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【第二部】東の国アル・ハダール

閑話 野営地の夜

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 男たちが固唾を飲んで見守る中、荒れ狂うイコン河を見事鎮めて見せたカイは今までとどこかが違っている、とサイードは感じた。



 熱と寒気にうなされていたカイが日暮れ近くにようやく目を開けた時、天幕の外には刻一刻と水量を増し今にも堤を越えようとしているイコン河に動揺し、恐れ狼狽える声が満ちていた。
 外で警護に立っていたヤハルたちの手前、神子が眠る天幕の傍では皆声を控えていたようだったが、それでもカイは外の不穏な空気を敏感に感じ取ったようだった。

「ぼく、いかなきゃ」

 あまりにもひどい顔色をしてそう言ったカイを、サイードは思わず押し止めた。けれど一人で立ち上がれぬほど弱っているのにも関わらず、カイの意志は強かった。
 結局サイードはカイの静かな決意に満ちた目と、なんとしてもイコン河の氾濫を止めなければならないという理性の声に従った。
 けれどどうしても「なぜカイばかりがこんなに重い荷を背負わねばならぬのか」という忸怩たる思いがどうしても拭えなかった。
 
 久々に抱き上げたカイの身体は不安になるほど軽かった。青白い顔をしていながらも目だけは熱を孕み潤んでいて、苦し気な呼吸がひどく痛々しい。サイードは唇を噛みしめて前を睨み、カイを抱いて堤を登って行った。
 周りを取り囲む男たちは皆一様にカイが起こす奇跡を期待し、取りすがらんばかりの顔をしている。
 いつもそうだ。いつも皆、カイに何かを求めてばかりいる。彼の成しえるみわざに値するものなど返せるわけもないのに。

 もちろんサイードとて同罪だ。そしてカイの力に縋らねばこの世界は立ち行かないこともわかっている。だからこそ怒りのやり場がなくて治まらない。
 これほどまでに何かに対して腹を立てたのは久し振りのことだ。今思えば怒りのあまり抱き上げたカイを落としたり怪我をさせたりしなくて本当に良かったと思う。
 堤を登り始めてすぐにダルガートが後ろについてくれたのは、サイードが足を滑らせるのを心配する以上の気遣いもあったかもしれない。

 けれどカイはそんなサイードの女々しく勝手な怒りなど吹き飛ばしてしまうかのように、見事にあの荒れ狂うイコンの濁流を鎮めてみせた。それもサイードにはまるでわからない方法で。

 あの時カイはサイードとダルガートの間に立っていただけだった。何かに祈るでもなく、まじないの言葉を唱えるでもなく、ただ静かにイコン河を見下ろしていた。

 サイードはカイがダーヒルの神殿に現れてからずっと、カイの一番近くにいて彼の起こす奇跡を見てきた。だがこの時サイードは、今までにはなかった何かをカイの姿から感じた。
 豊かで清らかなイコン河を背に振り向いたカイの目からは今までの迷いや戸惑いが嘘のように消え、まるで砂漠の夜空の星のように輝いていた。


     ◇   ◇   ◇


 明々と篝火を焚き、火を囲んで歌い喜ぶ声は夜が更けても止まず、人々は皆口々にラハル神とその神子のみわざを讃え続けた。
 サイードは傍らにカイを座らせ熱いスープを与えながら、明日以降の予定について尋ねてきた騎士へ指示を返していた。すると急にカイが自分の腕にもたれてきたのに気が付いた。

「どうした、カイ」

 するとなぜか顔を隠すようにして「大丈夫」と言う。
 周りにいる者たちは皇帝ハリファや領主ラムナガルより振舞われた酒を酌み交わし互いの話に夢中になっていて、少し離れた場所で隠れるように座っているサイードとカイに注意を払う者はいない。それでもこのような場所で自分から身を摺り寄せてくるのは随分と珍しいことだ。
 サイードは周りの視線に気を配りつつ、毛布を掛けてやる振りをしてカイを抱き寄せた。

「寒いのか?」
「……いいえ、本当に大丈夫」

 そう呟いて、ますます深く顔を隠してしまう。具合が悪いのを見せまいとしているのかと心配すると、すぐにカイが「体調を崩してるわけじゃないんです」と否定した。ならば、とサイードはカイの好きにさせることにした。

 自分の懐に身を寄せるカイを見下ろしていると、ふと彼がもう十七だということを忘れてまだいとけない子どもを守っているような気分になる。そのくせカイの体温を感じれば自然と身体は欲望を覚えるのだから始末に悪い。以前は成人前の寵童を侍らせる領主や同僚に眉を顰めていたくせに、とサイードは自嘲した。

 昨夜、発熱したカイに付き添ってサイードは朝までともに寝台に伏した。すると明け方近くにカイは夢うつつ、といった様子で急にサイードを求めてきた。

 寒い。抱きしめて。
 僕に触れて。温めて。

 もちろんサイードとてただの男だ。本音を言えば、四か月以上も離れていたカイを思う存分抱いて愛し、普段はひどく我慢強いカイが泣いて甘えて求めてくる声を聞きたくてたまらなかった。
 だが具合の悪いカイにおのれの欲望を押しつけようとするのは恥ずべき行為だ。だからサイードは縋りついてくるカイを毛布で包み、背中を撫でて宥めようとした。
 けれどカイはどうしてもそれだけでは納得しなかった。

 何度も何度もサイードを求めてしがみついてくる彼をそれ以上無碍にすることができず、サイードはカイに口づけ呼吸を確かめながら手で彼を慰めてやった。
 ここしばらくダルガートにも抱かれていなかったのか、狭い後腔を根気よく慣らし、ゆっくり優しく奥を愛撫してやるとカイは小さな声を上げて達し、満足そうに震える息を吐いて再び眠りに落ちた。
 そしてサイードはこみ上げる欲を飲み下し、毛布に包んだカイを抱きしめてまんじりともせずに夜を明かした。

 今またこうしてカイを懐に抱いていると、その時の欲望が再び頭をもたげそうになる。サイードは冷たい夜の空気に熱い息を吐きだしておのれの浅ましい衝動を紛らわそうとした。するとカイが懐で身じろぐ。

「サイードさん?」

 まったく疑いもせず、全幅の信頼をもって自分を見上げてくるカイに、サイードは思わずため息をつきそうになった。

「……河を渡る夜風は冷える。きちんと毛布を被っていた方がいい」

 サイードはそう言ってずりおちた毛布を引き寄せ、カイの頭を覆う。だがカイはサイードの躊躇いを敏感に悟り、再び聞いて来た。

「あの、どうかしました……?」
「いや、なんでもない」
「でも」

 なおも身を摺り寄せ、覗き込んでくるカイの身体を思わず掴んで押し止める。驚いたように目を丸くしたカイに、サイードは仕方なく白状した。

「……すまない。久しくカイに触れていなかったせいで、自分を御しきれなくなりそうな気がした」
「は?」

 カイがポカンと口を開けてサイードを見る。だが次の瞬間パッと顔を赤らめて俯いた。

「疲れただろう。もう休んだ方がいい」

 サイードはそう言ってヤハルの姿を探す。するとカイの手がサイードの服きゅっと握り締めた。

「どうかしたか?」
「…………あの」

 ためらいがちにカイが囁く。

「サイードさんは、まだここに……?」

 そして毛布の影から見上げてきたカイを見て、サイードは思わず息を呑んだ。

「……僕、一緒にいたいです」

 あまりに無防備で拙い誘いにサイードは一瞬答えをためらう。だがいつもはすぐに隠してしまう真っ赤な顔を晒して、カイは思い詰めたような目でサイードを見つめてきた。
 サイードは辺りの気配を窺いながら、わずかに身を屈めて囁く。

「いいのか? 今は到底手加減できそうもないが」

 するとカイはごくり、と唾を飲み込んで言った。

「…………僕も……我慢できない、です」

――――今すぐ、めちゃくちゃに抱かれたい。

 薪のはぜる音とまだまだ続いている古の歌、そして喜びと興奮に満ちたざわめきの中、カイの情欲にかすれたその声をサイードは聞き逃さなかった。
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