月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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【第二部】東の国アル・ハダール

92 恵みの雨

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「み、神子よ……!」
「神子様! お待ちくださいませ、神子様……ッ!」

 慌てたようにナルド神官たちが追い縋ってくるけど、毎日騎士団の訓練場であの虎髭のカーディム将軍に追いかけ回されながらも無事生き残った僕がこんなところで捕まるはずがない。

 途中びっくりしてる傍仕えの人や下級神官たちには目もくれず、僕は神殿の正面から外に飛び出した。するとほら、やっぱりね。ダルガートと今ここにいなかった二人の騎士がすでに荷物をくくりつけた馬を引き連れて僕たちを待っていた。

「ダルガート!」
「さあ、お早く」

 ダルガートが僕に手綱を渡してくれる。丸一か月以上、毎日馬に乗って鍛錬もしてきた僕は手助けなしに鞍に飛び乗って手綱を握り、間髪入れずに走り出した。
 ずっと後ろの方からまだナルド神官たちの声が聞こえてくるような気がしたけど、僕は振り向かなかった。

「よろしいのですか、神子よ!」

 アスール神官が後ろから叫んでる。

「もちろん!」

 だって僕が責任を負うべきなのはこの国で水不足に困ってる人や動物たちに対してであって、神殿自体に恩も義理もない。

 前にダーヒル神殿で、サイードさんとダルガートが僕に言ってくれた。
 全ては天が僕に与えられた力だ。好きに使えばいい。僕は僕のままでいればいい、って。
 それはきっとこういうことなんだ、って少しずつわかってきた気がする。

 どこまでも続く、ひたすら広くて乾いた白い大地。
 僕が日本で見慣れていた緑の木々や草や色とりどりの花なんてどこにも見当たらない。これがアル・ハダールなんだ。
 きっとこんな不毛の地がまだまだたくさんこの国にはある。でももしかしたら、僕がこの乾ききった大地をもっと豊かで人も動物も生きやすい場所に変えられるかもしれない。

 見果てぬ蒼天にたなびく白い雲の下で、馬が力強く大地を蹴り、駆けていくリズムが僕の全身に伝わって来る。

「ダルガート! ヤハル! すごい、気持ちいい!」 

 真向いから吹き付ける風が髪や被り布シュマグをなぶる。
 帝都のある西に向かって全力で馬を走らせながら、僕はダーヒル神殿領から帝都イスマーンへ来る途中にサイードさんと過ごした時を思い出していた。

 ここと同じように乾いた土地で山羊や羊を飼い細々と暮らしていたおじいさんたち一家の幕家に泊めて貰った時、そのお礼にみんなでその家畜の世話を手伝ったことがある。
 ヤハルが悪戯好きの羊たちに尻を押されて妙なところに連れていかれたり、伊達男のアキークは山羊の糞を片付ける時でさえ妙に優雅だった。
 そしてサイードさんは、普段はしない家畜の世話に戸惑い気味の他の騎士たちと違って、慣れた手つきで山羊の乳を搾ったり口笛一つで歩かせたりしていた。

――――昔、飼っていたからな。

 サイードさんは言葉少なに、そう教えてくれた。
 僕と同じくらいの歳の頃に一族を失ったというサイードさんの、昔の良い思い出だったんだろう。そう答えてくれた時のサイードさんはとても穏やかないい顔をしていたのをはっきりと覚えている。

 牧草ってどうやったら早くたくさん生えてくるんだろう、という僕の疑問に対するサイードさんの答えはものすごく簡単だった。

――――雨が降って日が照って、しばらく羊や馬を入れなければ生えてくる。

 あまりにも簡潔で単純な答えを思い出して、つい笑ってしまう。そのシンプルさがいかにもサイードさんらしいなぁ、なんて思いながら、ふと自分の中で何かがカチッとはまったような感覚を覚えた。
 何か、それと同じようなことが最近あったような気がする。
 ああ、そうだ。あれだ。あのジャイロスコープもどき。

 神殿の奥にあった謎の球体の中にあった、銀色に光る金属でできたいくつもの輪。そう、あれが何か上手くぴったりと合わさった時に、こんな風にカチッ、って。

「……あの光は一体なんだったんだろう」

 馬を走らせながら思わずそう呟くと、いつの間にか隣にきていたダルガートが僕を見る。それに「なんでもない」と首を振ってもう一度前を見た。
 うん。よくわからないけど、今ならできる気がする。まるで何かのスイッチが入ったみたいに。

 ダーヒル神殿の砂漠でエイレケのアダンと対決した時に、大事なのは僕自身が頭に思い浮かべるイメージの鮮明さ、それができると信じる心の強さだと知った。
 なら、今ならやっぱりできるんじゃない?

 知らず、僕の顔に満面の笑みが浮かぶ。
 これだけ気持ちよく馬を走らせることができるのは、僕がこの一か月ずっと努力してきたからだ。
 あの神官たちにこれ以上気圧されずにひらりとかわせたのも、少しは僕自身が成長できてるってことだと思いたい。

 今、サイードさんはあの山羊や羊を飼っていたおじいさんたちのいる辺りへ行っている。
 あの寒くて乾いた土地にも、少しは緑が増えているといい。

「ダルガート! そういえばあの領主さんとか神殿長まで放ったからしにしてきちゃったけどいいのかな!?」
「まったく問題ござらん」
「そう? ならいいや!」

 多分今回の件でダルガートは僕の知らないところですごくたくさんフォローしてくれてたんだと思う。その彼が問題ないって言ってるんだからあのいけすかない領主のことはもういい。

 それにしても「まったく」って言いきっちゃうところが面白いなぁ、なんて思いながら僕はお腹の奥に力を入れて神経を研ぎ澄まし、頬をなぶる風の温度や馬が蹴る地面の硬さや空気の匂いを感じ取る。
 この際理屈はもうどうでもいい。
 この大地に、この世界に神子の力とやらが満ちていく。その時、なぜか脳裏に高い塀で囲まれた一つの箱庭のような世界が見えた。

 そうか、これか。

 突然そう思う。
 なんだ、これくらいなら簡単だ。この壁の中に息を吹き込み、命を与えるだけでいい。そのためのリソースは・・・・・・・・・・すでにもう持っている・・・・・・・・・・

 ぽつり、と水滴が頬に当たった。それは一粒、二粒と数を増していき、やがて暖かな雨となって降り注いでくる。

「これは……まさか本当に……?」

 後ろの方から誰かが呟く声が聞こえた。これはアスール神官の声かな。神官なのに『慈雨の神子』の力に驚くなんてね。
 一心不乱に帝都目指して走りながらも、雨があまりどしゃぶりにはならないように意識する。そう、あたたかくてやわらかな雨。あのエルミランの山頂で僕が願った通りの雨を降らせるんだ。

「ダルガート!」

 僕が呼ぶと、あの黒い目がすぐに僕の方に向く。

「僕、また馬でどこかに行きたいなぁ! サイードさんも一緒にさ!」
「左様にございますな」
「ね!」

 そんなことを言いながら僕たちは雨の降る東の辺境を駆け抜けて行った。


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