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【第二部】東の国アル・ハダール
80 戻る場所
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元居た場所に戻るとダルガートが荷物を片付けてそれぞれの馬に積んでいてくれた。そして振り返って僕の顔を見た途端、太い眉をひそめる。
「……いかがなされた」
そう聞かれてさっきの恐ろしさの反動のせいか、ぶわっと感情が溢れそうになった。
「あ、あのさ……っ」
そう言いかけて、ふと思う。
もしも、もしもさっきのことを話してダルガートまであんな風になってしまったら? そんな不安がよぎって思わず立ちすくむ。
顔も形も立っている姿も間違いなくサイードさんなのに、何も映さない、底なしの虚ろのような黒い瞳が僕を見ていた、あの時の恐怖。
もしもダルガートにまであんな目で見られたら、僕は――――
「カイ?」
いぶかしげな声がしてハッと我に返る。そしてまだサイードさんの手を握ったままだったことに気づいた。
「だ、大丈夫。なんでもないです」
そう言って笑って見せる。そしてできるだけ普通に、そっと手を放した。
何か聞かれるのが怖くて、僕は急いでもう一度水辺へと歩いて行く。そうそう、このオアシスの水をなんとかしなきゃ。
でも綺麗な水面を見ていても心は落ち着かなくて、ざわざわと不穏な感情がさざ波のように広がっていく。
僕は無理矢理考えを逸らそうとこの湖について考えた。
こういう砂漠や乾燥地帯のオアシスは、日本と違って山に蓄えられた雨水や雪解け水なんかが直接流れ込んでできたものじゃない。地下から自然に水が湧いてくる、いわゆる湧泉というやつだ。
でもここのオアシスの湖はかなりの大きさで、パッと見ではどこから水が湧いているのかはわからない。
どうしよう、どうしたらいいかな。
いつの間にか僕は水際に足を突っ込んでしゃがみ込んでた。そして風が吹くたびに水面に映る波紋に一瞬見蕩れる。
もしかしたら、この湖の地下水源もあのエルミランに続いているんだろうか。
ふと思った途端、あの時あの山であったいろんなことが一気に頭の中に蘇ってきた。
容赦なく叩きつける激しい風と荒れ狂う吹雪。冷え切った身体からさらに体温を奪う冷たい雨。
暗闇の中、後ろから放たれる矢に迫る殺気。
そんな中で最後の最後まで僕を守って、戦って、そして追いかけてきてくれた、僕の大事な、
ぶわり、と堪えていた何かが溢れてきてしまう。ああ、いやだな。目の奥がたまらなく熱い。そうだ、あの時もこんな風に感情が爆発して、僕は一生懸命それを押さえなきゃって必死に我慢してた。
僕は慌てて顔を拭おうとして、でも止めた。
いや、今はこのままでいい。こんな風に気持ちが乱れてる時の方がなんだかすごく無茶なことができそうな気がする。そうだ、例えばあまりにも荒唐無稽で信じられない奇跡を起こしてしまうとか。
僕は両手を広げて水底に差し入れる。綺麗な水。透明で、ひんやりしてて、気持ちがいい。この水は一体どこから来てる?
僕はあの不思議なエルミランの山頂で見た景色を思い出す。あの聖廟で、一人取り残された恐怖と二人に触れられた喜びの一夜を明かし、夜明けとともに外に出て見た信じられないような光景を。
雲は流れ、どこまでも続く蒼天にはキラキラと光が溢れていた。足元に続く山々の向こうに小さく見えた白い神殿と、その向こうに広がる砂漠を僕は一生忘れない。
この砂の大地は全て遥かエルミランに続いていると信じる。だって湧泉といったって、結局はどこかの山の地下水源から溢れてきてるものなんだから。
それなら慈雨の神子がもたらした奇跡の雨を、水の恵みを、僕はもう一度引き寄せることができずはず。
その時、湖の中央のあたりで突然、ごぷっ、と大きな水音がした。同時にうなじの辺りにチリチリといやな感じがする。
不思議だな。最初にこの湖を見た時は水量を増やすなんて無理だと思ってたのに、今は出来ると思ってる。
そうだ、僕は知ってるんだ。
だってこの世界は、僕の、
ああ、ほら見てよ。水が溢れてくる。すごいすごい。今なら僕はどんなことだって出来てしまいそうな気がする。
うなじが焼けつくように熱い。指先から、そう、もっと、もっと――――
その時、突然腕を引っ張り上げられて僕はゆっくりと瞬きをした。ふと気が付くと水面は膝の辺りまで上がっていて、湖の中央から広がるさざ波はさらに勢いを増している。
「神子殿」
「…………ダルガート」
頭が真っ白になってて、何も言えなかった。そんな僕をダルガートは黙って抱き上げて湖から連れ出す。岸辺に立っていたサイードさんが毛布を広げてすっかり濡れてしまっていた僕を包み込んでくれた。
なんだろう、すごく頭が痛い。うなじがピリピリしてひどく気になる。
「帰りたい」
そう呟いて、それから『どこに?』って思った。帰るってどこに? 僕が生まれ育ったあの家にはもう二度と戻れないって言われたのに。
思わず泣きたくなったその時、ダルガートが言った。
「ならば、すぐに」
そして僕をサイードさんに預けると、倒木で塞がれたもう一つの川の方へと歩いて行く。思わず呆然とその後姿を見送ってると、サイードさんが僕を抱いて言った。
「着替えよう。ダルガートがあの川を元通りにしたらすぐにここを発つ」
そして僕を馬の近くで降ろすと、すでに鞍にくくり付けていた荷物から着替えを出してくれた。
ダルガートが戻って来るまでに手早く僕を着替えさせて被り布を巻いてくれたサイードさんの手つきも表情も、そして時々掛けてくれる声も、穏やかで力強いいつものサイードさんだった。
戻ってきたダルガートの冷静で少しも揺らがない黒い目もやっぱりいつもと同じで、ようやく僕は少し安心する。
僕があの大きな黒い馬に乗るのを手伝ってくれながら、ふとダルガートが言った。
「帰りたいと思われた時は、我らの元へ来られよ」
そしてほんの少し口角を上げた。
「我らが貴方の戻る場所だ」
「…………うん。そうだね」
そう言って頷いた。だって本当にそうだもの。
この先何があろうと、今ここで何が起ころうとも、この世界で僕がいたい場所は二人のいるところしかない。
「……イスマーンに戻ろう」
そしてわざとジロリ、とダルガートを見る。
「それからダルガートは僕のとこに来たら二度と黙って寝てないで、ちゃんと起こしてよ」
それを聞いておかしそうに笑ったサイードさんとダルガートに、馬の上から手を伸ばす。そして乱れる気持ちを振り払うように二人の手をぎゅっと握り締めた。
「……いかがなされた」
そう聞かれてさっきの恐ろしさの反動のせいか、ぶわっと感情が溢れそうになった。
「あ、あのさ……っ」
そう言いかけて、ふと思う。
もしも、もしもさっきのことを話してダルガートまであんな風になってしまったら? そんな不安がよぎって思わず立ちすくむ。
顔も形も立っている姿も間違いなくサイードさんなのに、何も映さない、底なしの虚ろのような黒い瞳が僕を見ていた、あの時の恐怖。
もしもダルガートにまであんな目で見られたら、僕は――――
「カイ?」
いぶかしげな声がしてハッと我に返る。そしてまだサイードさんの手を握ったままだったことに気づいた。
「だ、大丈夫。なんでもないです」
そう言って笑って見せる。そしてできるだけ普通に、そっと手を放した。
何か聞かれるのが怖くて、僕は急いでもう一度水辺へと歩いて行く。そうそう、このオアシスの水をなんとかしなきゃ。
でも綺麗な水面を見ていても心は落ち着かなくて、ざわざわと不穏な感情がさざ波のように広がっていく。
僕は無理矢理考えを逸らそうとこの湖について考えた。
こういう砂漠や乾燥地帯のオアシスは、日本と違って山に蓄えられた雨水や雪解け水なんかが直接流れ込んでできたものじゃない。地下から自然に水が湧いてくる、いわゆる湧泉というやつだ。
でもここのオアシスの湖はかなりの大きさで、パッと見ではどこから水が湧いているのかはわからない。
どうしよう、どうしたらいいかな。
いつの間にか僕は水際に足を突っ込んでしゃがみ込んでた。そして風が吹くたびに水面に映る波紋に一瞬見蕩れる。
もしかしたら、この湖の地下水源もあのエルミランに続いているんだろうか。
ふと思った途端、あの時あの山であったいろんなことが一気に頭の中に蘇ってきた。
容赦なく叩きつける激しい風と荒れ狂う吹雪。冷え切った身体からさらに体温を奪う冷たい雨。
暗闇の中、後ろから放たれる矢に迫る殺気。
そんな中で最後の最後まで僕を守って、戦って、そして追いかけてきてくれた、僕の大事な、
ぶわり、と堪えていた何かが溢れてきてしまう。ああ、いやだな。目の奥がたまらなく熱い。そうだ、あの時もこんな風に感情が爆発して、僕は一生懸命それを押さえなきゃって必死に我慢してた。
僕は慌てて顔を拭おうとして、でも止めた。
いや、今はこのままでいい。こんな風に気持ちが乱れてる時の方がなんだかすごく無茶なことができそうな気がする。そうだ、例えばあまりにも荒唐無稽で信じられない奇跡を起こしてしまうとか。
僕は両手を広げて水底に差し入れる。綺麗な水。透明で、ひんやりしてて、気持ちがいい。この水は一体どこから来てる?
僕はあの不思議なエルミランの山頂で見た景色を思い出す。あの聖廟で、一人取り残された恐怖と二人に触れられた喜びの一夜を明かし、夜明けとともに外に出て見た信じられないような光景を。
雲は流れ、どこまでも続く蒼天にはキラキラと光が溢れていた。足元に続く山々の向こうに小さく見えた白い神殿と、その向こうに広がる砂漠を僕は一生忘れない。
この砂の大地は全て遥かエルミランに続いていると信じる。だって湧泉といったって、結局はどこかの山の地下水源から溢れてきてるものなんだから。
それなら慈雨の神子がもたらした奇跡の雨を、水の恵みを、僕はもう一度引き寄せることができずはず。
その時、湖の中央のあたりで突然、ごぷっ、と大きな水音がした。同時にうなじの辺りにチリチリといやな感じがする。
不思議だな。最初にこの湖を見た時は水量を増やすなんて無理だと思ってたのに、今は出来ると思ってる。
そうだ、僕は知ってるんだ。
だってこの世界は、僕の、
ああ、ほら見てよ。水が溢れてくる。すごいすごい。今なら僕はどんなことだって出来てしまいそうな気がする。
うなじが焼けつくように熱い。指先から、そう、もっと、もっと――――
その時、突然腕を引っ張り上げられて僕はゆっくりと瞬きをした。ふと気が付くと水面は膝の辺りまで上がっていて、湖の中央から広がるさざ波はさらに勢いを増している。
「神子殿」
「…………ダルガート」
頭が真っ白になってて、何も言えなかった。そんな僕をダルガートは黙って抱き上げて湖から連れ出す。岸辺に立っていたサイードさんが毛布を広げてすっかり濡れてしまっていた僕を包み込んでくれた。
なんだろう、すごく頭が痛い。うなじがピリピリしてひどく気になる。
「帰りたい」
そう呟いて、それから『どこに?』って思った。帰るってどこに? 僕が生まれ育ったあの家にはもう二度と戻れないって言われたのに。
思わず泣きたくなったその時、ダルガートが言った。
「ならば、すぐに」
そして僕をサイードさんに預けると、倒木で塞がれたもう一つの川の方へと歩いて行く。思わず呆然とその後姿を見送ってると、サイードさんが僕を抱いて言った。
「着替えよう。ダルガートがあの川を元通りにしたらすぐにここを発つ」
そして僕を馬の近くで降ろすと、すでに鞍にくくり付けていた荷物から着替えを出してくれた。
ダルガートが戻って来るまでに手早く僕を着替えさせて被り布を巻いてくれたサイードさんの手つきも表情も、そして時々掛けてくれる声も、穏やかで力強いいつものサイードさんだった。
戻ってきたダルガートの冷静で少しも揺らがない黒い目もやっぱりいつもと同じで、ようやく僕は少し安心する。
僕があの大きな黒い馬に乗るのを手伝ってくれながら、ふとダルガートが言った。
「帰りたいと思われた時は、我らの元へ来られよ」
そしてほんの少し口角を上げた。
「我らが貴方の戻る場所だ」
「…………うん。そうだね」
そう言って頷いた。だって本当にそうだもの。
この先何があろうと、今ここで何が起ころうとも、この世界で僕がいたい場所は二人のいるところしかない。
「……イスマーンに戻ろう」
そしてわざとジロリ、とダルガートを見る。
「それからダルガートは僕のとこに来たら二度と黙って寝てないで、ちゃんと起こしてよ」
それを聞いておかしそうに笑ったサイードさんとダルガートに、馬の上から手を伸ばす。そして乱れる気持ちを振り払うように二人の手をぎゅっと握り締めた。
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