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1:陽だまりのテーブル
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それは懐かしいと呼ぶには近過ぎて、でもなぜか遥か昔の出来事かのように感じる夢だった。
ふよふよとまるで幽霊のように漂う私の目の前には、私に与えられた唯一の居場所である〝図書塔〟の二階にある、あの陽だまりのテーブルがあった。
この図書塔唯一の窓から差し込む陽光に照らされているのは二人の人物。
一人は、陽光の当たり具合によっては時々薄い赤色にも見える、薔薇金とも呼ばれる髪を持つ少女――エステル。彼女は帝国に滅ぼされたエステライカ皇国の第一皇女であり、今は同盟国のここヘイルラント王国に亡命していた。
それはつまるところ、私のことだ。国も両親も亡くした私をヘイルラント王は嫌な顔一つせず迎え入れてくれた。そして三度の食事よりも読書が好きである私に、この〝図書塔〟と呼ばれる、四階建の塔のような形をした小さな図書館を与えてくださった。
そこまでは良かったのだが、陛下はもう一つ私に重要な役割を与えた。
「……おい貧乳ババア! って痛っ! 本で殴る奴があるか! 俺は王子だぞ!!」
「またそんな馬鹿なことを言って……ほら、まだ計算問題が残っていますよ」
私に、読んでいた本ではたかれたのは、この陽だまりのテーブルに座るもう一人の人物だ。まだ十歳にも満たない少年で、白銀色の短い髪に幼いながらも整った顔立ちだが、その顔には生意気そうな表情が浮かんでいる。
見れば膝や肘などに生傷が多く、肌も焼けていて、動き辛いという理由で用意された服を拒否して平民が着るような服を纏っている。一見するとただの下町のいたずら小僧にしか見えないが、彼の名はユリウス・ヘイルラント。その名の通り、このヘイルラント王国の第二王子であり、そして陛下にとっては頭痛の種だった。
「勉強なんて無駄だろ!! どうせ俺は王にはなれない。だから俺はアウグス聖みたいに放浪の聖騎士になるんだ! 勉強なんて出来なくても剣の腕があれ――痛い痛い! 耳を引っ張るな暴力ババア!」
「ほんとに馬鹿ねえ」
ユリウスは終始こんな事を言う始末で、勉学は放り投げ、かと言って剣術の練習もサボり、勝手に王宮を抜け出しては王都や平原を駆け回っているのだ。礼儀作法も勿論なく、殆どの家庭教師が匙を投げたところに、暇していた私に家庭教師役の白羽の矢を立ったのだ。
だけど、仕方がない部分もあった。彼の兄であるヒューイ第一王子は優秀であり、常にこの優秀な兄と比べられながらここまで育ったのだ。六歳にして彼は既に自己肯定感が低く、何事にもやる気を見出せず、ただおとぎ話に憧れて夢想するだけの日々。
私はその境遇に少しだけ共感すると同時に、決して同情しないようにした。
それを優しさとしてではなく、哀れみとしてユリウスが感じてしまうことを分かっていた。陛下すらも、不出来な息子だと思っている節があるが、彼は決して馬鹿でないし、大人の汚い部分に気付く聡い部分もある。
だからこそ私は同情はせず、かといって他の教師や王宮内の者達のように蔑みもせず、ユリウスと向き合っていた。
「十六歳の乙女を捕まえてババア呼ばわりとは、ユリウス様は目が腐っているのですか?」
私が隣に座るユリウスに身体をくっつけてその小さな両耳を引っ張っている。うーん、とはいえこうやって客観的に見ると、王子相手に結構無茶苦茶やっているな、私……。
「馬鹿エステル! 近い!」
「あら、失礼」
ユリウスが顔を真っ赤にして拒否するので、私は身体を離した。
「だ、大体! なんで勉強しなきゃいけないんだよ! 無駄だろこんなの! 騎士になるのに計算なんて必要ねえ!」
「無駄ではありませんよ。良いですか、知識は武器なんです。それは使うに越したことはないけど、ないといざという時に困るのは自分自身ですよ」
「武器?」
「そうです。ユリウス様だって、冒険の旅に出るなら武器は何本か持っていきますでしょ?」
「そうだな! やっぱり剣と短剣とあと槍と弓と……」
目をキラキラさせながら指を折るユリウスを見て、私が微笑んだ。
「じゃあ、持っていかない斧の使い方は覚えないのですか?」
「いらない! だって使わないから!」
「では、そこへ悪い斧遣いが現れました。でも、ユリウス様は斧の使い方が分かりません。つまり、相手が何をしてくるか分からない。これでは、勝てる勝負も勝てなくなるかもしれませんね」
「……うーん。じゃあ斧の使い方も覚える!」
「それが、勉強ですよ。使う使わないは重要ではありません。自分の頭の中に本棚を作り、そこを知識という名の本で埋めて、相対した未知を如何に既知に変えられるかが肝要です。人は既知には対応はできますが、未知にはできません。ユリウス様、未知を恐れなさい。いつか計算問題を解かないと倒せない悪魔が旅の途中で出てくるかもしれませんよ? その時になってからでは遅いのです」
「……分かったよ。この計算問題だけやるよ」
むすっとしながらも、目の前の問題に取り組むユリウスを見て、私が頷くと読書を再開した。
カリカリとペンが動く音と、ぱさりぱさりとページを捲る音だけが響く。それはとても平和な光景だった。いつまでもこれが続けば良いのにと、そう思ってしまうほどに。
だけど、私は知っているのだ。それが決して長く続かないことを。
ふよふよとまるで幽霊のように漂う私の目の前には、私に与えられた唯一の居場所である〝図書塔〟の二階にある、あの陽だまりのテーブルがあった。
この図書塔唯一の窓から差し込む陽光に照らされているのは二人の人物。
一人は、陽光の当たり具合によっては時々薄い赤色にも見える、薔薇金とも呼ばれる髪を持つ少女――エステル。彼女は帝国に滅ぼされたエステライカ皇国の第一皇女であり、今は同盟国のここヘイルラント王国に亡命していた。
それはつまるところ、私のことだ。国も両親も亡くした私をヘイルラント王は嫌な顔一つせず迎え入れてくれた。そして三度の食事よりも読書が好きである私に、この〝図書塔〟と呼ばれる、四階建の塔のような形をした小さな図書館を与えてくださった。
そこまでは良かったのだが、陛下はもう一つ私に重要な役割を与えた。
「……おい貧乳ババア! って痛っ! 本で殴る奴があるか! 俺は王子だぞ!!」
「またそんな馬鹿なことを言って……ほら、まだ計算問題が残っていますよ」
私に、読んでいた本ではたかれたのは、この陽だまりのテーブルに座るもう一人の人物だ。まだ十歳にも満たない少年で、白銀色の短い髪に幼いながらも整った顔立ちだが、その顔には生意気そうな表情が浮かんでいる。
見れば膝や肘などに生傷が多く、肌も焼けていて、動き辛いという理由で用意された服を拒否して平民が着るような服を纏っている。一見するとただの下町のいたずら小僧にしか見えないが、彼の名はユリウス・ヘイルラント。その名の通り、このヘイルラント王国の第二王子であり、そして陛下にとっては頭痛の種だった。
「勉強なんて無駄だろ!! どうせ俺は王にはなれない。だから俺はアウグス聖みたいに放浪の聖騎士になるんだ! 勉強なんて出来なくても剣の腕があれ――痛い痛い! 耳を引っ張るな暴力ババア!」
「ほんとに馬鹿ねえ」
ユリウスは終始こんな事を言う始末で、勉学は放り投げ、かと言って剣術の練習もサボり、勝手に王宮を抜け出しては王都や平原を駆け回っているのだ。礼儀作法も勿論なく、殆どの家庭教師が匙を投げたところに、暇していた私に家庭教師役の白羽の矢を立ったのだ。
だけど、仕方がない部分もあった。彼の兄であるヒューイ第一王子は優秀であり、常にこの優秀な兄と比べられながらここまで育ったのだ。六歳にして彼は既に自己肯定感が低く、何事にもやる気を見出せず、ただおとぎ話に憧れて夢想するだけの日々。
私はその境遇に少しだけ共感すると同時に、決して同情しないようにした。
それを優しさとしてではなく、哀れみとしてユリウスが感じてしまうことを分かっていた。陛下すらも、不出来な息子だと思っている節があるが、彼は決して馬鹿でないし、大人の汚い部分に気付く聡い部分もある。
だからこそ私は同情はせず、かといって他の教師や王宮内の者達のように蔑みもせず、ユリウスと向き合っていた。
「十六歳の乙女を捕まえてババア呼ばわりとは、ユリウス様は目が腐っているのですか?」
私が隣に座るユリウスに身体をくっつけてその小さな両耳を引っ張っている。うーん、とはいえこうやって客観的に見ると、王子相手に結構無茶苦茶やっているな、私……。
「馬鹿エステル! 近い!」
「あら、失礼」
ユリウスが顔を真っ赤にして拒否するので、私は身体を離した。
「だ、大体! なんで勉強しなきゃいけないんだよ! 無駄だろこんなの! 騎士になるのに計算なんて必要ねえ!」
「無駄ではありませんよ。良いですか、知識は武器なんです。それは使うに越したことはないけど、ないといざという時に困るのは自分自身ですよ」
「武器?」
「そうです。ユリウス様だって、冒険の旅に出るなら武器は何本か持っていきますでしょ?」
「そうだな! やっぱり剣と短剣とあと槍と弓と……」
目をキラキラさせながら指を折るユリウスを見て、私が微笑んだ。
「じゃあ、持っていかない斧の使い方は覚えないのですか?」
「いらない! だって使わないから!」
「では、そこへ悪い斧遣いが現れました。でも、ユリウス様は斧の使い方が分かりません。つまり、相手が何をしてくるか分からない。これでは、勝てる勝負も勝てなくなるかもしれませんね」
「……うーん。じゃあ斧の使い方も覚える!」
「それが、勉強ですよ。使う使わないは重要ではありません。自分の頭の中に本棚を作り、そこを知識という名の本で埋めて、相対した未知を如何に既知に変えられるかが肝要です。人は既知には対応はできますが、未知にはできません。ユリウス様、未知を恐れなさい。いつか計算問題を解かないと倒せない悪魔が旅の途中で出てくるかもしれませんよ? その時になってからでは遅いのです」
「……分かったよ。この計算問題だけやるよ」
むすっとしながらも、目の前の問題に取り組むユリウスを見て、私が頷くと読書を再開した。
カリカリとペンが動く音と、ぱさりぱさりとページを捲る音だけが響く。それはとても平和な光景だった。いつまでもこれが続けば良いのにと、そう思ってしまうほどに。
だけど、私は知っているのだ。それが決して長く続かないことを。
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