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【第二部】東の国アル・ハダール
閑話 皇帝と騎士の心の内
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サイードが皇帝カハルに帰還の挨拶をした時、カハルの後ろにダルガートの姿はなかった。
(何かほかに彼を必要とする勤めがあったのだろうか)
だがダルガートは皇帝カハルの筆頭近衛騎士だ。彼が皇帝のお傍を離れなければならないような事態となれば相当のことだ。
しかしここに来るまでに城門や宮殿の待機所などで受けた報告の中にそれらしき気配はなかったはずだ。
ふと隣のカイの様子を窺えば、やはりダルガートの姿を探すように視線がうろうろと彷徨っている。そして彼がいないとわかってがっかりしたのか、わずかに肩を落とした。
ダルガートとカイは三人で閨をともにして以来、ずっとすれ違いの日が続いていた。かろうじて別れ際に少し言葉を交わせたが、それもほんのわずかな時間だった。
(ひと目なりとも、会いたいだろうに)
カハル皇帝が何か知っているかと顔を上げると、当の本人が意味ありげにサイードに向かって笑みを浮かべたところだった。
(ああ、そういうことか)
サイードはカハルの意図を悟ってカイに言う。
「カイ、私はこの後陛下にご報告申し上げることがある。部屋に案内させるから、カイは先に沐浴をして休んでいるといい」
「あ、わかりました」
カイは素直にそう頷くと、カハルに頭を下げて謁見の間を出ていった。
数日前から時折ぼんやりした表情を見せていたカイは、旅の疲れがかなり溜まっているように見えた。
以前聞いたところによれば馬にも乗ったことがないし、ましてや異国を旅することなどまるで経験がないという。
そんな中、四十日近くも続く馬の旅は難儀なことだっただろう。
(しかも最後は怖い目にも合わせてしまった)
突然現れた盗賊のために大事な馬を一頭失う羽目になった。そのせいでカイはひどく気落ちしてしまった。
せっかくの旅の締めくくりであんな風に辛い思いをさせてしまって、本当にカイには申し訳ないことをしたと思う。
サイードがため息をこらえてニヤニヤ笑いのカハルに向き直ると、カハルが手招きをした。それに従って近くに寄るとますます笑みを深めてカハルが言った。
「なんだ。そなた、神子殿一人を部屋に行かせて良かったのか」
その言葉にサイードは首を振る。
恐らく、ダルガートにわずかなりとも暇を取らせたのはカハル直々の差配だ。そうでもなければあの男が役目をおろそかにして皇帝のお傍を離れるはずがない。
となればダルガートの行先はすぐに見当がつく。だからサイードはここに残った。
せっかくの再会の時だ。できれば二人きりでゆっくりと久々の逢瀬を楽しませてやりたい。
「ダルガートがいれば心配ありませぬ」
するとカハルが呆れたように言った。
「やつがおるなら余計に心配ではないのか」
「お言葉の意味を図りかねまする」
「またそんな、まるでダルガートのような口をきく」
そしてつまらなさそうに髭を撫でて肩をすくめる。
「おぬしらの胸中はよくわからぬのう。一体そなたら、どういう関係を結んでおるのだ」
すると後ろから凛、と澄んだ声が遠慮もなく飛んできた。
「そんな悪趣味なことばかりおっしゃられていては、いい加減サイード将軍にも愛想をつかされますぞ」
「なんじゃ、藪から棒に」
「悪趣味を悪趣味と申し上げただけにございます」
するとサイードの隣に白鶴のごとき長身痩躯の男が黒絹の衣を靡かせて立ち止まり、交手した。
「選定の騎士の大役を無事果たされましたこと、何よりにございます。サイード将軍」
「宰相殿もお変わりなく」
「そうですか? 痩せましたよ? 巣から飛んで行ったっきりちっとも帰ってこない鳳を待ちくたびれてね」
そう答えたアル・ハダール宰相サルジュリークの顔には恐ろしく冷え冷えとした笑みが浮かんでいた。思わずサイードはカハルへと視線を逸らす。すると慌てたようにカハルが手を振った。
「いやいや、わしはもうそなたの説教は充分すぎるほど聞いたぞ」
「わたくしはまだ言い足りませぬな」
「勘弁してくれ」
ほとほと参った、という顔でカハルがぼやくのを聞いて、サイードは「ああ、イスマーンへ戻ってきたのだな」という実感がわいてきた。
「ところでサイード殿。神子殿はご一緒ではないのか?」
サルジュリークが振り向いてそう尋ねてくる。
「神子はお疲れのご様子ゆえ、陛下より奥に賜った私室へお連れするよう、すでに申しつけた」
「左様にございますか。それは残念。一足遅かったようですね」
「…………お手柔らかに頼むぞ、宰相殿。相手はまだもの慣れぬ年頃だ」
思わずサイードがそう言い添えると、サルジュリークは彼の辛辣な物言いを知らぬ者が見ればまさに白皙の美貌と謳うだろう顔ににっこりと笑みを浮かべて言った。
「何をおっしゃいます。大事な天よりの授かりものに無体を働くようなことはいたしませぬよ」
己の主君でさえも尻を叩いていいように使う彼のその言葉を額面通りに受け取れる者は、残念ながらここには一人もいなかった。
カハルはおろか、天下無双の豪傑と名高いカハルの二人の義兄弟でさえも苦手にしている相手だ。
何せ口では絶対に彼には勝てない。この大宰相殿と平然と舌鋒を戦わせることができるのは、彼と犬猿の仲と言われるダルガートぐらいなものだろう。
サイードは自分より十も年上とは思えぬ年齢不詳の美貌を誇る宰相と、心なしか疲れた顔のカハルに頭を下げて、謁見の間を逃げ出した。
(何かほかに彼を必要とする勤めがあったのだろうか)
だがダルガートは皇帝カハルの筆頭近衛騎士だ。彼が皇帝のお傍を離れなければならないような事態となれば相当のことだ。
しかしここに来るまでに城門や宮殿の待機所などで受けた報告の中にそれらしき気配はなかったはずだ。
ふと隣のカイの様子を窺えば、やはりダルガートの姿を探すように視線がうろうろと彷徨っている。そして彼がいないとわかってがっかりしたのか、わずかに肩を落とした。
ダルガートとカイは三人で閨をともにして以来、ずっとすれ違いの日が続いていた。かろうじて別れ際に少し言葉を交わせたが、それもほんのわずかな時間だった。
(ひと目なりとも、会いたいだろうに)
カハル皇帝が何か知っているかと顔を上げると、当の本人が意味ありげにサイードに向かって笑みを浮かべたところだった。
(ああ、そういうことか)
サイードはカハルの意図を悟ってカイに言う。
「カイ、私はこの後陛下にご報告申し上げることがある。部屋に案内させるから、カイは先に沐浴をして休んでいるといい」
「あ、わかりました」
カイは素直にそう頷くと、カハルに頭を下げて謁見の間を出ていった。
数日前から時折ぼんやりした表情を見せていたカイは、旅の疲れがかなり溜まっているように見えた。
以前聞いたところによれば馬にも乗ったことがないし、ましてや異国を旅することなどまるで経験がないという。
そんな中、四十日近くも続く馬の旅は難儀なことだっただろう。
(しかも最後は怖い目にも合わせてしまった)
突然現れた盗賊のために大事な馬を一頭失う羽目になった。そのせいでカイはひどく気落ちしてしまった。
せっかくの旅の締めくくりであんな風に辛い思いをさせてしまって、本当にカイには申し訳ないことをしたと思う。
サイードがため息をこらえてニヤニヤ笑いのカハルに向き直ると、カハルが手招きをした。それに従って近くに寄るとますます笑みを深めてカハルが言った。
「なんだ。そなた、神子殿一人を部屋に行かせて良かったのか」
その言葉にサイードは首を振る。
恐らく、ダルガートにわずかなりとも暇を取らせたのはカハル直々の差配だ。そうでもなければあの男が役目をおろそかにして皇帝のお傍を離れるはずがない。
となればダルガートの行先はすぐに見当がつく。だからサイードはここに残った。
せっかくの再会の時だ。できれば二人きりでゆっくりと久々の逢瀬を楽しませてやりたい。
「ダルガートがいれば心配ありませぬ」
するとカハルが呆れたように言った。
「やつがおるなら余計に心配ではないのか」
「お言葉の意味を図りかねまする」
「またそんな、まるでダルガートのような口をきく」
そしてつまらなさそうに髭を撫でて肩をすくめる。
「おぬしらの胸中はよくわからぬのう。一体そなたら、どういう関係を結んでおるのだ」
すると後ろから凛、と澄んだ声が遠慮もなく飛んできた。
「そんな悪趣味なことばかりおっしゃられていては、いい加減サイード将軍にも愛想をつかされますぞ」
「なんじゃ、藪から棒に」
「悪趣味を悪趣味と申し上げただけにございます」
するとサイードの隣に白鶴のごとき長身痩躯の男が黒絹の衣を靡かせて立ち止まり、交手した。
「選定の騎士の大役を無事果たされましたこと、何よりにございます。サイード将軍」
「宰相殿もお変わりなく」
「そうですか? 痩せましたよ? 巣から飛んで行ったっきりちっとも帰ってこない鳳を待ちくたびれてね」
そう答えたアル・ハダール宰相サルジュリークの顔には恐ろしく冷え冷えとした笑みが浮かんでいた。思わずサイードはカハルへと視線を逸らす。すると慌てたようにカハルが手を振った。
「いやいや、わしはもうそなたの説教は充分すぎるほど聞いたぞ」
「わたくしはまだ言い足りませぬな」
「勘弁してくれ」
ほとほと参った、という顔でカハルがぼやくのを聞いて、サイードは「ああ、イスマーンへ戻ってきたのだな」という実感がわいてきた。
「ところでサイード殿。神子殿はご一緒ではないのか?」
サルジュリークが振り向いてそう尋ねてくる。
「神子はお疲れのご様子ゆえ、陛下より奥に賜った私室へお連れするよう、すでに申しつけた」
「左様にございますか。それは残念。一足遅かったようですね」
「…………お手柔らかに頼むぞ、宰相殿。相手はまだもの慣れぬ年頃だ」
思わずサイードがそう言い添えると、サルジュリークは彼の辛辣な物言いを知らぬ者が見ればまさに白皙の美貌と謳うだろう顔ににっこりと笑みを浮かべて言った。
「何をおっしゃいます。大事な天よりの授かりものに無体を働くようなことはいたしませぬよ」
己の主君でさえも尻を叩いていいように使う彼のその言葉を額面通りに受け取れる者は、残念ながらここには一人もいなかった。
カハルはおろか、天下無双の豪傑と名高いカハルの二人の義兄弟でさえも苦手にしている相手だ。
何せ口では絶対に彼には勝てない。この大宰相殿と平然と舌鋒を戦わせることができるのは、彼と犬猿の仲と言われるダルガートぐらいなものだろう。
サイードは自分より十も年上とは思えぬ年齢不詳の美貌を誇る宰相と、心なしか疲れた顔のカハルに頭を下げて、謁見の間を逃げ出した。
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