月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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【第二部】東の国アル・ハダール

57 夜明けの国

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 帝都イスマーンに向けて出発してから二十日が経った。
 最短距離で向かうならダーヒル神殿領から真東へまっすぐに突っ切っていくんだけど、その道だと途中で結構険しい崖やら谷やらを越えないといけないらしい。
 サイードさんたちだけなら行けるけど、僕の安全を第一に考えて今回は北へ迂回することになった。ちなみに南に迂回するとアル・ハダールの人たちから南蛮と呼ばれている異民族に出くわす可能性があるらしい。
 ほら、やっぱりこの大陸にある国は三つだけじゃないよね。それとも南蛮では国と呼べるほどのものがないという意味なんだろうか。

 進路を変えて山の北側へ入った途端、急に気温が下がった。

「……さむ……っ」

 エルミランから続く北の山脈から容赦なく風が吹き付けてくる。

「神子殿、これを」

 と言ってヤハルがラクダに積んだ荷物の中から分厚い革の上着や毛織のショールを出してくれた。
 サイードさんたちはまだこのくらいは平気らしい。つくづく自分の軟弱さが恥ずかしいけど、昔から僕は結構な寒がりなので仕方がない。
 上着の上からしっかり腰帯を締め直してショールで頭と首の周りをぐるぐる巻きにする。見た目は悪いがかなり暖かくなった。

 日が暮れるとますます気温は下がる。野営ではガンガン火を焚いて温まりたいところだ。でもうまく薪になるような乾燥した木がたくさん拾えた時はいいけど、残念ながらそういう日ばかりではない。
 そういう時はサイードさんが僕を懐に入れるようにして寝てくれる。
 最初は気恥ずかしいというか、周りの目が気になって緊張してしまっていたけれど、このメンバーの中では僕が寒さに弱いことはとっくにバレているせいか、割と普通にスルーされている。

 そんな風にして先を急いでいたある日、サイードさんがふと手綱を引いて遠くの方を見た。そばにいたナスィーフがそれに気づく。

「サイード様?」
「……羊の群れだ」

 そう答えてサイードさんがわずかに馬首を変えた。それに従ってみんなも少し北よりに進路を変える。
 近頃はだいぶ慣れてきて一人で乗る時間が増えてきた僕も必死に目を凝らしてみたけど何にも見えない。でもしばらく走ると本当に羊の群れが見えてきた。

「よく気付きましたね、あんな遠いの」

 思わず感心して言うと、サイードさんが「慣れているからな」と答えた。そして「羊がいるということはあれを飼っている者たちの住まいがこの辺りにあるということだ」と。

 僕たちが羊の群れに近づいていくと、馬に乗った男の人が近づいてきた。最初は警戒されていたみたいだったけど、サイードさんが名乗った途端驚くほど愛想が良くなった。

「なんと、貴方があの……!」

 え、なんかサイードさん有名人? すごいな。
 そのおじさんが教えてくれた方へ馬で行くと、モンゴルの遊牧民族が住んでるゲルのような幕家がいくつか並んでいるのが見つかった。

「ようこそおいで下さいました、将軍」

 ここの人たちの中で一番年上のおじいさんが深々と頭を下げる。そして僕たちを一番大きな幕家の中で歓待してくれた。
 その夜は火と羊肉とチーズとパンに加えて珍しい羊のミルクで作ったというお酒が振舞われた。

「え、ミルクでお酒ができるの?」

 お酒って米とか麦とかの穀類や葡萄やなんかの果物を発酵させて作るイメージだったから驚いた。

「羊の乳を絞って発酵させてから、銅の蒸留器で蒸留させて作るんじゃよ」

 と、おじいさんが教えてくれる。そしてサイードさんが自分の盃を僕に回してくれた。「ここは異世界だしね!」と自分に言い訳をしてほんのちょこっとだけ飲んでみる。言われて見れば確かにどことなく乳臭いんだけど後からカッと喉に来てびっくりした。

「こ、これって結構強いお酒です?」
「ああ、そうだな」

 そうだな、って! 先に教えておいてよ!
 良かったうっかりがぶ飲みしなくて……そんなことしたら間違いなくむせてたよ……。
 でもお酒ってこういう寒いところでは結構ありがたい代物なんだろうな。ほんのちょっと舐めた程度なのにお腹がポカポカしてくる。
 そのうち酔いと満腹感と眠気でうつらうつらしながら、僕は皆が話しているのをぼんやり聞いていた。

「そうか、ここも牧草の生育が厳しいか」
「雨もますます減っておりますし……。北のやつらがやってきて羊や馬を盗んでいくこともあります」

 するとナスィーフの声がそれに続く。

「翁よ。先日、ダーヒルの中央神殿にて慈雨の神子がご降臨なされ、アル・ハダールにいらっしゃることとなった。水に関しては心配することはない」
「おお……神子様がこのアル・ハダールに……。それはなんとありがたい」

 おじいさんや他の人たちが一斉に喜びの声を上げるのが聞こえた。
 自分のことだけにちょっと面映ゆい感じもするけど、喜んでもらえるのはやっぱり嬉しい。そして責任重大だな、と思う。あと、ここでも僕の正体については秘密なんだな、と肝に銘じた。
 それから聞こえてきたおじいさんたちの話によると、ここ数年ずっと天候が悪く、羊や馬の放牧で生活している遊牧民たちは皆苦労しているらしい。アル・ハダールの人たちだけじゃなく北からくる異民族と数少ない牧草地を取り合っているような状態なんだとか。

 うーんそうかぁ……牧草の生育……。
 サラサラの乾いた砂に覆われていた神殿領を過ぎてアル・ハダールに入ると、いわゆる礫砂漠と言われるような硬い地面に変わった。そしてイスマーンに近づくにつれ、砂漠とはいえあちこちに地面に這うように生えてる草を見かけるようになってきた。でもやっぱり緑豊かというほどじゃない。
 牧草が良く育つようにってどうすればいいんだろう。
 神子の力は雨とか風とか、天候に関するもののようだ。三代前の彼女は手記で『枯れた井戸に水を呼んだ』とも書いていた。
 雨が降れば牧草って育つもんなんだろうか。あと気温は? 暖かいに越したことはないだろうけど、さすがに僕も気温までは操れないよね。

 そんなことをぼんやり考えているうちにどうやら寝落ちしてしまったようだった。気づくと暗い部屋で毛布にくるまって寝ていた。
 なんか神殿を出発してから僕、相当寝つきが良くなってるな。昔からずっと夜中になんべんも目が覚めてたのは単純に運動不足だったからなんだろうか。

 とにかく目が覚めた時はちょうど夜明け前で、僕が寝てたのはさっきのおじいさんたちが貸してくれた物置用の幕家だったらしい。そばにはヤハルたちも寝てて、みんなで外に出て泊めてもらったお礼に馬や羊の世話を手伝った。

「アル・ハダールというのは『朝』という意味の言葉なんですよ」

 ヤハルが羊を囲いから追い出しながら教えてくれた。
 その言葉の通り、僕たちが目指すイスマーンのある東の空に朝日が昇り始めていた。
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