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【第二部】東の国アル・ハダール

102 神子の仕事

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 それからの数日は長いけれどあっという間だった。

「お疲れ様でございます」

 ようやく一日の仕事が終わって神殿内に宛がわれた部屋に戻ると、ウルドがいつもの笑顔で迎えてくれた。一日中ずっと知らない人たちにいろいろ教えて貰いながら神殿で働いてすっかり気疲れしてしまった僕には、たまらなくホッとする顔だ。
 アル・ハダールでも特に水が貴重なここでは蒸し風呂ハマームなんてものはもちろん使われていない。ウルドの手を借りながら水で絞った布で顔や身体を拭いて、部屋着に着替える。そして木の椅子に腰を下ろして息をついた。

「あー、疲れた」
「どうぞ、お茶でございます」
「ありがとう、ウルド」

 アル・ハダール内でも随分と北西にあるこの辺りは日が陰り始めるとすぐに気温がどんどん下がっていく。帝都で飲んでいたのと変わらない味の温かいお茶に、ようやく人心地がついた気持ちになった。

 この神殿内は厳しい自然環境のせいもあってか、シンプルで華美を好まない清貧な生活が営まれている。皆で食べるご飯も種なしパンとスープ、そして聖日の夕食の時に出る水で割った一杯のワインが唯一の贅沢らしかった。
 それぞれの部屋も掃除の手間を省くために床に敷物を敷いて座るのではなく簡素な木のテーブルや丸椅子を使っている。イメージとしてはむかしの西洋の修道院のような感じだ。

 神殿の外を見下ろせる窓の傍に座って日が暮れた後の空を見る。相変わらず日本とは比べ物にならないくらいのすごい星空だ。
 初めてこの世界の地図を見た後、星も地球と同じなのだろうかと思って星座を探したけれど、星が多すぎてかえって知っている星を探すことはできなかった。

 この神殿で暮らし始めて一週間が経つ。とっくにカハル皇帝はサイードさんたちがいるというイコン河に着いていることだろう。けれど陛下からの連絡はまだ何もない。
 ぼんやり夜空を見上げながら、僕は神殿で見聞きしたこと思い出す。

 相変わらず、自分がやらなきゃいけない、やるべき仕事というのがわからない。
 下級神官たちは毎日神殿の役目や機能を維持するための仕事をしている。中級神官たちは主に神に祈り助けを求める人たちのフォロー、上級神官は教義を研究しそれをどう人々の暮らしの助けに生かすかを考えている。
 どれも大事な仕事だとは思うけど『僕しかできないこと』かといえば違うと思う。
 こんな時、ラノベやアニメの主人公のように怪我や病気を治す力だとか、穢れた瘴気を祓う力とか、そういうもっとわかりやすい能力が僕にあればなぁ、と思ってしまう。

 実はこっそり試したことはあるんだ。鍛錬中に怪我をした従士の腕をとって、そりゃあ一心不乱に祈ってみた。もしも僕に本当にラハル神の加護があるなら、この怪我を治して欲しい、って。
 でも本当を言うと、頭の中でそう唱えながらもその願いが叶う気なんて実はまったくしていなかった。
 だって心の底ではラハル神なんて信じてない僕がどれだけ「怪我が治りますように」と唱えても、それは祈りじゃなくてただ頭の中で自分の願望を繰り返してるだけだ。本当にそうなるわけがない。

 やれ初詣だクリスマスだ仏像巡りだなんて年がら年中言ってる典型的現代日本人の僕にとって『信仰』というものはあまりに縁遠い。
 特別やりたいことでもあればともかく、信仰心の欠片もない僕が神様を信じている人たちに交じって神殿で働こうというのは、神官たちや信者の人たちに対して失礼な気がしてならないのだ。

「やっぱり僕は神殿には向いてないかなぁ……」

 思わずそう呟くと、ウルドがそっとお茶のお代わりを淹れてくれた。

 僕にしかできないことと言えばやっぱりこの大陸の水を増やすことだ。町や村の井戸に水を呼び、乾いた大地を潤して川を復活させてたくさんの麦や牧草や作物を育てる。
 カハル皇帝は「そなたが元気に生きておればそのうち水は勝手に増える」なんて言ってくれてるけど、もう少し効率のいい方法があれば実践すべきだ。
 もういっそのこと僕があっちこっち回ってドバッと雨を降らせたらどうかと思ったけれど、それはあまり良くないと教えてくれたのは意外にもこのシャルラガンの神殿長さんだった。


     ◇   ◇   ◇


「北のイコン河に水が戻った話はご存知か」

 僕がそのことを相談した時、まるで武人のような雰囲気の神殿長さんがそう言った。

「エルミラン山脈から繋がる大河の一つですが、五年ほど前にはもうほとんど枯れかけておりました。それが神子様がご降臨なされた途端に半分近くもの水量が戻りました。ですがあまりにも突然のことだったためにいくらかの被害もございました」

 そうだ、確か前から痛んでいた河岸が急な増水で崩れてしまって、今サイードさんたちはそれを治す指揮を取っているはずだと聞いた。そう話すと、神殿長さんは頷いた。

「他にも僅かな水を求めて広い川底へ家畜を入れていた者たちが流されてしまったり、北の蛮族に落とされた橋を直す前に水が戻ってしまい、修復が難しくなったりということも」
「そんなことが……」

 結構大きな被害が出ていたようで思わず言葉に詰まる。けれど神殿長さんはそれにかぶりを振って言った。

「もちろんそれらのことは神子様の咎ではなく、ひとえに考えが至らず事前に備えておけなかった我らの不徳の致すところであります。ですが、例え良きことであっても急激な変化に回りがついていけないこともあるのだと、お心に留め置いて頂きたいのです」

 そうか、山だって急に大量の雨が振ればその多くは地下に吸収されずに鉄砲水や地すべりを引き起こすことだってある。それでは元も子もないのだ。

「わかりました。よく覚えておきます」
「せっかくのお心遣いに水を差すようなことを申し上げてしまい、申し訳ない」
「いえ、教えて頂いて大変勉強になりました」

 机の上での勉強しかしたことない僕は、そういう実地の知恵や経験が圧倒的に足りない。だからこうやって意見を貰えるのは本当にありがたいことだと思う。でもまたしてもスタート地点に戻ってしまった。

 それでもいつもの日課はきちんとやらねばならない。最近は僕にひと目会いたいとやって来る人たちが多いらしく、たいていは聖堂にいて礼拝に来た人たちに声を掛けたり派手に拝まれたりしている。これがまた地味にストレスで……。だってそんなに感謝されるほどの成果を僕はまだ出せていないんだから。
 かといって本気で『慈雨の神子』をありがたがってる人たちに「頼むから勘弁して下さい」とはさすがに言えない。だから必死に冷静な振りをして彼らの話を聞いてるんだけど、多分顔はかなり引きつってると思う。部屋に戻る度に顔の筋肉が痛くて辛いくらいだ。

 やれやれ、と内心思いつつ腰を上げると、神殿長さんに止められた。

「もう一つだけよろしいか、神子殿」
「え? あ、はい。もちろんです」

 慌てて座り直した僕に、神殿長さんが重々しい口調で言った。

「確かに貴方は『慈雨の神子』だ。だからこそ意に染まぬ勤めを無理に果たそうとする必要はありませぬぞ」
「うえっ!?」

 まずい。そんなに嫌そうな顔していただろうか。思わず青褪めると、神殿長さんは初めのいかめしい顔つきから一転し、破顔した。

「神子殿、貴方は確かに偉大な力をお持ちだが、己を取り繕うすべを身に付けるにはまだまだ若い」
「……自分でもそう思います」
「だからこそ、一人で全部なんとかしようとしなくてよろしい」

 どちらかというと強面な顔を和らげて、神殿長さんが言う。

「『慈雨の神子』の恩寵は、神子の心持ちによっては恵みの雨にもなり試練の嵐にもなる。アル・ハダールのために、と思って下さるお気持ちは大変嬉しいが、貴方は貴方の心が望むことに正直でいた方がいい」

 サイードさんとダルガートにも同じことを前にも言われた。そう、初めて三人で結ばれた夜に。

――――貴方は貴方のままでいればいい。

 感情が力に直結する僕だからこそ、できるだけ満たされて穏やかな気持ちでいた方がいい。でもそれはやりたいことだけやってればいい、というのとも違うと思うんだけど……。

 難しいな、とつくづく思う。僕に必要なのはもし万が一僕がまずいことをやらかしそうになった時にきちんとそれを止めてくれる人なんだろう。
 するとまた一人で考え込んでしまっていた僕を、神殿長さんが面白そうな目をして見ていた。恥ずかしさにたちまち顔に血が上り、いつもの赤面症が出てしまう。

「神子殿」
「……はい」
「ちなみに今一番したいことは?」

 もちろんサイードさんとダルガートに会いに行くことだ。
 考える間もなくそう頭に浮かんで、また顔が熱くなる。

「なるほど。神子殿には確かにやりたいことがおありのようだ」

 何とも言えず俯いてしまった僕に、神殿長さんは声を上げて笑った。
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