に座っていた男が僕の前にやって来た。
「こちらのお方はエスペレラス国の第二王子でいらっしゃるアドルフィオ殿じゃ。妾の許嫁じゃの」
えっ!? 噂の婚約者の人も今イスタリアにいたの!?
驚いて横目で見るとどうやらサイードさんも、そしてアドリーでさえも知らなかったようだ。慌てて居住まいを正すと黒髪に彫の深い顔立ちの男に礼をとった。
「初めまして。アル・ハダールより参りましたカイと申します」
するとその男は笑みを浮かべて何かを言ったがまったくわからない。
「さすがの神子殿も海の向こうの言葉まではご存じないかの」
そう笑ってレティシア王女はアドルフィオに異国の言葉で話しかけた。多分僕の自己紹介を取り次いでくれているのだろう。お互い言葉がわからないまま、頭を下げて挨拶を交わした。
僕がこの世界に来た時、神殿長や儀式の間にいた三国の騎士たちの言葉が全然わからなかった。けれどその後《言の葉の秘薬》というものを飲んだら言葉がわかるようになった。それ以降に出会った人たちとは全員普通に意思の疎通ができている。言葉が通じないのはこのアドルフィオ王子が初めてだ。
これは一体どういうことだろう。国のある場所が原因なのか?
レティシア王女は「海の向こうの国」と言うが、僕の予想ではその海とはカスピ海のことで外海ではない。神殿長にもらった地図の中で不自然に途切れていたイスタリア南部で陸続きになっているのでは、と僕は考えている。つまりアドルフィオ王子の国は厳密には同じ大陸の国だと思っていたのだが、言葉が通じないということは僕の考えは間違っていたということだろうか。
ついそんなことを考え込んでいると、ふとサイードさんの声がしてハッと我に返った。
「大丈夫か? カイ」
「え、あ、すみません」
いかんいかん。王女の目の前でまたしても失態を繰り返すところだった。
なにせ僕には昔ダーヒルの神殿での宴で、レティシア王女とサイードさんをほったらかしていきなり席を立ってしまったという前科がある。今度こそ自分の役目をきちんと務め上げなければ。
けれどレティシア王女は気にした風もなく、アドルフィオ王子と楽しそうに話をしている。その様子を見て僕は詰めていた息をそろそろと吐き出した。
以前、レティシア王女はサイードさんのことをとても気に入って、求婚めいた言葉まで口にしたことがある。いや、あれは明らかに求婚だった。というかヘッドハンティング?
以前彼女が神殿で開かれた宴の席でサイードさんに向かって言った言葉が頭に蘇る。
――――我らがイスタリアの女王は代々最も強く賢く美しき男を婿に取る。そなたも東の果ての国で生涯を送るよりも我が国でその力を振るい、失われた己の土地を取り戻してはどうかの、ダウレシュのサイードよ。
そういえば昨日サイードさんが聞かせてくれた昔の話にも出てきた《ダウレシュ》という名前を初めて聞いたのはあの時だった。つまり、どうやって調べたのかは知らないが、レティシア王女はサイードさんの過去を知っているということだ。それだけ彼女がサイードさんのことを本気で欲しいと思っていた証拠だろう。
けれど今夜彼女は初めの挨拶を除いて一度もサイードさんに話しかけてはいない。イスタリア最大の交易国であるエスペレラスの王子と婚約が決まった今、もう彼女はサイードさんに執着してはいないのだろうか。もしそうなら僕としてもありがたい。
結局、その夜の宴は何事もなく終わった。思っていたよりもあっさり済んだことに胸を撫でおろす。
そして後から広間に現れたナタリア女王とも挨拶を交わし、自分にとっては一番の本題であったこの国の書庫とそこに収められている文献や地図を見せて貰う了承も得ることができた。
「疲れたか? カイ」
自室に引き取る前に様子を見に来てくれたサイードさんが問う。
「いえ、大丈夫です」
「そうか。俺は向こうの部屋で休むことになるが、ダルガートもウルドもカイの傍にいてくれる。何かあったら彼らに言って俺を呼ぶといい」
「ええ、お休みなさい」
国の賓客としている以上、いくら個室でもあんまりイチャコラするわけにもいかない。それでも僕が寝台に横たわるとサイードさんは額に口づけてくれた。
それからウルドに頼んで廊下の扉の前で交代で夜番をしてくれているヤハルにも「ありがとう」と伝えて貰う。
一番最後にダルガートが来て「続きの間におりまする。何事もご案じなされぬよう」と声を掛けてくれた。
こうして一日がようやく終わった。
僕たちがカナーンへ着いたことは城壁の門をくぐった時点で城へ伝令が走っているはずだ。けれど城へ入るまではあまり大騒ぎにならないように、とあらかじめアドリーが頼んでいたお陰で街の人たちは僕たちがアル・ハダールからの正使だとは気づいていない。それでも何人かの子どもたちは遠国から来た黒髪の一行に手を振ってくれた。
「これは神子殿。お変わりなさそうで何よりじゃ」
城に着いて通された部屋で衣を改めきらびやかな広間で拝謁すると、レティシア王女は輝くように笑みを浮かべてそう言った。その後ろにはあの美形の騎士クリスティアンの姿も見える。
「ありがとうございます。王女殿下もお元気そうで良かったです」
そう挨拶すると、隣に控えたアドリーが姿勢を正して口上を述べた。
「王女殿下におかれましては、この度エスペレラス国の王子殿下とのご婚約が調われたとか。アル・ハダール皇帝、ハリファ・カハルに代わりまして謹んでお喜び申し上げまする」
「此度はハリファ殿より数々の祝いの品を頂戴したと聞く。礼を申す」
「はっ」
僕たちの前には、城についてから大急ぎで中身を検めここに運び込んだアル・ハダールからの贈り物が積んであった。長旅の間壊したり無くしたりすることなく無事に引き渡せて良かったと僕も安堵する。するとレティシア王女は優雅に頷いて言った。
「今宵ははるばる遠国よりいらした神子殿を歓迎する宴が開かれる。その時には女王陛下もご臨席下さり、改めてそなたらへのお言葉があろう。部屋に案内させるゆえ、それまでは長旅の疲れを癒してゆるりと過ごすがよい」
「王女殿下のご配慮、ありがたく存じまする」
それから僕たちはそれぞれの部屋で休み、夜の宴に出るための準備をした。
ちなみに名目上の主賓である僕とこの一行の中では一番位が高いサイードさんにはそれぞれ広く豪華な部屋が用意されていた。そしてこれも名目上僕の筆頭護衛騎士ということになっているダルガートには、僕の部屋と扉一枚隔てた小ぶりな部屋が与えられていた。
「偉い人の護衛ってこういう続き部屋で寝泊まりするんだね」
そう呟くと、宴のための正装を着付けてくれていたウルドが「傍仕え用や控えの護衛のための小部屋もあちらにございます。おそらく王族に準じる格式の客間でございましょう。それだけ神子様を厚遇しておられる証拠かと思われます」と教えてくれた。
その時、部屋の扉の前で誰何の声が上がり、サイードさんとアドリーが入ってきた。二人ともすでに準備は整っているようだ。
サイードさんは白の上下に金糸で刺繍がされたアル・ハダールの貴色である暗赤色の膝丈の上着を羽織り翡翠の帯飾りを下げている。実はこの飾りは僕が彼に贈った物だ。
帯飾りに刻まれた文様や用いられる石や色糸、金属の飾りなどはどれも様々な意味が込められているということは聞いていたが、特別大事な人に想いを込めて誂えた帯飾りを贈る習慣があるということを知ったのは半年ほど前のことだ。そこでウルドに相談しつつ密に材料を集めて彫師に頼んでいたものが揃ったので、この旅に出る直前に例の耳飾りのお礼としてサイードさんとダルガートに贈ったのだ。
ちなみにサイードさんのは緑色の翡翠でダルガートのは白い象牙でできている。石の文様や帯紐には防御力アップとか幸運値最大とかスピードアップとか、まあそういうバフ的なのをてんこ盛りに盛ってもらった。
残念ながら騎士である二人は普段はこの帯飾りを下げることはあまりないが、今夜のような王族臨席の宴という大事な場所で付けてくれたのがとても嬉しい。
綺麗な翠玉の輝きと相変わらずの凛々しい男振りに思わず見惚れていると、サイードさんが目を細めて僕に「よく似合っているな」と言った。
僕が着ているのは白い神官服に似た丈の長い上着と細身のズボンだ。それにアル・ハダールの暗赤色の帯を締め白玉と金糸の帯飾りを下げている。少々気恥しくなるようなノーブルな出で立ちだが、さすがにこういう服にもだいぶん慣れた。少なくとも立ち上がる時に裾を踏んづけて倒れるような恥はもうかかない。多分。
サイードさんの隣でアドリーが目礼して僕に言った。
「神子よ、今宵の宴にはナタリア女王陛下もいらっしゃるとのことですが、基本的に挨拶等は私の方で致しますゆえ、どうぞお気を楽になさいますよう」
「ありがとう、助かります」
さすがの僕も他国の第一権力者に会ったことなんて一度もないので、彼には感謝しかない。
ふと気づくと後ろにダルガートが戻ってきていた。僕がこの部屋に落ち着くなり姿を消していたが、恐らく事前にこの建物の造りを探っていたのだろう。
普通なら王女の客とはいえ他国の騎士がふらふらうろついていたら何か言われそうなものだが、地方の神殿や領主の館で彼に同行したことのあるヤハルの話ではこういう時ダルガートはなぜか誰にも見咎められることがないらしい。こんなに大きくて目立ちそうなのに不思議だ。
アル・ハダールの国内でも、僕と一緒に初めての場所へ行く時はいつも辺りに死角になりそうな場所がないか、いざという時の脱出口などを確認しているんだそうだ。
ウルドに髪を梳かれながら「お疲れ様」とダルガートに声を掛ける。彼は僕の護衛役なので正装はしておらず、黒い胴鎧に黒革の小手、そして黒いマントと目深に被ったシュマグと、恰好からして相変わらず威圧感半端ないのだが、マントの下に一瞬僕が贈った象牙の帯飾りが短く、あまり揺れないように帯に括ってあるのが見えて思わずにんまりとしてしまった。
「では行こうか、カイ」
「はい。よろしくお願いします」
いつものように差し出された手をとって、サイードさんと並んで部屋を出る。そして案内された場所はアル・ハダールやダーヒルの神殿の宴の間よりももっと広くきらびやかなところだった。
「さすがは大陸一豊かといわれる国ですね」
「ああ、そうだな」
サイードさんと二人で声を潜めて感嘆する。
この世界ではまだガラス、玻璃は貴重で珍しいものだけれど、この広間にはまるでシャンデリアのように玻璃のランプが数限りなく並べられたり高い天井から下げられたりしている。饗せられている料理もどれも珍しく、手の込んだものばかりで、肉などの間に綺麗に飾り切りされた彩り豊かな野菜や果物が目にも鮮やかだった。そしてアル・ハダールと違って魚料理がたくさんあるのに思わず歓声を上げる。
「やはり神子殿も魚がお好きかの」
そう声を掛けてきたのはレティシア王女だった。
「はい。あ、もしかしてこちらにいた三代前の神子も……」
「その通り。それもただシンプルに焼いただけの魚がお好きだったという話じゃ。それ、そちらの皿にある」
「あ、ほんとだ」
ウルドに取り分けてもらい口にすると、粗塩を振って焼かれた白身の魚はとても柔らかく、懐かしい味がした。
「……あの、こちらの国では米はないですか?」
「コメ? ああ、確か三代前の神子殿もそれをたいそう欲しがっておられたようじゃがの。そのような穀物はイスタリアにはない」
「そうですか……」
「もちろん海の向こうとの交易で新たに持ち込まれる可能性はあるがの。のう、アドルフィオ殿」
突然出てきた名前に顔を上げると、レティシア王女の隣に座っていた男が僕の前にやって来た。
「こちらのお方はエスペレラス国の第二王子でいらっしゃるアドルフィオ殿じゃ。妾の許嫁じゃの」
えっ!? 噂の婚約者の人も今イスタリアにいたの!?
驚いて横目で見るとどうやらサイードさんも、そしてアドリーでさえも知らなかったようだ。慌てて居住まいを正すと黒髪に彫の深い顔立ちの男に礼をとった。
「初めまして。アル・ハダールより参りましたカイと申します」
するとその男は笑みを浮かべて何かを言ったがまったくわからない。
「さすがの神子殿も海の向こうの言葉まではご存じないかの」
そう笑ってレティシア王女はアドルフィオに異国の言葉で話しかけた。多分僕の自己紹介を取り次いでくれているのだろう。お互い言葉がわからないまま、頭を下げて挨拶を交わした。
僕がこの世界に来た時、神殿長や儀式の間にいた三国の騎士たちの言葉が全然わからなかった。けれどその後《言の葉の秘薬》というものを飲んだら言葉がわかるようになった。それ以降に出会った人たちとは全員普通に意思の疎通ができている。言葉が通じないのはこのアドルフィオ王子が初めてだ。
これは一体どういうことだろう。国のある場所が原因なのか?
レティシア王女は「海の向こうの国」と言うが、僕の予想ではその海とはカスピ海のことで外海ではない。神殿長にもらった地図の中で不自然に途切れていたイスタリア南部で陸続きになっているのでは、と僕は考えている。つまりアドルフィオ王子の国は厳密には同じ大陸の国だと思っていたのだが、言葉が通じないということは僕の考えは間違っていたということだろうか。
ついそんなことを考え込んでいると、ふとサイードさんの声がしてハッと我に返った。
「大丈夫か? カイ」
「え、あ、すみません」
いかんいかん。王女の目の前でまたしても失態を繰り返すところだった。
なにせ僕には昔ダーヒルの神殿での宴で、レティシア王女とサイードさんをほったらかしていきなり席を立ってしまったという前科がある。今度こそ自分の役目をきちんと務め上げなければ。
けれどレティシア王女は気にした風もなく、アドルフィオ王子と楽しそうに話をしている。その様子を見て僕は詰めていた息をそろそろと吐き出した。
以前、レティシア王女はサイードさんのことをとても気に入って、求婚めいた言葉まで口にしたことがある。いや、あれは明らかに求婚だった。というかヘッドハンティング?
以前彼女が神殿で開かれた宴の席でサイードさんに向かって言った言葉が頭に蘇る。
――――我らがイスタリアの女王は代々最も強く賢く美しき男を婿に取る。そなたも東の果ての国で生涯を送るよりも我が国でその力を振るい、失われた己の土地を取り戻してはどうかの、ダウレシュのサイードよ。
そういえば昨日サイードさんが聞かせてくれた昔の話にも出てきた《ダウレシュ》という名前を初めて聞いたのはあの時だった。つまり、どうやって調べたのかは知らないが、レティシア王女はサイードさんの過去を知っているということだ。それだけ彼女がサイードさんのことを本気で欲しいと思っていた証拠だろう。
けれど今夜彼女は初めの挨拶を除いて一度もサイードさんに話しかけてはいない。イスタリア最大の交易国であるエスペレラスの王子と婚約が決まった今、もう彼女はサイードさんに執着してはいないのだろうか。もしそうなら僕としてもありがたい。
結局、その夜の宴は何事もなく終わった。思っていたよりもあっさり済んだことに胸を撫でおろす。
そして後から広間に現れたナタリア女王とも挨拶を交わし、自分にとっては一番の本題であったこの国の書庫とそこに収められている文献や地図を見せて貰う了承も得ることができた。
「疲れたか? カイ」
自室に引き取る前に様子を見に来てくれたサイードさんが問う。
「いえ、大丈夫です」
「そうか。俺は向こうの部屋で休むことになるが、ダルガートもウルドもカイの傍にいてくれる。何かあったら彼らに言って俺を呼ぶといい」
「ええ、お休みなさい」
国の賓客としている以上、いくら個室でもあんまりイチャコラするわけにもいかない。それでも僕が寝台に横たわるとサイードさんは額に口づけてくれた。
それからウルドに頼んで廊下の扉の前で交代で夜番をしてくれているヤハルにも「ありがとう」と伝えて貰う。
一番最後にダルガートが来て「続きの間におりまする。何事もご案じなされぬよう」と声を掛けてくれた。
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