上 下
101 / 161
【第二部】東の国アル・ハダール

109 閉ざされた目

しおりを挟む
 次の日の朝、僕はなんとも言えない気だるさを感じながら目を覚ました。でも決して嫌じゃない感覚だ。するとすぐにこめかみの辺りに優しい口づけが降ってきた。

「よく眠れたか、カイ」
「……確かにぐっすりでしたね……」

 そりゃああれだけたっぷり愛されたらね……。
 無理に声を押し殺していたせいか少し喉が痛い。身じろいだ途端、身体の奥に残る甘い疼きを感じて小さく息を呑むと、今度は肩を抱き寄せられて唇にキスされた。
 ああ、やっぱりサイードさんのキスは気持ちがいいな。人前でされると恥ずかしいけれど、でも嬉しくて心があたたかくなる。
 帝都を出発する前にダルガートが言外に「僕を甘やかすのはサイードさんの役目だ」と匂わせていたけれど確かにその通りだ。
 サイードさんの温かくて力強い腕に抱かれて唇を合わせ舌先でくすぐられると、また腹の奥の方にじんわりと熱が籠り始める。我慢できずにサイードさんの太腿に跨るようにして擦りつけそうになった時、サイードさんが顔を離して言った。

「ダルガートが話があるらしい。今外にいるが、呼んでもいいか?」
「う、ぇっ!? も、もちろん……!」

 いかん。色ボケしてる場合じゃなかった。慌てて毛布を手繰り寄せて身体を起こすと、サイードさんが微かに笑って天幕の外へと出て行った。そしてすぐにダルガートを連れて戻って来る。

 サイードさんも背が高くて逞しいけれどダルガートはそれよりもっと大きい。身体の厚みが僕たち日本人とはまるで違っていて人種の差というものをつくづく感じてしまう。

「元気になられたようで安堵いたした」

 ダルガートが寝台の前に膝をついて言った。

「心配かけてごめん、ダルガート」

 そう謝るとダルガートが意味ありげに口角を上げる。僕が昨夜サイードさんにどんな薬を貰って元気になったのかわかりきっている、と言わんばかりの顔だ。やっぱり彼は意地が悪い。

「話があるって聞いたけど」

 わざとぶっきらぼうに尋ねると、ダルガートが僕と、僕をもたれさせるようにして寝台に腰を下ろしたサイードさんを見て言った。

皇帝ハリファよりのお言葉を伝えに参った。神子殿の体調が戻り次第ともにシャルラガンに戻り、そのままイスマーンへ帰る、と」
「えっ、もう? 予定ではまだ日にちがあるはずだけど……」

 宰相さんと約束したのは『二か月以内に必ず帝都に戻る』ということだ。シャルラガンから帝都イスマーンまでは約十五日の道のりで、約束の日までに戻るにはまだ一週間ほど余裕があるはずだ。するとダルガートが答えた。

「今年はいつもより早く季節嵐カリフ・アスーファが来る兆しが見えたとか。万が一帝都への道中、神子殿が嵐に巻き込まれることがあってはならぬ、と仰せで」
季節嵐カリフ・アスーファ?」

 聞き返す僕にサイードさんが教えてくれる。

「秋から冬に替わる頃にこの辺り一帯を襲う嵐のことだ。北の山脈から冷たく強烈な風が四六時中吹き付けてくる。旅慣れぬカイが途中で嵐に襲われれば命に関わることだ。だから予定より早くこちらを発とうとしておられるのだろう」
「……あの、サイードさんは……?」
「私はまだ戻れない。上流の橋の掛け直しをどうするか、片が付いていないからな」

 そう言ってサイードさんは思わず口ごもってしまった僕の髪を撫でてくれた。

「陛下とダルガートがいればイスマーンへの道のりは安泰だ。どうか帝都で私の帰りを待っていて欲しい」
「…………はい」

 渋々そう頷くと、ダルガートが突然違う話を振ってきた。

「シャルラガンへ戻る前に、神子殿とサイード殿に同行願いたい場所があるのだが」
「え、僕たちに?」
「何かあったのか」

 驚いて瞬きする僕と厳しい顔つきになったサイードさんを見て、ダルガートがかすかに笑みを浮かべる。

「大事ござらぬ。ただ、しばしの別れの前に少しばかり楽しむ時間があってもよいのでは、と」

 ダルガートの言葉に僕とサイードさんは首を傾げて顔を見合わせた。


     ◇   ◇   ◇



「わぁ……、すごいね……!」

 何分、高い熱を出した直後ということでダルガートからの誘いがあった日は用心して一日大人しく過ごし、翌朝まだ日が昇る前にダルガートとサイードさんと一緒に馬でイコン河の下流へと向かった。そこには橋が一つ無事に残っていて、イコン河を渡ってさらに北へと行くことができた。
 夜明け前のまだ暗い時にイコン河を渡るということで、僕はサイードさんと一緒にあの黒い大きな馬に乗せて貰った。
 吐く息が白くなるほど冷え込む中、厚い上着の上にラクダの毛布をマントのように巻きつける。そして小一時間ほど走ったところで僕は目の前に広がる景色に感嘆の声を上げた。
 それは真っ白な雪を被って断崖のように聳え立つ険しい山の連なりだった。

「ここがアル・ハダールの北の国境なの?」
「いかにも。とはいえ私も実際に見るのは初めてだが」

 ダルガートの言葉に後ろから手綱を握るサイードさんを振り向くと、サイードさんは「私は何度も哨戒に来たことがある」と教えてくれた。
 僕はあまりに厳しく強大な自然の擁壁を言葉もなく見上げる。けれどどうしても湧いてくる疑問を無視できなかった。

「……こんなところを越えて異民族が入り込んでくるの……?」

 イコン河から雪山まではひたすら何もない不毛の礫砂漠だ。そこに突然巨大な壁のような断崖が聳え、その遥か頭上の雪の頂きまで続いている。こんなところを馬や徒歩で乗り越えられるものなのだろうか。
 そう思いながらサイードさんを見上げて息を呑んだ。サイードさんは、あのオアシスの聖廟で見たのと同じ、ごっそりと感情が抜け落ちたような目をして山を見ていた。

「サ、サイードさん……!」

 思わず身体をひねってサイードさんの腕を掴み、名前を呼ぶ。するとハッと我に返ったように目を瞬いて僕を見下ろした。

「サイードさん、大丈夫? どうかしたの?」
「…………いや、なんでもない」

 そう答えて、サイードさんは無言で暗闇に聳え立つ山々を見上げる。すると同じように山を見つめながらダルガートが言った。

「……先日、神子殿とともに東の神殿へ赴いた折に東側の国境を見て参った」
「え?」

 そういえばそんなこと言ってたかな、と思いながらダルガートの言葉を聞く。

「東と南の国境には、いつ誰が作ったともわからぬ巨大な壁がある。昔からそう伝えられていて私もそれを知っていたはずだが、実際に見たのはその時が初めてだった」
「そうなんだ……」

 なんとなくそう相槌を打つと、不意にダルガートが僕を見た。

皇帝ハリファはこれまでアル・ハダール領内のありとあらゆる場所を見ておられるが、国境へ行かれたことは一度もない。妙だとは思われぬか」
「……そういえば」

 そうだ、同じことを確か宰相さんも言っていた。東の辺境で何かありそうだと陛下も宰相さんも知っていながら、なぜか自ら動こうとはしなかった。それは自分たちの性格上、明らかに不自然なだ、と。それと同時に思い出す。
 同じ時に宰相さんはこうも言っていた。アル・ハダールは度重なる異民族の襲撃を受けていながらも、なぜか国境の向こうへ言って周りの地形や敵の詳細を調べようとせず、そのことを僕に聞かれるまでまるで思いつかなかったと。

 絶対に何かおかしい。そのことに僕と宰相さんだけでなくダルガートも気が付いたということだろうか。思わずダルガートを見ると、彼はいつもの感情の読めぬ黒い目をして頷いた。


しおりを挟む
感想 398

あなたにおすすめの小説

身体検査

RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、 選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。

獣のような男が入浴しているところに落っこちた結果

ひづき
BL
異界に落ちたら、獣のような男が入浴しているところだった。 そのまま美味しく頂かれて、流されるまま愛でられる。 2023/04/06 後日談追加

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

弟が生まれて両親に売られたけど、売られた先で溺愛されました

にがり
BL
貴族の家に生まれたが、弟が生まれたことによって両親に売られた少年が、自分を溺愛している人と出会う話です

【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします

  *  
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!? しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です! めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので! 本編完結しました! 時々おまけを更新しています。

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!

めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。 ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。 兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。 義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!? このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。 ※タイトル変更(2024/11/27)

【書籍化確定、完結】私だけが知らない

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化確定です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ 目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2024/12/26……書籍化確定、公表 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。