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17話:ナインテール
しおりを挟む僕は、慌てて靴を履いて、外へと飛び出した。
そして僕は夜を駆けていく。向かう先は高校だ。
「くそ……なんで忘れてたんだ!」
咲妃との約束。僕はすっかり忘れていた。そもそも、中学に上がる前に、僕はとある事情で打ちのめされ、そして女性が苦手になった。それと同時に、僕はいつもくっついてくる咲妃を――拒絶した。
だから当然、僕の事なんてもうすっかり忘れている。そう思っていた。
中学時代の時、咲妃は僕を、僕は咲妃を、避けていた。なのに同じ高校になり、咲妃が入学してきた今年、彼女はまるで人が変わったかのように僕へと絡んできた。それも悪い方向でだ。
まるで僕を批難するように。軽蔑するように。
昔の僕を知っているがゆえの行動だろうと思っていた。
だから、僕は甘んじて受け入れていた。仕方ない、と諦めていた。
だってもう昔には戻れないのだから。
だけど、もし咲妃があの約束を覚えているのなら。
彼女はきっと――
僕は八年前と同じように破れているフェンスを抜け、相変わらず壊れたままの非常階段を僕は駆け上がっていく。
校舎の屋上には、前と同じ絶景を背景に――咲妃が立っていた。
「――咲妃」
僕が声に反応して、咲妃が振り向いた。
「覚えていてくれたんですね、一兄」
「……悪い。忘れてた」
「でしょうね~。同じ高校になったというのに、一兄はすっかり陰キャになってますし……私、どう接したらいいか分かんなくて。とにかく近付こうと思って同じ部活入ったりして……馬鹿だなあ私」
涙混じりの声になっている咲妃。
僕は……何も気付かなかった。咲妃の想いも、気持ちも。
だけど、仕方ないんだ。僕は、女性の気持ちなんてさっぱり分からないし、咲妃は心の底から僕の事を馬鹿にしていたと思っていた。
「いつかの夜に紫苑先輩と一兄が一緒にいるの見て、ショックでした。家に帰って鏡を見たら、耳と尻尾が生えてて……学校サボってずっと泣いてました。そして嫌でも思い出したんです、自分の気持ちを。一兄って、昔はモテモテで、女子にもチヤホヤされてて……憧れでした。私は……一兄のことが好きでした。大好きでした」
過去形……か。仕方ない。今の僕はあまりにも……醜い。
「なのに。高校生になって再会したら、昔の面影はなかった。いえ、分かっていました。分かっていたけど、信じたくなかった。だから、からかっているうちに私を昔みたいに怒って、昔の一兄が出てくるかなって期待してたんです。でも駄目だった。そんな時に女の人の声が聞こえて。その人が、言ったんです。一兄を一兄に戻してくれるって」
きっとそれはクカの声だろう。
「そしたら、一兄は、少しだけ昔の一兄に戻っていました。紫苑先輩や、琥乃姉と楽しそうに喋っているところを見て、嬉しかったんです。だから――約束も思い出してくれるかなって。ここで、待っていたんです」
クカが出した、テイムの条件。自分以外の者をテイムさせろという難題。
僕はようやくその真意を理解できた。
紫苑も琥乃美も、おそらく竜韻寺先輩もそうだが、それぞれに宿る魔獣のテイムの条件がなんであれ、おそらく嫌でも関わりが深くなるだろう。実際に紫苑とはそのおかげで、仲良くなれた。
つまり、僕に彼女達をテイムをさせることで、少しでも僕を昔の僕に戻そうとしたかったのだ。
女子達と平気で会話し、そして好かれていたかつての僕を――咲妃は求めていて、それをクカが叶えようとした。
咲妃が、綺麗な笑顔を浮かべた。目尻には涙が溜まっているのが見える。
「一兄、覚えていますか? いつかの約束。あの時の続きを」
「……ああ」
「私は良い女になれたでしょうか? 結局、私だって大して成長出来ていないですけど、それでもそれなりに努力してきたつもりなんです。私、結構モテるんですよ?」
分かってる。分かってるさ。咲妃は可愛いし、性格だって良い。僕は知っている。
「一兄は、昔の一兄に戻れるのでしょうか」
「……無理だよ。どんなに取り繕おうと、僕は今の僕でしかない」
「そうですよね。私、ただ、あの頃の偶像に恋をしていただけです」
「だけど、努力はするつもりだ。すぐには無理かもしれないが……」
僕がそう言うと、咲妃が僕に駆け寄ってきた。
そして、その小さな身体で僕の胸に飛び込んで来た。狐耳が首に当たってくすぐったい。
咲妃の身体の柔らかい感触に、ドギマギしながら僕は咲妃の背中に手を回すべきかどうかで迷う。
「一兄。私は今でも……一兄が好きです」
「……僕は」
「良いんです。今すぐでなくても。それに……今のままでも、良いんです。一兄は、覚えていてくれた。それだけで私は――満足です」
そう言って、咲妃は僕の胸に顔を埋めた。
結局、僕はいつまでも咲妃を抱いたまま、屋上の向こうに広がる夜景を見つめていた。
気付けば、咲妃の耳と尻尾は消えていた。
☆☆☆
その後、僕は咲妃を家まで送ってあげ、自宅へと帰ってきた。
家に着くと、僕は窓を開けた。
風が――吹き込んでくる。
「妾もまだまだ……だな」
風と共に、声が聞こえ、そして気付けば部屋の中に、巨大な狐がいた。輝くような黄金の体毛に、九本の尻尾。
「まさかまさか、依代に追い出されてしまうとはな。どうやら妾の術式は不完全のようだ。世界を渡るのはかくも難しいとはの」
僕は、弧を描くように寝そべるクカに囲まれ、その右前脚で抱きかかえられた。言い換えれば、クカが力を込めれば僕は簡単に死んでしまうだろう。
「クカ、テイムは成功したのか? 条件は満たしていないが」
「成功した……のだろう。どうやら、マスターは、妾の条件を満たす前に……依代が密かに抱いていた気持ちに気付き、そしてそれに対して正しい答えを出した。結果として……テイムは成功と判定され、妾は依代から追い出された。マスターがそう望んだのだろ?」
つまり……クカが出した条件は、結局突き詰めると、咲妃の望みを叶える為だった。なので、その望みを叶えさえすれば……その条件を満たしてなくても、クリアした扱いになるのだろう。
そして、テイムが成功した結果、マスターである僕の望み……咲妃を元に戻すという想いが、クカを咲妃の中から追い出した。
「もし妾の術式が完全であったならば、依代の意思なぞ関与できぬように出来たのだが……どうにも勝手が違うようだ」
「お前はどうなるんだ?」
そう、依代を無くした魔獣はどうなるのだろうか。賀茂さんはそれについては何も触れなかった。
「少なくともこうして話すことはもうできない」
「は?」
「この世界で身体を維持できるのは依代があってからこそ。依代から出てしまえば当然自我も何もかも消えてしまう」
「……なんでそんなリスクを負ってまで」
「皆まで言わす気か? マスターにもう一度会いたかった。ただそれだけで会いに来る理由としては十分では?」
「だけど……それじゃあ……紫苑達を元に戻すってことは……お前達を殺すってことじゃないか」
「なに、消えても我々は依代の中にいる。もちろん、これまでほどに影響は出ない。魂に僅かに残る程度だ」
だけど。
「マスター。どういう理由で、依代は選ばれたと思う?」
そうだ。それが気になっていた。なぜ紫苑なんだ。なぜ咲妃なんだ。なぜ琥乃美で、竜韻寺先輩なんだ。
たまたま……なわけがない。
「依代が望んだからだ。勿論無意識の部分でだろうがね。依代が望み、そして我らが叶える。そうして――契約は為されたのだ。例えば妾の依代となったあの小娘は……マスターを昔のマスターに戻してほしかった。ゆえに……気持ちに嘘をつき、言葉を偽った。マスターを小馬鹿にし、挑発し、気持ちを引き出したかった」
気持ちに嘘をつき、偽る。挑発し、気持ちを引き出す。
なるほど、確かにそれならば……ナインテールは最適だ。
「つまりそういうことだ。マスター。依代を元に戻したければ、彼女達が内に秘める想いを見付けて叶えてやると良い。狼を被る少女を救え、自身の孤独さに気付かない虎を見付けてやれ。堅い鱗と畏怖させる姿で、弱い自分を隠す竜を――抱きしめてやれ。そうすれば彼女達は元に戻り、そして妾達も消える」
「クカ。僕は嫌だよ。お前達が消えるなんて」
僕の言葉を聞いて、クカが僕の頭へと優しく前脚を置いた。
「心配せずとも、妾はあの小娘と共にある。完全に消えはせず、そしてマスターの側に居られるのなら本望だ。皆が、望んだ事だ」
「……だけど」
「優しいなマスター。だが、マスターが気に掛けるべきは我々ではなく……あの小娘達だ。これはただの妾のワガママで、それにいつものように皆が付き合ってくれた結果だ。では、マスター。またいつか会える日を楽しみにしている――さらばだ」
「ま、待って――」
僕がクカへと手を伸ばそうとした瞬間に、クカは跡形もなく消えた。
まるで、それは夢幻だったかのように。
まるで、狐に化かされていたかのように。
「クカ……」
こうして、ナインテールのクカは消え、ただ、僅かに咲妃の魂の中に眠るのみだった。
そして僕は決意する。もう、逃げるのは止めた。
まずは……彼女達と向き合おうと思う。
魔獣ではなく、彼女達自身に。僕自身で。
向き合うって決めたんだ。
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