月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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【第二部】東の国アル・ハダール

閑話 皇帝カハルの覚悟と疑問

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「其方ら、東の辺境へ行っておったそうだのう」

 皇帝ハリファカハルは今朝も早くから馬であちこち駆け回り、戻ってきたところで宰相に捕まって昼まで合議を行った後に昼餐を掻き込んで謁見の間に飛び込むと、跪いてカハルを待っていた二人が顔を上げた。
 片方は鍛え上げられた堂々たる体躯に冷ややかな黒い目をしたカハルの主騎であり、もう片方は小柄でまだどこか幼さの残る顔立ちをした『慈雨の神子』である。
 カハルは正面の皇帝の座にどっかりと座ると、ぐい、と身を乗り出して尋ねた。

「儂が南へ行っておった時に、東の神殿からなんとしても辺境へ来て神の御業を示して欲しいと直訴があったとか」
「はい。その通りです」

 そうカハルに答えたのは、意外にも神子の方だった。
 しばらく前に神子がこの帝都へやってきた時の歓迎の宴では、終始サイードの後ろに隠れてカハルの不躾な問いに困った顔をしていたが、このひと月ふた月の間に随分といい顔をするようになった、とカハルは思う。

 どうやら彼はこの帝都にいる間、勉強だけでなく毎日鍛錬をしたり馬に乗ったりして身体を鍛えているらしい。カハルの義弟であるカーディムからも、神子が若い従士たちに混じってなかなか頑張っていると聞いたことがあった。

 カハルが頷いて先を促すと、神子は時々言葉につかえながらもきちんと落ち着いた声音で話し始めた。

「今回、東の神殿の上級神官であるナルド神官の要請でアーケル領へ行き、領内の水不足を解決できるよう働きました」
「して、その首尾は」
「神殿地下にある儀式用の水路はほぼ満水に近く、神殿内の井戸の水も回復したと聞いています」

 そしてやや高めの神子の声の後を引き取って、低く太いダルガートの声が続く。

「第三騎兵団より借り受けた二名の騎士とともに近辺の村々を周り、共同井戸の水量が戻ったことも確認し申した」
「そうか」
「そして神殿を発った日におよそ半日の間、恵みの雨も」
「雨だと? なんと、それは大手柄だ」

 カハルが「よくやった、神子殿よ」とニッと笑って言うと、まだ年若い慈雨の神子はホッとしたように肩の力を抜いて微笑んだ。それに頷いてカハルは重ねて問う。

「水の件はあいわかった。だがアーケル領主の公費横領の件は一体どこから降ってきたのだ?」
「え?」

 と、神子がきょとんとした顔で瞬きをした。どうやらそちらに関しては神子はまったく関与してはいないらしい。となるとダルガートが他には知らせず一人単独で動いたのか。
 カハルは背もたれに身体を預けると、手を組んで「さあ、く話せ」とばかりにダルガートを見た。

 今朝、宰相に捕まって行った合議の席でカハルは、アーケル領主エダルがありもしない蛮族の襲来をでっち上げ、カハルをたばかり毎年の租税カタールを納めぬだけでなく国境を守る領兵を雇うための金を要求しそれを我が物として私腹を肥やした罪ですでに捕縛、一時罷免し、現在帝都へと移送中だと聞かされた。

 まさに寝耳に水のその報告に少なからず驚かされたカハルは、今自分の斜め横で涼しい顔をしている宰相サルジュリークと、それに輪をかけて無表情なダルガートを交互に見てさらなる説明を求める。
 だが宰相の方は「此度、神子殿に同行させた者より『アーケル領主に不正の疑いあり』との伝書が届きましたゆえ、すぐに早馬にて兵を送り証拠を押さえ、エダルの身柄を確保させたまでにございまする」と言うだけで、ダルガートの方も「神子殿に代わって領内を見て回り、見聞きしたことを帝都へ報告させたのみにて」としか言わなかった。

「なんじゃ、ちっともわからんのう」

 相変わらず、言葉も視線も極力交わさぬ宰相とおのれの主騎を見てカハルは肩をすくめる。
 神子はといえば、こちらに聞こえていないと思っているのか、隣のダルガートにひそひそ声で「ねえ、伝書って何?」などと尋ねている。ダルガートが「鳥の足の金環に書を仕込んで飛ばせば三日で届きまする」と答えると、神子は「えっ、それってつまり伝書鳩!? ってか三日!? 馬で十日かかるのに!?」と驚いた顔をした。

(しかしこの神子殿、サイードはともかくダルガートにまでこうも懐くとは意外だったのう)

 十を過ぎた頃には剣を持っているこちらの男子と違って異なる世界から来た神子は随分と大人しやかに見えるが、ダルガートのような男と屈託なく話しているあたり、実は結構肝の座った男なのだろうか、と思いながら見ていた時、不意に神子が顔を上げて宰相を見た。

「……あの」
「どうなさいましたか、神子殿」

 そう聞き返した宰相に、神子はごくりと唾を飲み込んでから覚悟を決めたように口を開く。

「今回、僕が無事水源を回復できたのはかなり行き当たりばったりで、偶然いい目が出揃ったから、というところが大きかったと思います」
「と、言いますと?」
「つまり僕自身のしたことは最後の一押しだけで、僕が無事戻って来れたのはヤハルや他の騎士たちと宰相様が手配して下さったアスール神官の根回しがあったからこそと、何より僕の知らないところで動いてくれていたダルガートのお陰だったと思います」
「……ほう」

 宰相の目がほんのわずかに細く、鋭くなった。

「ダルガートが出発前に言っていたのは、僕はとにかく身軽な恰好で、騎乗を許されていない近従は連れて行かず、そして同行する者は騎馬に優れ特に秘密が守れる者を、ということでした。今になって思えば全部、向こうで起こりうる事態を予測してそう言ったんだと思います」

 以前の遠慮しがちでおっかなびっくりカハルに話していた者とは思えぬほどのまっすぐな眼差しで、神子は言った。

「確かに、何も言ってくれないしなんでも突然すぎるから、こっちは少し不安になったり思うこともあるかもしれませんが、ダルガートは絶対に信頼できる相手だと僕は確信しています」

 宰相は神子の言葉を聞いてしばらく黙っていたが、やがて一つ頷いて「深く、心に留めおくことといたします」と答えた。

 二人が謁見の間を出て行くと、カハルは宰相サルジュリークを見てニヤリと笑った。

「見事、神子殿に一本獲られたのう」
「左様にございますね」

 そう答えるサルジュリークの顔は相変わらず涼し気で、カハルは少しばかり拍子抜けする。するとちら、とカハルを横目に見てサルジュリークが言った。

「わたくしとてダルガートの全てを否定しているわけではありませぬ。彼の実力と意志の強さは充分認めておりまする」
「やつならあの領主の不正をも暴くと思ったから神子殿につけたわけだしのう」

 半ば当てずっぽうでカハルが言うと、サルジュリークはあっさりと頷いた。

「なんじゃ、本当にそうだったのか」
「東の辺境はいささか遠く、こちらから下手に動けば証拠も何もかも隠してこちらの詮議にもしらを切り、結局は水掛け論に陥ったことでしょう。それを向こうから来て欲しいと言い出したのですから、まことによい機会であったかと」
「相変わらず食えぬ男だの。かわいそうに、神子殿はそなたとダルガートに挟まれて非情に居心地悪げにしておったのではないか?」
「……ですが、神子殿のお心の内はすでにお決まりになったようで」

 サルジュリークはしれっと答えると、今度はすぐに話をすり替えてくる。

「時に陛下、これを機に東の国境の守りはその土地の領主に任せるのではなく、帝都より騎兵を遣わすこともお考えになってはいかがでございましょうか」
「すでに其方の頭の中にはそのための人選から諸費用に関する差配までの絵図ができておるのだろう」

 カハルは呆れた思いでそう答える。

「宰相よ。ちなみにその話はダルガートには伝えておったのか」
「いいえ、何も」

 にべもない答えにカハルは「相変わらずじゃのう、おぬしは」とため息をついた。

「……のう、サルジュリーク」

 名前で彼を呼ぶと、改まって彼がこちらに向き直る。カハルは身を乗り出すように身体を折り曲げると、サルジュリークの目を見て言った。

「そなたがダルガートを警戒する気持ちはわかる。だがの、あれの目は確かに厳しく容赦ないが、その分誰よりも公明正大だ。おのれの主君であろうが誰であろうが、あれの判断と決断を左右する理由にはならぬほどにのう」
「……っ、だからこそ……」
「あれが儂を試したければ試せばいいのだ」

 カハルはニヤリと笑って言う。

「あやつが儂をアル・ハダールの王としての器に足りぬと思うのであればそれでいい。結局、ダルガートが取るのはこの国にとっての利のみ。あれに見放されたとしたら、所詮、儂もそれまでの男だったということよ」
「陛下……!」
「ほれ、その堅さがいかん。もっと肩の力を抜け。そうでなければ見るべきものを見落とすぞ」
「…………御意」

 カハルはもう一度目を細めると、再び背もたれに身体を預けて言った。

「東に関しては二弟サファルの領分だ。まずは彼に話を通して協力を煽げ。さすればサファルが、中央の騎士を領内へ入れることへの領主どもの反発を押さえてくれよう」
「畏まりまして」

 そう言ってサルジュリークが優雅に腰を折った。

「……一つ、気がかりがある」

 しばしの思案の後にカハルが言うと、サルジュリークが顔を上げる。

「儂はこれまでアル・ハダールの国内のほとんどを駆け回ったという自負がある」
「左様にございますな」
「だがこれまで東の国境へ行こうと思ったことは一度もなかった。これはなぜだと思うか」

 するとサルジュリークは珍しく驚いたように瞬きをしてカハルを見た。そして少しためらうようにして口を開く。

「…………実は、わたくしもこれまでアーケル領が長年租税カタールを納めておらぬことを知っていたはずなのに、なぜかその原因を調べ手をうとうと思いつかなかったのか、我がことながら些か不思議に思っておりまする」
「なんじゃ、そなたもか」

 呆れたように言い返しながらも、カハルはますますわからなくなる。

「……なぜ我ら二人とも、いや、租税を扱う官僚たちも皆、これまで一人としてアーケル領に関心を持たなかったのか……」

 するとサルジュリークがふと、いつになくぼんやりとした顔で呟いた。

「……まるで、あの土地自体が見えない何かで目隠しをされていたようですね」
「ふむ。言い得て妙だの」

 だがそんな不可思議な例えでは到底説明のつくことではない。カハルは首を傾げながら、つい先程まで神子とダルガートがいた場所をじっと見下ろした。
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