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【第三部】西の国イスタリア
111 再びオアシスへ
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「うーん、いい天気だ」
手綱を引いて馬を止めながら僕はしみじみ呟いた。見渡す限りの青い空には白い絵の具を伸ばしたような雲が広がっている。そしてオアシスが近づくにつれ青々と木や草が茂っているのが見えた。
「前に来た時よりずいぶん緑が増えましたよね」
「ああ、そうだな」
サイードさんも周りを見渡しながら頷く。
ここは僕がアル・ハダールへ来たばかりの頃にサイードさんとダルガートの三人で訪れたオアシスだ。あれから二年以上が経ってここの水源は順調に回復しているようだった。
「神子よ、例の聖廟はあちらに?」
後ろから追いついてきたダルガートがオアシスの東の方を指さして言う。ちなみに彼が乗っているのは、いつの間にか彼の馬ということになっているあの黒王号(仮)だ。
「そう、確かこの湖の向こう側だったはず」
それからもう少し馬を走らせて着いた湖を見て思わず歓声を上げた。
「すごい! 水が完全に戻ってる!」
「カイがもたらした神子の恩寵の賜物だな」
「と言っても別に何もしてないんですけどね」
何せ「ただいるだけで神の恩寵が現れる奇跡の神子」だ。正直あまり感謝されると身の置き所がない。ところがサイードさんはそうは思っていないようだった。
「何を言う。カイは水の戻りが悪い場所があればどれほど遠くてもこうして自ら足を運び、その土地を癒してきた。そのお陰でアル・ハダールの隅々まで水と緑が戻りつつある。カイはもっと誇っていい」
真顔でそういうサイードさんに照れつつも、自分がコツコツと頑張ってきたことを認めて貰えるのはやはり嬉しかった。
早いもので僕がこの世界に来てから二年と半年が経った。その間に僕は国内のあちこちに散らばる神殿や聖廟を回ってあの謎の水晶玉のようなものをメンテナンスして回り、その結果今では国内のほとんどの場所の川や湖、そして地下水源に繋がる井戸やカナートも復活していた。宰相であるサルジュリークの話では予想をはるかに上回るスピードだという。
西の辺境でイコン河の氾濫を鎮めて以来、カハル皇帝は僕が国内で水不足が続いている場所へ行く度に毎回サイードさんかダルガートを同行させてくれるようになった。それまでダルガートは朝晩常に陛下に付き従っていたけれど、最近は近衛騎士の中から特に強い人たちの何人かで交代しながら警護をしているらしい。だから今日もこうやって三人で出かけることができたのだ。
「神子よ、あれでは?」
ダルガートが木々に隠れるように建っている小さな聖廟を見つけた。僕たちはその手前で馬を降りる。
「俺の様子がおかしくなったというのはこの聖廟の前だったのか?」
サイードさんの問いに僕は頷いた。
二年ほど前に遠乗りがてら三人で訪れたこのオアシスで、僕はこの聖廟を見つけた。
ダーヒルの神殿長は「この国の神殿は皆、太陽神ラハルを拝むために南を向いている」と言っていた。けれどこの聖廟は南よりももっと西の方を向いていて、一緒にいたサイードさんに理由を知っているか尋ねた時、サイードさんに異変が起きた。
いつもはっきりと明瞭な口調で話すサイードさんの言葉はうつろで、その顔からは表情らしきものが完全に抜け落ちていた。
誰よりも一番頼りにしていたサイードさんの何も写していない黒い目が怖くて背筋が凍るような思いをしたのを今でもよく覚えている。
それ以来、僕は再びこの聖廟へ来ることをずっと避けていた。
僕たちは二年振りに訪れたその白い小さな建物をそっと覗き込む。中には以前見た通り、水晶のような不思議な球体が祀られていた。
「……どう? サイードさん」
恐る恐る彼の顔を窺うと、彼は厳しい顔つきでじっと聖廟を見ている。そしてぐっと眉を顰めたかと思うとしばらくしてから深々と息を吐き出した。
「上手く言えないが、俺はこれを見てはいけない……と感じた」
「ダルガートは?」
振り向くと、ダルガートも腕を組んで同じように聖廟をじっと見て答えた。
「……何も感じませぬな。というよりも神子殿に言われなければここにこんなものがあると気づきもしなかったのでは、と思う」
「そうか……」
なんとなく予想していた通りの答えに思わずため息をつく。僕は頭を振って気持ちを切り替えると、聖廟の前へと歩いて行った。
その聖廟はとても小さなものだけれど、中には他の神殿と同じくあの不思議な球体がちゃんと設置されている。それを覗き込むと金属らしき三つの輪っかが異なる角度で重なり合っているのが見えた。一見ジャイロスコープに似たそれが何なのかきちんとは分かっていないけれど、何かの位置を定義するための装置だということだけは確かだと思う。
前回これを見た時はサイードさんの反応に驚いて、詳しくこの球体を調べることなく逃げ出してしまった。あれ以来ずっと気になっていたのだが、またサイードさんの様子がおかしくなってしまうかもと思うと怖くてなかなか来る気になれなかった。
けれど国内を一通り巡って情勢もほぼ安定し、おまけに運よく二人とも帝都にいて二、三日時間を取れることになったので、ようやく再訪することができたというわけだ。
僕はその球体に両手をつき、ぐっと奥の方まで覗き込む。そして金属らしき輪に刻まれた記号のようなものを見てそれがずれていないかを確認した。
「……ここは大丈夫みたいだな」
どうやらここの球体は東や西の辺境にあった神殿のように狂ってはいないようだ。だからこそ水量も回復していたのだろう。ほっとして立ち上がるとサイードさんも微笑んで頷いてくれた。
それから三人で湖とそこから流れる二つの川の水量を見て周り、このオアシスが完全に機能を取り戻していることを確認した。
「今からでは日暮れまでに帝都には戻れませぬな。今宵はここで野営するのが安全かと」
下草が多く茂る木に馬を繋ぎながらダルガートが言う。それに頷いてサイードさんが荷物を下ろし弓と矢筒を背負った。
「しばらくしたら戻る」
「じゃあ僕たちは火を起こしておくので、夕飯の獲物をよろしくお願いします」
「ああ、任された」
狩りに行くサイードさんを見送って、僕はダルガートと二人で夜明かしの準備をする。いつものように完璧に荷造りしてくれたウルドに感謝しながら厚い敷布や風避けにする布を下ろすと、ダルガートが大きな木の下に天幕のようにそれを張って寝場所を作ってくれた。
僕は水を汲み、いつも持ち歩いている松ぼっくりに似た油分の多い球果と火打ち金と瑪瑙と綿花を使って火をおこす。そして集めてきた乾いた木を順番にくべた。さすがに二年も国のあちこちを旅して回っているとこういう手際だけは良くなる。
湯沸かしに水を入れて火に掛け、持ってきた種なしパンを周りに並べて温める。それから枝をいくつか拾ってきてはナイフで綺麗に削り、少し長めの串を作っていると、ダルガートが沸いたお湯でお茶を淹れてくれた。
「ダルガートってお茶淹れるの上手だよね。同じ葉と茶器を使ってるのに僕が淹れたのより苦味が少なくてスッキリしてる」
「左様か」
「荷運び以外にも得意なことあるじゃん」
以前、ここへ来た時にダルガートに言われた冗談を思い出してそう言うと、彼は片頬を上げてお茶のお代わりを注いでくれた。豊かに水を湛え夕日の赤を写し込む湖を眺めながらお茶をすすり、先ほどの聖廟を見た時の二人の反応について考える。
彼らの反応は密かに僕が覚悟していた通りのものだった。
以前イコン河の北に聳える天然の断崖を見た時も、サイードさんは一瞬心をなくしたように虚ろな目をしていた。
そしてダルガートは東の辺境にある国境の壁を見た時に、なぜ今まで自分もカハル陛下も一度としてこの国境をわが目で見ようと思いつかなかったのか、と不思議がっていた。
今さっき聖廟を見た時とほとんど同じ反応だ。これは一体どういうことなのだろうか。
その時、ふとダルガートが僕を見ているのに気づいた。
「また何かを考え込んでおられるようですな」
「え、ああ、そうだね」
「神子殿はいつもそうやって一人で色々なことを考えておられる。一度この小さな頭の中に何が詰まっているのか見てみたくなりますな」
「それ、前にここに来た時も言ってたよね」
「おや、そうですかな」
風に乱れる前髪をダルガートが大きな手で掻き上げてくれる。少しずつ日が陰ってきて頬に当たる風も段々冷たくなっていく。すると馬の足音が聞こえてきてサイードさんが獲物を手に戻ってきた。
手綱を引いて馬を止めながら僕はしみじみ呟いた。見渡す限りの青い空には白い絵の具を伸ばしたような雲が広がっている。そしてオアシスが近づくにつれ青々と木や草が茂っているのが見えた。
「前に来た時よりずいぶん緑が増えましたよね」
「ああ、そうだな」
サイードさんも周りを見渡しながら頷く。
ここは僕がアル・ハダールへ来たばかりの頃にサイードさんとダルガートの三人で訪れたオアシスだ。あれから二年以上が経ってここの水源は順調に回復しているようだった。
「神子よ、例の聖廟はあちらに?」
後ろから追いついてきたダルガートがオアシスの東の方を指さして言う。ちなみに彼が乗っているのは、いつの間にか彼の馬ということになっているあの黒王号(仮)だ。
「そう、確かこの湖の向こう側だったはず」
それからもう少し馬を走らせて着いた湖を見て思わず歓声を上げた。
「すごい! 水が完全に戻ってる!」
「カイがもたらした神子の恩寵の賜物だな」
「と言っても別に何もしてないんですけどね」
何せ「ただいるだけで神の恩寵が現れる奇跡の神子」だ。正直あまり感謝されると身の置き所がない。ところがサイードさんはそうは思っていないようだった。
「何を言う。カイは水の戻りが悪い場所があればどれほど遠くてもこうして自ら足を運び、その土地を癒してきた。そのお陰でアル・ハダールの隅々まで水と緑が戻りつつある。カイはもっと誇っていい」
真顔でそういうサイードさんに照れつつも、自分がコツコツと頑張ってきたことを認めて貰えるのはやはり嬉しかった。
早いもので僕がこの世界に来てから二年と半年が経った。その間に僕は国内のあちこちに散らばる神殿や聖廟を回ってあの謎の水晶玉のようなものをメンテナンスして回り、その結果今では国内のほとんどの場所の川や湖、そして地下水源に繋がる井戸やカナートも復活していた。宰相であるサルジュリークの話では予想をはるかに上回るスピードだという。
西の辺境でイコン河の氾濫を鎮めて以来、カハル皇帝は僕が国内で水不足が続いている場所へ行く度に毎回サイードさんかダルガートを同行させてくれるようになった。それまでダルガートは朝晩常に陛下に付き従っていたけれど、最近は近衛騎士の中から特に強い人たちの何人かで交代しながら警護をしているらしい。だから今日もこうやって三人で出かけることができたのだ。
「神子よ、あれでは?」
ダルガートが木々に隠れるように建っている小さな聖廟を見つけた。僕たちはその手前で馬を降りる。
「俺の様子がおかしくなったというのはこの聖廟の前だったのか?」
サイードさんの問いに僕は頷いた。
二年ほど前に遠乗りがてら三人で訪れたこのオアシスで、僕はこの聖廟を見つけた。
ダーヒルの神殿長は「この国の神殿は皆、太陽神ラハルを拝むために南を向いている」と言っていた。けれどこの聖廟は南よりももっと西の方を向いていて、一緒にいたサイードさんに理由を知っているか尋ねた時、サイードさんに異変が起きた。
いつもはっきりと明瞭な口調で話すサイードさんの言葉はうつろで、その顔からは表情らしきものが完全に抜け落ちていた。
誰よりも一番頼りにしていたサイードさんの何も写していない黒い目が怖くて背筋が凍るような思いをしたのを今でもよく覚えている。
それ以来、僕は再びこの聖廟へ来ることをずっと避けていた。
僕たちは二年振りに訪れたその白い小さな建物をそっと覗き込む。中には以前見た通り、水晶のような不思議な球体が祀られていた。
「……どう? サイードさん」
恐る恐る彼の顔を窺うと、彼は厳しい顔つきでじっと聖廟を見ている。そしてぐっと眉を顰めたかと思うとしばらくしてから深々と息を吐き出した。
「上手く言えないが、俺はこれを見てはいけない……と感じた」
「ダルガートは?」
振り向くと、ダルガートも腕を組んで同じように聖廟をじっと見て答えた。
「……何も感じませぬな。というよりも神子殿に言われなければここにこんなものがあると気づきもしなかったのでは、と思う」
「そうか……」
なんとなく予想していた通りの答えに思わずため息をつく。僕は頭を振って気持ちを切り替えると、聖廟の前へと歩いて行った。
その聖廟はとても小さなものだけれど、中には他の神殿と同じくあの不思議な球体がちゃんと設置されている。それを覗き込むと金属らしき三つの輪っかが異なる角度で重なり合っているのが見えた。一見ジャイロスコープに似たそれが何なのかきちんとは分かっていないけれど、何かの位置を定義するための装置だということだけは確かだと思う。
前回これを見た時はサイードさんの反応に驚いて、詳しくこの球体を調べることなく逃げ出してしまった。あれ以来ずっと気になっていたのだが、またサイードさんの様子がおかしくなってしまうかもと思うと怖くてなかなか来る気になれなかった。
けれど国内を一通り巡って情勢もほぼ安定し、おまけに運よく二人とも帝都にいて二、三日時間を取れることになったので、ようやく再訪することができたというわけだ。
僕はその球体に両手をつき、ぐっと奥の方まで覗き込む。そして金属らしき輪に刻まれた記号のようなものを見てそれがずれていないかを確認した。
「……ここは大丈夫みたいだな」
どうやらここの球体は東や西の辺境にあった神殿のように狂ってはいないようだ。だからこそ水量も回復していたのだろう。ほっとして立ち上がるとサイードさんも微笑んで頷いてくれた。
それから三人で湖とそこから流れる二つの川の水量を見て周り、このオアシスが完全に機能を取り戻していることを確認した。
「今からでは日暮れまでに帝都には戻れませぬな。今宵はここで野営するのが安全かと」
下草が多く茂る木に馬を繋ぎながらダルガートが言う。それに頷いてサイードさんが荷物を下ろし弓と矢筒を背負った。
「しばらくしたら戻る」
「じゃあ僕たちは火を起こしておくので、夕飯の獲物をよろしくお願いします」
「ああ、任された」
狩りに行くサイードさんを見送って、僕はダルガートと二人で夜明かしの準備をする。いつものように完璧に荷造りしてくれたウルドに感謝しながら厚い敷布や風避けにする布を下ろすと、ダルガートが大きな木の下に天幕のようにそれを張って寝場所を作ってくれた。
僕は水を汲み、いつも持ち歩いている松ぼっくりに似た油分の多い球果と火打ち金と瑪瑙と綿花を使って火をおこす。そして集めてきた乾いた木を順番にくべた。さすがに二年も国のあちこちを旅して回っているとこういう手際だけは良くなる。
湯沸かしに水を入れて火に掛け、持ってきた種なしパンを周りに並べて温める。それから枝をいくつか拾ってきてはナイフで綺麗に削り、少し長めの串を作っていると、ダルガートが沸いたお湯でお茶を淹れてくれた。
「ダルガートってお茶淹れるの上手だよね。同じ葉と茶器を使ってるのに僕が淹れたのより苦味が少なくてスッキリしてる」
「左様か」
「荷運び以外にも得意なことあるじゃん」
以前、ここへ来た時にダルガートに言われた冗談を思い出してそう言うと、彼は片頬を上げてお茶のお代わりを注いでくれた。豊かに水を湛え夕日の赤を写し込む湖を眺めながらお茶をすすり、先ほどの聖廟を見た時の二人の反応について考える。
彼らの反応は密かに僕が覚悟していた通りのものだった。
以前イコン河の北に聳える天然の断崖を見た時も、サイードさんは一瞬心をなくしたように虚ろな目をしていた。
そしてダルガートは東の辺境にある国境の壁を見た時に、なぜ今まで自分もカハル陛下も一度としてこの国境をわが目で見ようと思いつかなかったのか、と不思議がっていた。
今さっき聖廟を見た時とほとんど同じ反応だ。これは一体どういうことなのだろうか。
その時、ふとダルガートが僕を見ているのに気づいた。
「また何かを考え込んでおられるようですな」
「え、ああ、そうだね」
「神子殿はいつもそうやって一人で色々なことを考えておられる。一度この小さな頭の中に何が詰まっているのか見てみたくなりますな」
「それ、前にここに来た時も言ってたよね」
「おや、そうですかな」
風に乱れる前髪をダルガートが大きな手で掻き上げてくれる。少しずつ日が陰ってきて頬に当たる風も段々冷たくなっていく。すると馬の足音が聞こえてきてサイードさんが獲物を手に戻ってきた。
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