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【第二部】東の国アル・ハダール
86 出発の準備
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それからの準備はとても早かった。というのも宰相さんの言葉通りにダルガートがやって来てガンガン指示を飛ばして支度を整えてくれたからだ。
「ウルド。三十日間の旅程を目途に神子殿のお支度を。祭祀のための衣装はいらぬ。簡素で動きやすく、だが質の良さがひと目でわかるものを揃えよ」
ウルドが拝跪してすぐに動き出す。
「ヤハルはこちらに残っている部隊の中から最も足が速く、口の堅い者を選べ」
「足?」
走るのが速い人がいいの? と思わず首を傾げると、ヤハルが「騎馬に長けた者、という意味にございます」と教えてくれた。
ヤハルが急いで部屋を出て行くと、ダルガートは傍仕えにお茶を持ってくるように言ってから僕を座らせた。
「東の国境近くのアーケルまで、帝都より騎馬にて早くとも十日掛かりまする。野営にはすでに慣れておられますな」
「大丈夫」
だってこのイスマーンに着くまで四十日も旅してきたんだからね。
「此度の目的は、アーケルの神殿へと行かれ、そこで渇水の原因を探りこれを安堵せしむる。相違ござらぬか」
「ないよ。ダルガートは宰相さんから他に何か聞いてる?」
するとダルガートはなんとも不敵な笑みを浮かべた。
「サイード殿に代わって神子殿をお守りし、必ずや神子殿をこの帝都へ無事連れて戻るように、とだけ」
「そうか……、わかった。よろしくね」
正直、向こうに行ったからといって必ず水問題を解決できる自信があるわけじゃない。でもこれだけは僕がやらなきゃいけない仕事だ。
「神子殿」
ダルガートが僕を見ている。その目が僕の内心の不安だとかそういうものを全部見透かしてるみたいでちょっとドキッとした。
「神子殿は、宰相殿よりかの地についてどのように?」
「ええと、国境に近くて異民族の侵入が多くて危険だ、とだけ」
それからサイードさんと違って、ダルガートは信用できない、って言っていた。でももちろんそんなことはダルガートには言えないし、僕だって口にしたくない。
ダルガートは宰相さんが考えているような人じゃない。あの時そうきっぱり言えなかったことがひどく心に重く圧し掛かってる。
最初は宰相さんの言葉の強さがものすごくショックで、それで何も言えなかった。でも部屋に戻って少し落ち着いてからは気持ちの上では宰相さんに腹を立てつつ、頭のごく一部は『その言い分もわからなくはない』と思ってしまった。
僕が初めてダルガートに会ったばかりの頃に強く思ってた『何を考えているかわからない怖さ』みたいなのを、宰相さんはずっと感じているんじゃないだろうか。
僕はダルガートの昔のことを聞いても、すごく単純に『暴君を倒して賢王を迎え入れた、先見の明とそれができる実力があった人』って、まるで英雄みたいに思ってた。
でも騎士っていうのは主君に忠誠を誓った人のことだ。つまりそれを裏切ったってことは大事な約束や契約を破ったってことで、それを宰相さんが責める理屈もわからなくはない。
かといって王様のせいで国や民たちが苦しんでるのに、誓いを守るためにずっと黙って仕え続けるっていうのも絶対に違うと思うんだけどなぁ……。
この世界に来てもう数か月が経つけれど、僕の判断基準はどうしたって平和な現代日本の感覚で、こういう乱世とか封建社会とか、そういう世界での理というものがわからない。多分、それはこの先もずっと僕の引け目になるんじゃないだろうか。
そんなことを考えて思わず俯いてしまっていたら、不意に伸びてきた大きな手が僕の顔を掬い上げた。
「ダルガート……?」
こんな風にダルガートの方から触れてくることは酷く珍しい。だからちょっと驚いて瞬きをする。そう、サイードさんはよくこんな風に僕に触れて不安を宥めてくれたな。
サイードさんは不穏な空気漂う西の辺境に行っている。大丈夫だろうか。そこらのやつなんかに負けたりしないってわかってはいるけれど。
僕は精一杯元気そうに見えるように、ニッと笑ってみせる。だって他にも傍仕えの人たちがウロウロしてる場所でこれ以上ダルガートに甘えるわけにはいかないからね。
するとダルガートにもそれが伝わったのか、手を離して言った。
「明日の早朝、お迎えに参る。今宵はゆっくりと休まれるよう」
「わかった。ダルガートもね」
「それと、ウルドはここに置いていきまする」
と、ダルガートが言うと、後ろで持って行く荷物を運んでいたウルドがピタリ、と足を止めた。
「神子殿には私とヤハルがお仕えいたす。神子殿にもご承知置き下さるよう」
「え……それはいいけど……」
っていうか普通は近従も連れて行くものなのかな? そこらへんからしてよくわからなくて、言われるままに頷く。
そして立ち上がって部屋を出ていったダルガートに深々と頭を下げたウルドの顔は、少しばかり曇っていた。
「ウルド、大丈夫?」
「はい。問題ございませぬ」
慌てたようにウルドが微笑んで答える。でもやっぱり気になって僕はウルドを手招きすると、もう一度尋ねてみた。
「こういう場合、普通はウルドも一緒に来るものなの?」
「……今回は、神子様は『慈雨の神子』としてのお勤めを果たしに神殿へ行かれるのだと聞いております。特にお忍びでもない限り、貴人が近従を連れて行くのは当然のこと。ですが……あのお方には何かお考えがあるのでございましょう」
いつも頼れるお兄さんって雰囲気のウルドの顔が少しだけ曇っている。するとこっちまでなんだか落ち着かない気分になってきた。
もしかしたらウルドもダルガート独特のあのちょっと怖い雰囲気みたいなのを感じてるんだろうか。
僕は今まで、サイードさんとダルガートの言うことを疑ったことはなかった。でもなんだかウルドの言葉と、そしてさっき宰相さんが言っていた言葉がひどく僕を不安にさせる。
三人で遠駆けに行って見つけたオアシスの聖廟で、突然サイードさんが見せた奇妙な表情。まるで感情が全部抜け落ちた人形やロボットみたいな目を思い出して、腹の底がゾクッと冷える。
そして宰相さんが言っていた言葉。
――――彼自身がその気になりさえすれば、反逆などという騎士として最も恥ずべき大罪さえ平気で犯してしまう。
いいや、そんなことない。僕はぐっと唇を噛みしめて否定する。
確かにダルガートは自分の意思を貫き通す力がすごく強いんだとは思う。それに確かに腹の底が読めないというか、感情が表になかなか出てこない怖さみたいなのはある。
でも彼は絶対、自分の信条に背くような曲がったことはしない。それだけは確信がある。
ダルガートは僕を『我が喜びよ』って言ってくれた。僕は宰相さんの言ったことよりも、ダルガート自身の言葉を信じたいんだ。
「大丈夫だよ、ウルド」
僕は咄嗟にウルドの手を握ってそう言った。
「確かに僕にも詳しいことはわかんないけど、ダルガートは絶対に僕の味方で、僕を守ってくれるから」
大事な馬を自分の手で殺さなきゃならなかったサイードさんが、帝都について僕が寝てる間にダルガートに会って話をして、そしたら前みたいに笑うようになった。
僕じゃどうしていいかわからなかったサイードさんの悲しさとか苦しさを、ダルガートが癒してくれたんだと思う。そんな人が信用できないはずがないじゃないか。
そう思ってぎゅって握った手に力を籠めると、ウルドが小さく笑って頷いてくれた。
「ウルド。三十日間の旅程を目途に神子殿のお支度を。祭祀のための衣装はいらぬ。簡素で動きやすく、だが質の良さがひと目でわかるものを揃えよ」
ウルドが拝跪してすぐに動き出す。
「ヤハルはこちらに残っている部隊の中から最も足が速く、口の堅い者を選べ」
「足?」
走るのが速い人がいいの? と思わず首を傾げると、ヤハルが「騎馬に長けた者、という意味にございます」と教えてくれた。
ヤハルが急いで部屋を出て行くと、ダルガートは傍仕えにお茶を持ってくるように言ってから僕を座らせた。
「東の国境近くのアーケルまで、帝都より騎馬にて早くとも十日掛かりまする。野営にはすでに慣れておられますな」
「大丈夫」
だってこのイスマーンに着くまで四十日も旅してきたんだからね。
「此度の目的は、アーケルの神殿へと行かれ、そこで渇水の原因を探りこれを安堵せしむる。相違ござらぬか」
「ないよ。ダルガートは宰相さんから他に何か聞いてる?」
するとダルガートはなんとも不敵な笑みを浮かべた。
「サイード殿に代わって神子殿をお守りし、必ずや神子殿をこの帝都へ無事連れて戻るように、とだけ」
「そうか……、わかった。よろしくね」
正直、向こうに行ったからといって必ず水問題を解決できる自信があるわけじゃない。でもこれだけは僕がやらなきゃいけない仕事だ。
「神子殿」
ダルガートが僕を見ている。その目が僕の内心の不安だとかそういうものを全部見透かしてるみたいでちょっとドキッとした。
「神子殿は、宰相殿よりかの地についてどのように?」
「ええと、国境に近くて異民族の侵入が多くて危険だ、とだけ」
それからサイードさんと違って、ダルガートは信用できない、って言っていた。でももちろんそんなことはダルガートには言えないし、僕だって口にしたくない。
ダルガートは宰相さんが考えているような人じゃない。あの時そうきっぱり言えなかったことがひどく心に重く圧し掛かってる。
最初は宰相さんの言葉の強さがものすごくショックで、それで何も言えなかった。でも部屋に戻って少し落ち着いてからは気持ちの上では宰相さんに腹を立てつつ、頭のごく一部は『その言い分もわからなくはない』と思ってしまった。
僕が初めてダルガートに会ったばかりの頃に強く思ってた『何を考えているかわからない怖さ』みたいなのを、宰相さんはずっと感じているんじゃないだろうか。
僕はダルガートの昔のことを聞いても、すごく単純に『暴君を倒して賢王を迎え入れた、先見の明とそれができる実力があった人』って、まるで英雄みたいに思ってた。
でも騎士っていうのは主君に忠誠を誓った人のことだ。つまりそれを裏切ったってことは大事な約束や契約を破ったってことで、それを宰相さんが責める理屈もわからなくはない。
かといって王様のせいで国や民たちが苦しんでるのに、誓いを守るためにずっと黙って仕え続けるっていうのも絶対に違うと思うんだけどなぁ……。
この世界に来てもう数か月が経つけれど、僕の判断基準はどうしたって平和な現代日本の感覚で、こういう乱世とか封建社会とか、そういう世界での理というものがわからない。多分、それはこの先もずっと僕の引け目になるんじゃないだろうか。
そんなことを考えて思わず俯いてしまっていたら、不意に伸びてきた大きな手が僕の顔を掬い上げた。
「ダルガート……?」
こんな風にダルガートの方から触れてくることは酷く珍しい。だからちょっと驚いて瞬きをする。そう、サイードさんはよくこんな風に僕に触れて不安を宥めてくれたな。
サイードさんは不穏な空気漂う西の辺境に行っている。大丈夫だろうか。そこらのやつなんかに負けたりしないってわかってはいるけれど。
僕は精一杯元気そうに見えるように、ニッと笑ってみせる。だって他にも傍仕えの人たちがウロウロしてる場所でこれ以上ダルガートに甘えるわけにはいかないからね。
するとダルガートにもそれが伝わったのか、手を離して言った。
「明日の早朝、お迎えに参る。今宵はゆっくりと休まれるよう」
「わかった。ダルガートもね」
「それと、ウルドはここに置いていきまする」
と、ダルガートが言うと、後ろで持って行く荷物を運んでいたウルドがピタリ、と足を止めた。
「神子殿には私とヤハルがお仕えいたす。神子殿にもご承知置き下さるよう」
「え……それはいいけど……」
っていうか普通は近従も連れて行くものなのかな? そこらへんからしてよくわからなくて、言われるままに頷く。
そして立ち上がって部屋を出ていったダルガートに深々と頭を下げたウルドの顔は、少しばかり曇っていた。
「ウルド、大丈夫?」
「はい。問題ございませぬ」
慌てたようにウルドが微笑んで答える。でもやっぱり気になって僕はウルドを手招きすると、もう一度尋ねてみた。
「こういう場合、普通はウルドも一緒に来るものなの?」
「……今回は、神子様は『慈雨の神子』としてのお勤めを果たしに神殿へ行かれるのだと聞いております。特にお忍びでもない限り、貴人が近従を連れて行くのは当然のこと。ですが……あのお方には何かお考えがあるのでございましょう」
いつも頼れるお兄さんって雰囲気のウルドの顔が少しだけ曇っている。するとこっちまでなんだか落ち着かない気分になってきた。
もしかしたらウルドもダルガート独特のあのちょっと怖い雰囲気みたいなのを感じてるんだろうか。
僕は今まで、サイードさんとダルガートの言うことを疑ったことはなかった。でもなんだかウルドの言葉と、そしてさっき宰相さんが言っていた言葉がひどく僕を不安にさせる。
三人で遠駆けに行って見つけたオアシスの聖廟で、突然サイードさんが見せた奇妙な表情。まるで感情が全部抜け落ちた人形やロボットみたいな目を思い出して、腹の底がゾクッと冷える。
そして宰相さんが言っていた言葉。
――――彼自身がその気になりさえすれば、反逆などという騎士として最も恥ずべき大罪さえ平気で犯してしまう。
いいや、そんなことない。僕はぐっと唇を噛みしめて否定する。
確かにダルガートは自分の意思を貫き通す力がすごく強いんだとは思う。それに確かに腹の底が読めないというか、感情が表になかなか出てこない怖さみたいなのはある。
でも彼は絶対、自分の信条に背くような曲がったことはしない。それだけは確信がある。
ダルガートは僕を『我が喜びよ』って言ってくれた。僕は宰相さんの言ったことよりも、ダルガート自身の言葉を信じたいんだ。
「大丈夫だよ、ウルド」
僕は咄嗟にウルドの手を握ってそう言った。
「確かに僕にも詳しいことはわかんないけど、ダルガートは絶対に僕の味方で、僕を守ってくれるから」
大事な馬を自分の手で殺さなきゃならなかったサイードさんが、帝都について僕が寝てる間にダルガートに会って話をして、そしたら前みたいに笑うようになった。
僕じゃどうしていいかわからなかったサイードさんの悲しさとか苦しさを、ダルガートが癒してくれたんだと思う。そんな人が信用できないはずがないじゃないか。
そう思ってぎゅって握った手に力を籠めると、ウルドが小さく笑って頷いてくれた。
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