月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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【第二部】東の国アル・ハダール

89 苛立ちと衝動

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 このアーケルの領主だという男は、突き出た腹を揺らしながら笑って言った。

「御覧の通り我が領地は飢え土地も乾いており、わが館へ神子殿にご来駕頂きましてもなんのおもてなしもできず。それゆえせめてもの償いに儂の方からこちらへ参った次第。どうぞ我が領地をお救い頂きたく、重ねてお願い申し上げる」
「……全力を尽くします」

 やっぱりなんか嫌だな、この人。
 確かにこの人が「飢えてる」という通り、ここまで来る途中で見た土地は本当に牧草や草木も全然見当たらなかったし、神殿勤めの人たちもみんなすごく細くて痩せている。その癖このエダルという領主だけは妙に太ってるし、なんか肌もツヤツヤ……というか油分過多って感じなのがなんだかひどく違和感を感じる。
 それにこの目。目が嫌だ。言葉だけは本当に丁寧だけど。

 そんなことを思っていると、今後は神殿長の方が僕に向かって頭を下げた。

「まことにエダル様のおっしゃる通り……。このような有様では神子様のお世話もままならず、お恥ずかしい限りにございます」
「いえ、そんな……」

 別に遊びに来たんじゃないんだからそれは別にいいんだけど……。
 すると神殿長がスッと目を細めて言った。

「御存知の通り、こちらには恐ろしき東の蛮族どもが度々襲来し、このアーケルを蹂躙しておりまする。万が一神子様に何かありましては、と、わたくしとしてもそればかりが気がかりでありま……」
「確かに、それは由々しき事態でありますな」

 突然、神殿の入口の方から鋭く響いた太い声に、僕だけでなく領主と神殿長もビクッと肩を揺らす。

「……ダルガート」

 それは、しばらく席を外してどこかへ行っていたらしいダルガートだった。領主や神殿長に囲まれてなんとなく嫌な気分になっていた僕は、彼の顔を見ただけで心がスッとする。まさかダルガートの鉄面皮を見て気分がスッキリする日が来るとは思いもしなかった。

 ダルガートはいつもの感情の読めない黒い目を領主へ向けると、騎士の礼を取る。あっ、そうか! ダルガートの方がはるかにふてぶてしい雰囲気だけど身分的には領主の方が上なんだね!? 
 今頃気づいた新事実に密かに驚いていると、ダルガートが冷ややかな声で言った。

「度重なる東夷の侵入により民が渇水だけでなく外患にまで晒されていること、そして毎年の租税カタールが滞っていることを、皇帝ハリファカハルは非情に憂慮しておられる。こちらへいる間、もし外敵の侵入あらば我らも討って出向きましょう。そのためにも国境警備の者や領兵たちと狼煙の合図など確認しておきたく存じまするが」
「いや、それは無用だ」

 妙に慌てた口調で領主が言った。

「其方らが国境へ出向けば神子殿の守りが薄くなる。帝都の皇帝ハリファよりお預かりしておる大事な神子殿を、万が一にも危うい目に合わせるわけには参らぬ。のう、神殿長よ」
「いかにも。領主殿のおっしゃる通りにございまする」

 そう二人で頷き合うと「それでは」と言って足早に去って行ってしまった。
 ……なんだろう、この違和感は。っていうか「それでは」の一言でもう行っちゃうんだ。大事なことまだ全然話し合ってないと思うんだけど。

 大勢でわざわざ帝都までやって来てあの宰相さんのお膝元である政堂にまで駆け込んで大騒ぎしていたナルド神官たちと比べて、やけに態度があっさりしすぎているのがすごく気に掛かる。
 結局、その日領主と神殿長とはそれっきりだった。
 夜になり、ダルガートはナルド神官たちからの夜の食事の誘いを断ったので、僕たちだけで部屋で軽い夕飯をとった。
 パンとチーズと干し肉だけの質素な食事だったけど、ようやくホッと一息つけた心地がした。


     ◇   ◇   ◇


「なんかものすごく違和感を感じるのは僕だけかな」

 夜、僕に与えられた部屋で寝る支度をしながら思わずダルガートにそう愚痴ると、ダルガートは「左様にございまするな」とものすごくあっさり同意した。
 すると僕の荷物を戸棚にしまっていてくれたヤハルも少しばかり憤慨したように口を挟む。

「大体、神子殿に対してあのように神殿の廊下で立ち話をするだけで済ませること自体不敬かと」
「うーん、まあそれは別にいいんだけど……。そういえば領主の人って別に住んでるところがあるんだよね? そこに僕を呼ぶんじゃなくてわざわざこっちまで来てくれたってのは一応気を遣ってくれてるってことなのかな」

 僕がそう呟くと、ヤハルが今度こそ怒った顔で言った。

「いいえ。仮にも皇帝ハリファよりこの地を預かる領主ならば、馬車の一つも用意しておのれの館に神子殿をお迎えし誠心誠意もてなすのが当然のことでございます。それをしないのはこちらを侮っているか、金を惜しむよほどの吝嗇家か、もしくは……」
「我らに館に来られてはまずいことがあるか、のどちらかですな」

 と、ダルガートが言う。そしてヤハルに向かって頷いた。するとヤハルが胸に拳を当てて礼をとり、僕に言う。

「それでは、私は扉の前で護衛つかまつります。神子殿、どうか心安らかにお休みくださいませ」
「ありがとう、ヤハル」

 そして扉から出ていく彼の背中を見送ってから、僕はダルガートを見上げた。

「ええと……他の人たちは……」
「全員、隣の続き部屋に」
「そう……」

 僕と二人きりになると、ダルガートは僕の身体を湯で絞った布で拭いて夜着に着替える手伝いをしてくれた。まあ、着替えぐらい一人でできるんだけど、出発前にウルドに「自分たちが責任をもって世話をする」って言ってたのを守ってくれてるんだろうな。意外に律儀なところがあるんだな、と密かに感心する。

「そういえばダルガートはさっきどこに行ってたの?」
「他の二人の騎士とともに辺り一帯を哨戒に」
「そう……で、どうだった?」

 僕が寝台に腰掛けて尋ねると、ダルガートは足元に跪いて足を拭きながら答えてくれた。

「確かに、誇張なく土地の乾き具合はかなり酷うございますな。近くの村々も厩に馬なく、囲いに山羊や羊も数えるほどしか」
「そう……。じゃあやっぱり一刻も早く何か手立てを考えないといけないってことだね……」

 この神殿の地下を見た時に聞いたナルド神官の話では、この地方には元から川や池や湖はなく、地下から染みだしてくる水を井戸やカナートに貯めて汲み上げていたようだ。
 神殿の地下のカナートだけならこの前オアシスでやったみたいに元からある地下水脈を使って水を引き寄せる的なことができるかもしれないけど、そこまで土地が干上がってる状態なら一番手っ取り早い解決方法は……やっぱり雨かなぁ……。

 そうだよ。地下水脈の復活と同時進行で雨も降らせることができたらいいんだけどな。実際エルミランや、サイードさんと蒸し風呂ハマームにいた時に雨を呼ぶことはできたんだし、なんとかもう一度それを……、と思ったところでハッと気が付いた。
 …………あの時雨が降ったのって、僕が泣いたからだよな……それも悲しいとか辛いとかそういう涙じゃなくて……。

「いかがなされた、神子よ」
「う、えっ!?」

 多分、いつもの赤面症で真っ赤になって俯いていた僕を、ダルガートが跪いたままあの黒い目で見上げている。あ、僕の方がダルガートを見下ろしてるのって珍しいな。いっつもダルガートの顔はすごく上の方にあるから。
 寝台に腰掛けた僕のものすごく近くに、いつも僕を翻弄して止まないダルガートの峻厳な顔と大きな身体がある。そして今、帝都を旅だってから初めて彼と二人きりでいるのだと、ふと気が付いてしまった。

「…………え、ええと……その……」

 どうしよう。気づいてしまうと、どうしても強く意識してしまう。
 触りたい。なんか急にダルガートの無骨な鼻とか頬骨とか額とか意外に厚くて肉感的な唇とかに触ってみたくなってしまった。マズイよ、だってこんな深刻な時に、そんな。
 なんていう理性はどこに消えたのか、手が勝手に動いてしまっていた。うっすらと傷跡のようなものが残ってる頬に恐る恐る触れると、ダルガートの黒い目が微かに反応する。
 驚いてるのかな、それとも呆れてる? でも誘惑に耐えきれずにそのまま指を滑らせて、そっとダルガート唇を撫でてしまった。

 ヤバイ、心臓がバクバクいってる。さっきダルガートに着せられたばかりの夜着が肌に纏わりつく感触や、ウルドに比べると随分と無造作に結ばれた腰紐がお腹を縛ってる感覚がひどく身体を刺激する。
 駄目だよ、こんな時に、それに隣には他の騎士や中央神殿から来てくれたアスール神官や、扉の前にはヤハルが立っていて、それに。
 でも頭のどこかに別の言葉が浮かんでくる。
 もしもあの時みたいにそういうコト・・・・・・をしたら、ここでも雨を降らせることができるかも……?

「神子?」

 ダルガートの深く、低い声がぞくん、と僕のあの場所を刺激する。だって、この声を、あの指の、唇の感触を、僕はもう知ってしまっているから。
 ああ、ヤバイヤバイ、ヤバイヤバイ……ッ!
 思わず目を反らして両足をぎゅっと閉じたのに目敏く気づかれる。ダルガートは不意に手を伸ばすと、僕の膝に手を置いて下から覗き込んできた。

「……何か思うところがおありなら、いくらでも私に望まれよ」
「…………っ!」

 ダルガートの黒い目の奥にかすかに揺らめく熾火が見える。それは夜、この強くて逞しい腕に抱かれている時にだけ見れる、ダルガートの奥深くに隠された情熱の欠片だ。
 もうだめだ、一瞬で僕の下腹の奥深くにカッと熱が灯り、そのことしか考えられなくなる。

「…………ぎゅって、抱きしめて欲しい…………」

 するとダルガートは微かに口角を上げると、下からすくい上げるように僕を抱きしめてくれた。
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