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【第二部】東の国アル・ハダール

97 急な呼び出し

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「ふふっ」

 映画か何かで見るような紗のベールに覆われた天蓋つきのベッドでこんな夜更けにのんびりお茶を飲んでいるなんて、とても自分のことじゃないみたいだ。おかしくて思わず笑ってしまうとダルガートが視界の端で僕を見た。それに「なんでもない」と首を振って綺麗な茶器に口をつける。
 ほんのり温かくていい匂いのするお茶を飲んで、ほう、とため息をついた。するとダルガートが腕を回して自分の胸にもたれさせてくれる。

 常にあちこち動き回っているカハル皇帝に付き従うダルガートは、普段とても忙しい。昼も夜もほとんど顔を合わせることができない彼が僕の隣でのんびりしているなんて初めてじゃないだろうか。ましてや僕を抱き寄せて黙って一緒にお茶を飲んでるなんて。

 東の辺境への旅はなんだかんだで一か月くらいかかってしまった。その間ずっとカハル皇帝の近衛騎士の仕事を離れていたダルガートは、帝都に戻ってからずっと昼夜を問わず陛下についていて、これまで以上にすれ違いばかりの生活だった。
 でもダルガートがそんなに忙しいのは僕が東の神殿に付き合わせてしまったせいで、もちろん文句なんて口が裂けても言えやしない。

 サイードさんのことが気がかりで寝付けなかったけれど、今ダルガートが一緒にいてくれてとても嬉しい。
 気恥ずかしいのを堪えて彼の横顔を盗み見る。疲れた様子はないかな。元気にしてたかな。するとダルガートがすぐに気が付いて、あの何を考えてるかわからない黒い目で僕を見下ろした。そしてふと手を伸ばして僕の目の下を擦る。

「少し、お疲れのご様子か」
「えっ? そんなことないよ。ただちょっと……」

 そう言いかけて口を噤む。そう、疲れてるわけじゃないんだ。ただサイードさんに会いたいなっていうわがままと、あとついつい先延ばしにしてしまっている問題が一つ、心に圧し掛ってるだけだ。

「実はさ、こないだ宰相さんとも話したんだけど……」

 と、そこでハッと我に返った。そうだ、二人はえらく仲が悪いんだったっけ? 思わずちら、と上目遣いで様子を窺うと意外にもダルガートの無表情に変化はなかった。これはダルガートの方は別に宰相さんに対して悪感情を持ってるわけじゃないということなのか。それとも嫌いな相手でもこんな風にまったく顔に出ないだけなのか。もし後者だったらダルガートの鉄面皮は半端ないということだな。
 僕は一つ息を吐くと、自分の考えを整理するつもりで口を開いた。

「僕ってさ、慈雨の神子だろう? だからやっぱり神殿とまったくの無関係ってわけにはいかないと思うんだ」

 アル・ハダールに来てから僕は神子らしいことは特にしていない。カハル皇帝も「神子はそこにいるだけで天候に恵まれる。だからこの国で元気に暮らしているだけでいい」なんて言ってくれてるけど、全員がそう思ってるわけじゃない。それはこの間の東の神殿の人たちを見ればよくわかる。
 中には僕に何か奇跡を起こして欲しいとか、神子は神子らしく神殿で神に仕えるべきだとか思ってる人だっているだろう。
 この間の東の神殿のように一方的に「神子は神殿にいるべきだ」と言われて従うつもりはないけれど、でも何か自分がするべきこと、自分じゃなきゃできないことがあるかもしれない、とは思う。

「正直、僕は神殿には住みたくないし、このままここにいたい。でも神子としている以上、神子の仕事もしなきゃいけないってのもわかるんだ」

 だってこんな宮殿に住まわせてもらって、明らかに手の込んでる服だのたくさんのお皿が並ぶご飯だのを毎日提供されてる僕の生活費ってかなり高いと思うからね? 貰ってる分は働かないと。この先もこの国で生きていくならタダ飯食らいの居候っていうのはさすがに居心地が悪すぎる。

「でも神子の仕事ってなんだろう、ってとこで止まってて……。なんせこの国に慈雨の神子がいるって状況が初めての事で前例がないからさ。最終的には神殿側と宰相さんと僕とで意見のすり合わせをすることになるだろうけど、まず僕が神殿のこと何も知らないから……」

 だから一度、期間限定で神殿に行っていろいろ勉強してこないと、と頭ではわかっているんだ。でも東の神殿であんな熱狂的というか狂信的な態度を見せられると、そんなところに行ったら何かひどく面倒なことになりそうで怖いし、この間みたいな目に合うのは絶対に遠慮したい。

「だから帝都の中央神殿に行くか、って今日も宰相さんと話をしたんだけど……」

 と言って思わず口を噤んでしまった。
 そう思うならさっさと行動しろよ、と自分でも思う。でもどうにも腰が重いというか思いきれないのは……

「なるほど」

 ……やっぱりダルガートにはすべてお見通しのようだった。その証拠に突然僕をひょい、と抱き上げると、向かい合わせに膝の上に座らせた。まさかあの意地悪でいつもシニカルなダルガートが!? と絶句していると、ダルガートがからかうように言った。

「サイード殿がおられぬゆえ、私が代わりを務めねば」
「ぶはっ」

 つまり普段は僕を甘やかすのはサイードさんの担当だ、ってことか。でもそのひと言で僕がサイードさんのことばかり考えていてそれ以外がお留守になってるんだとダルガートにバレてることがわかってしまった。
 でもダルガートは叱るでも諭すでもなく、分厚い肩に僕の頭を乗せてただ黙って背中を撫でてくれた。

「……これもサイードさん流?」

 ちょっと恥ずかしくてそう茶化すと、ダルガートがフン、と鼻を鳴らす。うん、やっぱりダルガートだ。サイードさんだったらきっとここで髪を撫でて頭のてっぺんにキスしてくれるだろうな。
 多分、ダルガートはよっぽどのことがあったとしてもこんな風にしないんじゃないだろうか。でも僕がサイードさんのことを心配してるってわかってて、それで特別に甘やかしてくれてるのかもしれない。

 そうだ。今こんな時にダルガートと一緒にいられるのが嬉しいのは、彼だけが僕の今の気持ちをわかってくれているからなんだ。
 僕がどれだけサイードさんが好きで、ずっと会えない彼のことをどれだけ思っているかを知っているのはダルガートだけだ。だから彼も今、こんな風にサイードさんがするみたいに僕を抱きしめて慰めてくれているのだろう。
 いつにない彼のストレートな優しさが気恥ずかしくて、でもすごく嬉しくて胸がきゅううっ、っとなる。

「じゃあ、もうちょっと甘えてもいい?」

 つい浮かれて、少し大胆に言ってみる。恐らく今の僕の顔は真っ赤でひどくみっともないことになってるだろう。でも暗くて見えないからいいや。……って、しまった。ダルガートって実は結構夜目が利いたんだったっけ? ふと思い出して慌てて膝から降りようと腕を突っぱねたら、すかさずダルガートに抱きすくめられて顎を持ち上げられた。

「……っふ、…………っ」

 厚くて肉感的な唇が僕の口を塞いでくる。そのまま下唇を食まれ、濡れてざらついた舌にくすぐられて僕は口を開く。そしてくったりと力を抜いて滑り込んできた舌を受け入れた。
 ぬるぬると絡みついてくる舌の熱さが気持ちがいい。ダルガートの硬くて力強い腕に抱きすくめられて、大きな手のひらで背中や腰を撫でられてたっぷりと口づけを与えられた僕の身体にゾクゾクとかすかな震えが這い上がって来る。
 気持ちいい。それにすごく安心する。今だけ、今だけちょっと甘えてもいいだろうか? そうして僕も手のひらをダルガートの分厚い胸に這わせた時、突然ダルガートが僕を懐に抱き込んで身体を起こした。その目は鋭く光って天蓋の外を見ている。

 どうしたの、と聞こうとした時、ベール越しに灯りが揺らめいてウルドの声が聞こえてきた。

「お休み中のところ申し訳ございませぬ。皇帝ハリファカハルがダルガート様をお呼びとのことで、宰相閣下よりヤハル様にお言付けがございました」

 え、カハル陛下が? こんな夜中に? 何か緊急事態だろうか?
 ヤハルは他の騎士と交代で寝室の外の扉を守っていてくれているはずだ。その彼のところに宰相さんから?
 とっさに判断できずに身を強張らせると、ダルガートが素早く僕を膝から降ろす。そして薄掛けを僕の肩に掛けると、ベールを跳ねのけてウルドとともに隣の居室へと出て行った。

 なんだろう、何があったんだろう。僕もすぐ後を追いかけようとしたけど、今の自分の恰好を思い出して思わずためらう。だってさっきダルガートが着せてくれた夜着は結構薄い。その分涼しくていいのだが、さすがにこの恰好でヤハルの前には出られない。
 ああ、でもこれがあればいいかな、と思ってダルガートが掛けてくれた薄掛けを頭から被ろうとした時、戻ってきたダルガートが僕の上に身を屈めて言った。

「これより陛下の元へ戻りまする。お傍についていられず、申し訳ない」
「え……いいよそんなの。そっちが大事だよ。でも……」

 思わず口ごもる僕にダルガートは「よくあることゆえ、ご案じ召されるな」と言ってそっと僕の額に口づけてくれた。これもダルガートにはひどく珍しいことだ。
 まるでサイードさんみたいな優しいキスを残してダルガートは行ってしまった。ますます落ち着かない気持ちで扉を見ていると、ウルドがやって来てベール越しに声を掛けてきた。

「神子様、よろしければもう一杯、お茶をお持ちしましょうか」

 こっちの世界では何はなくともお茶を飲む習慣があって面白く思っていたけれど、こんな時も一番の薬になるのはおいしいお茶らしい。ウルドの心配そうな声が、僕が珍しく熱を出した時の母親に似ていて思わず笑みが浮かぶ。

「いや、いいよ。もう寝るからウルドも休んで」
「……お傍に控えておりますゆえ、何かございましたらお呼び下さいませ」

 一人で寝るには大きすぎる寝台に横になってぼんやりと隣を見る。ついさっきまでダルガートがいたその場所はまだほんのり温かいような気がして身を寄せると、身体を丸めて目を閉じた。

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