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【第二部】東の国アル・ハダール

104 イコン河の異変

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 シャルラガンの街から北のイコン河までの旅は呆気ないほど順調だった。もちろん、全盛期には『北の猛虎』と異名をとったほどの豪傑であった領主ラムナガル様とその親衛隊のお陰だけれど。
 そう、領主様と一緒に今回の旅に参加した三名の騎士はいろんな意味で『猛虎親衛隊』だった。ド迫力だぜぇ……。
 お陰で三、四日はかかる道のりがたったの二日半でたどり着いてしまった。それでもかなりの強行軍には違いないので、ウルドは神殿で待つことにしておいて良かった。

「神子殿はこちらに来るまで馬に乗ったことはなかったそうじゃが、なかなかどうして上手く御しておられるではないか!」

 領主様にそう言われて嬉しくなる。短期間で随分あちこち行っていたお陰か、立ち乗りもマスターしてかなり長く馬に乗っていられるようになったのだ。

「神子殿! 見えてきたぞ」
「え? そ、そうですか?」

 こちらの世界の人たちはみな恐ろしく目が良くて、遥か遠くにいる羊の群れだのをいとも簡単に見つけ出す。この時も領主様に言われた時、僕には何も見えなかったが、しばらく馬で走るとようやく駐屯兵たちの天幕が見えてきた。
 
「皆の者、ご苦労!」

 馬上から領主様が威勢よく叫ぶと、辺りにいた騎士や今回の護岸工事のために駆り出されているらしい人たちが集まってきた。

「堤の守りはどうじゃ」
「はっ、この辺りで切れかかっていた箇所はほぼ修復致しました。ですが西の方がまだだと聞いております」
「そうか。して、皇帝ハリファカハルがこちらにおいでのはずだが?」
「それが……」

 と、騎兵団の人らしき騎士たちが顔を見合わせ、言いよどんだ。

「実は、先日突然イコン河の上流から大量の水が押し寄せ、見張りに立っていた者を助けようとしてサイード様が河に落ち、流されてしまわれ……」
皇帝ハリファは将軍を探して川下の方へと行かれたまま戻っておられぬのでございます」
「なんだと? それはまことか」

 え、サイードさんが? 河に落ちた……?
 その言葉に一気に血の気が引いて視界が真っ暗になる。

「あの、それはいつのことなんですか!?」

 思わず被っていた日よけの布を跳ねのけて横から尋ねると、僕が神子だと気づいた騎士が一瞬驚いた顔をして、答えた。

「は……っ、二日前の晩にございます」
「二日前……?」

 二日前の晩といえばすでに僕たちがシャルラガンを出発して最初に野営した時のことだろうか。
 そしてその前の晩に神殿の聖壇であの謎の球体に触れたことを思い出す。そうだ、あの時僕は何をしたっけ……?

 不意に、心臓が暴れだし脳が揺れる。
 え、なに? あの時僕は何をした?

 その時、後ろでヤハルが息を呑んで声を上げた。

「ダルガート殿!」

 貧血でも起こしたみたいに暗い視界の中で必死に目を凝らすと、大きな黒い馬から飛び降りる誰かが見えた。

「ダ……」

 ダルガート、と言って手を伸ばそうとした途端、ぐらり、と身体が傾いてしまう。でもすぐにその手を取って力強い腕が僕を支えてくれた。

「ダルガート、サイードさんが」
「……すでにお聞きか」
 
 聞きなれた低く太い声にほんの少しだけ鼓動が落ち着く。僕はダルガートの腕にしがみついて呟いた。

「どうしよう、僕のせいかもしれない。だって僕があれ・・のスイッチを入れてしまったから」

 考えられないことじゃない。だって僕があれ・・に触れた次の日に突然河が増水したなんて、とても偶然とは思えない。じゃあ、僕のせいで、サイードさんは。
 急にガクガクと足が震えて立っていられなくなる。

「そんな……っ」
「神子殿」

 ダルガートが僕を呼んでる。でもそれどころじゃない。

「だ、だって、あれは、誰かがうっかり触って誤作動起こさないようにって、スイッチが三次元座標になってて」

 自分でもよくわからない言葉がぽろぽろと勝手に口から洩れる。

「でも他の人たちみんなずっと放ったらかしにしてるから、だから僕しかやる人がいなくて、だから」

 それを聞いてダルガートが目を見開いた。

「そう、だから、僕は」

 その時、突然ぐっと身体を持ち上げられた。

「神子よ」

 混乱しきった脳に、ダルガートの声が不意に入り込んでくる。

「かつてエルミランの聖廟に貴方を一人置いて行った時、吹き荒れる猛烈な吹雪が突然止み、一瞬だけ月が姿を現した」

 怖くて怖くて息もできなくて、でも必死に目を開き耳を澄ましてその声を聞く。

「何も遮るもののない雪原にその瞬間だけ、敵の姿が見えた。そしてすぐさま猛烈な風が吹き再び月は厚い雲に隠れ、私の姿を隠してくれた。あれは貴方が私を守ってくれたのだと、今でも思っている」

 ダルガートの力強い視線がひどく痛い。

「貴方には力がある。貴方自身でさえ理解できてはいない力が」

 ああ、そうだ。結局今でも僕はこの力を使いこなせてなんかいない。
 手に余るほど大きな力はこの世で一番危険な爆弾と同じだ。いつ暴発して、自分だけでなく回りの人たちをも巻き込んで粉々にしてしまうかわからない。ついこの間、シャルラガンの神殿長さんに言われた通りに。
 ますます血の気が引いていく僕の腕を掴む手に、ぐっと力が籠められる。

「それは恐らく貴方を不安にさせ、時には貴方を怖がらせるだろう。だからこそ貴方は心を強く持たねばならない」

 その言葉に僕は歯を食いしばる。
 それはダルガートがずっと前から繰り返し僕に言っていた言葉だ。あのエルミランの山頂でも彼は同じことを言っていた。

――――どうか、心を強くして待たれよ、我が喜びの子ファラーハよ。

 そうだった。いつだってダルガートは、そしてサイードさんだって必ず口にした言葉を守ってくれた。僕だってこんなところで落ち込んでる場合じゃないのに。

「エイレケのアダンに捕らえられた時に、貴方が思ったことはたった一つだけだったはずだ」

 ダルガートの言葉にようやく呼吸が戻って来る。その時、腕を組んで考え込んでいた領主様が言った。

「神子殿よ。行方知れずになっている騎兵団の団長は、確かそなたの《イシュク》であったな」
「は、はい。そうです」

 擦れた声でそう答えると、領主様が顔を上げた。

「何十年も昔の話だが、儂は西の神殿領で先代の神子殿にお会いしたことがある。彼はイスタリアの騎士をおのれの《イシュク》に選んだ。その時、神子と《イシュク》には特別な繋がりがあるのだと聞いた」
「特別な繋がり……?」
「いかにも。先代の《イシュク》は海峡を守る騎士であったが、神子がイスタリアの王都カナーンにいた時に彼の危機を夢で知り、すぐさま女王に願い出て援軍を送らせたのだという」

 夢でだって? そういえば三代前の神子だったあの女の子も出征していた旦那さんの危機を救ったことがあると、ダーヒルの神殿長さんが保管していた手紙に書いてあった。
 すると領主様は眼光鋭く僕を見据えて言った。

「彼はそなたの守護者イシュクだ。我らには見えぬ何かで必ずや繋がっている。きっとそなたは彼の息を感じることができるはずだ」
「い、息を感じる……?」

 領主様が僕の肩をがっちりと掴む。

「目を閉じ、心を研ぎ澄ませ。神の声を聞くとき、我らはそうする」

 かみのこえ。

 ああ、まただ。また神様か。そう思って思わずがっかりしてしまう。いや駄目だ。みんなが見てるのに仮にも『慈雨の神子』たる僕がうんざりしたような顔なんて絶対にしたらいけない。

 神様、本当にいるなら教えてよ。サイードさんは無事なの? どこにいるの?
 今にも止まりそうな根性なしの心臓を蹴りとばして深呼吸をして、拳を握りしめて必死に祈る。なのにどうしたら神様の声なんて聞けるのか、どうしてもわからない。

 領主様にその騎士たち、サイードさんの部下やヤハル、大勢の人たちが固唾をのんで僕の言葉を待っている。なのに頭は真っ白なままで、怖くて怖くて我慢できずに隣のダルガートに手を差し出す。するといつもひと目のある場所では決して僕に近づかない彼が、ぎゅっとその手を握ってくれた。

 イシュク、というものがまだ僕にはきちんとわかってはいないけど、僕にとってサイードさんは絶対に特別な人だというのは確かなことだ。
 イコン河の濁流に飲まれて流されたサイードさんを想像して思わず背筋が震えそうになる。
 真っ暗な河に落ちて、それからサイードさんはどうなった? 溺れて、息が止まって、川底に沈んで、とあれこれ最悪の事態を想像してみる。でもそのどれもが映画やドラマの続きを考えてるみたいでちっとも現実味がない。

――――でも、それを言うならこの世界のこと全部、本当に現実のことなのか?

「…………サイードさんは、生きてる」

 まるで他人のような声だと思いながら、寒気が止まらないのを必死に隠して言う。

「大丈夫。絶対。サイードさんは生きてる」
「そのひと言で充分」

 突然、ダルガートに肩を押されて顔を上げた。その先には見覚えのある、あの黒い大きな馬がいた。

「え……どうして……? ダルガートが帝都から乗ってきたのは別の馬だったよね?」

 ダルガートに引きずられるようにして歩きながらぼんやりと呟く。

「先日サイード殿から力の強い馬を送って欲しいと知らせがあり、帝都より送られた中にこの馬がいたとか」
「そうだったんだ……」

 これまで何度も助けられた頼もしい馬との思いがけない再会に、これはきっと幸先のいいことなんだと自分に言い聞かせた。そしてダルガートとともに黒馬に乗ると、同じく騎乗した領主様の勇ましい声が響く。

「儂らも手分けして下流を探すぞ!」
「応!」

 領主様の配下の騎士たちが素早く馬に乗った。視界の端に、ヤハルが顔見知りらしい騎士から一抱えの荷物と鋼鉄の大槍を受け取るのが見える。

「神子よ、しっかり捕まっておられよ」

 以前、サイードさんと二人乗りした時は前に乗せて貰ったけれど、今は少しでも速く走るためにダルガートの後ろだ。

「まずは下流へ。ヤハル、来い」
「はっ!」

 僕は言われた通り、両手を回すのがやっとなダルガートの太い胴にしがみついて震える息を吐きだす。するとダルガートは馬の腹を蹴って弾丸のように川岸を飛び出した。
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