184 / 190
第六章『学校開校』
182話 科学と人間生活
しおりを挟む 中島 康太 二十一歳
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込み、拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。
これは儀式だ。心を落ち着かせて集中力を高めるための儀式。意識して呼吸を整えながら、落ち着いた頭で考える。
世界が終わるということの意味を。
と……いうことはだ、来年……オリンピックはない。俺は……今の俺のまま死ぬことになる。
「……くそっ」
思い出す。
それは小学二年生のときだった。
その頃の俺は特撮ヒーローが大好きだった。五人組のヒーローが一人の怪人を倒すやつじゃなくて、ヒーローと悪役がサシで戦うやつが好きだった。
ヒーローごっこもやった。父さんが仕事から帰ってくると悪役をやってもらって、ほとんど毎日のようにやっていた。でもそれは所詮ごっこ遊び。父さんがわざと大げさに負けてくれるのが、いつの頃からか気に食わないと思うようになった。
それで俺は本当に強くなりたいと考えた。ヒーローがやっていた空手が習いたくて、思い立ったその日のうちに父さんにお願いした。しかし近所には空手の道場がなくて、結局俺は柔道を習うことになった。
それが俺と柔道の出会いだった。
柔道は楽しかった。自分より大きい相手を投げたり、押さえ込んだりと、どんどん夢中になっていった。それでも小学五年生になるまで、俺は道場に遊びに通っていた。
柔道に対する意識に変化が訪れたのは、小学五年生のときに見たオリンピックの影響だった。それまで三年間柔道をやっていたが、柔道をテレビで見るのはそれが初めての機会だった。
衝撃的だったのは軽量級の工藤竜司選手。初戦から決勝戦まで全て背負い投げで一本勝ち。このとき工藤選手は二大会連続の金メダルだった。
めちゃくちゃかっこいいと思った。大好きだった特撮ヒーローよりもずっとかっこよかった。その日から俺のヒーローは工藤選手になった。そして俺は柔道でオリンピックを目指すことを決めた。
それからずっと俺は人生の全てを柔道に捧げてきた。
初めて大会で優勝したのは小学五年生の十一月、地元で行われる食品メーカーの名を冠した小さな大会だった。それから俺は十八歳まで、出場した大会で一度も負けたことはなかった。インターハイ、国体はもちろん、年齢制限のない選抜選手権や世界大会であるワールドカップでも優勝した。高校三年生のときには憧れであった工藤選手とも二度対戦し、二度とも一本勝ちで勝利した。
それも二度目の試合はオリンピックの選手選考に大きく影響する、選抜選手権の決勝戦だった。
その試合、開始まもなく組み手を取ったところで、俺は先にポイントを奪われた。工藤選手の戦い方は柔道をかじったことのある者なら誰だって知っていた。彼はひたすらに背負い投げにこだわりを持っていた。もちろん足技も使う。しかしそれは牽制や相手の体勢を崩すためのものか、背負いにつなげるための予備動作でしかなかった。もし相手を背負いで投げて、それが技ありだったなら、彼は寝技を避け、次の背負いで一本を狙っていった。彼が求めるのはただ一つ、背負い投げによる一本勝ちだけだった。誰もが彼の背負いを警戒していた。それでも背負いで投げてしまうのが彼の強みだった。その工藤選手が開始直後の組み手争いの中、足技の小内巻き込みでポイントをとりにきたのだ。俺は完全に虚を突かれ、背中こそつかなかったが倒されてしまった。判定は有効。その後、工藤選手はいつも避けていた寝技で押さえ込みまで狙ってきた。試合は結局内股で俺の一本勝ちだったが、工藤選手は巴投げまでやってきた。必死さこそ伝わってきたが、正直いつものスタイルのほうが恐さがあった。
そして俺はオリンピックの軽量級代表として選ばれた。三大会連続優勝中、三十二歳の工藤竜司選手ではなく、十八歳で高校生の俺がオリンピックの日本代表に選出されたのだ。
それは日本中を騒がす大きなニュースになった。工藤選手は国民的ヒーローだったから。
柔道をよく知っている人たちは俺の選出を好意的に受け止めてくれた。しかしオリンピックくらいでしか柔道を見ないような人たちの中には俺を否定する者が多かった。
経験が足りないとか若すぎるとか……俺のことを何も知らないような奴らが、口々に俺を否定した。
だから俺は取材に対して言ったんだ。
俺は試合で負けたことがない。世界大会で優勝するより工藤選手に勝つほうが難しい。工藤選手に勝てた時点で金メダルは貰ったようなもんだ。だからぐだぐだ文句を言ってないで安心してくれと。
この発言で俺はまた叩かれた。ビッグマウスだとか天狗になっているだとか、いろいろ言われた。
それでも俺は全く気にしなかった。オリンピックで優勝して黙らせてやればいい。そう思っていた。
そしてオリンピック。
初戦だった。相手はデンマーク代表のクリスティアン・エリクセン選手。以前に一度対戦したことのある相手だった。軽量級の割には背が高く力が強い。四肢も長くやりにくい相手ではあるが、恐れるような一発を持っているわけではない。
俺は畳の上で彼と対峙した。
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込みながら拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。相手を真っ直ぐに見据えて、審判の合図で礼をする。
そして試合が始まった。
「せい!」
声を出して組み手争いのために手を構える。
この試合でまず俺を否定する奴を黙らせてやる。一分以内、いや一撃で倒す。そんなことを考えていた。
俺は組み手争いも強い。開始数秒で俺は自分の組み手を取った。そして相手の呼吸に合わせて、軽くこちらに引き寄せる。相手はそれに反発する。そこに一歩踏み込んで足技に行くそぶりを見せる。またそれに合わせて相手の重心が移動する。
そこに内股を仕掛けた。
完璧だった。相手はおもしろいくらい簡単に浮き上がる。俺は自分ごと回転し相手を投げ飛ばした。少し勢いがつきすぎたため相手の背中は畳についていないかもしれない。それでも完全に投げ飛ばした。スーパー一本で問題ないだろう。
そんなふうに考えながら、投げ飛ばした姿勢のままで審判を見上げた。審判の手は水平に上げられていた。技ありだ。目を疑って電光掲示板を見る。技ありが点滅していた。
そのとき視界から電光掲示板が消えた。
あ、やばい……
そう思ったときには、すでに押さえ込まれていた。一本と技ありの違いもわからないヘボ審判が押さえ込みを宣言する。
二十秒で逃げなければ、俺は負ける。
完全な形で押さえ込まれていた。それでも負けるわけにはいかない。必死にブリッジして体を回転させようともがいた。
やばい、やばい、やばい……頭の中がその言葉だけで埋め尽くされていく。焦りが募る。それでも俺は必死に暴れ、押さえ込みから逃れようとした。
そしてやっと逃げ出した。
そう思ったそのとき……相手は座ったまま両拳を天へと突き上げて、歓喜の声を上げていた。そして審判が一本を宣言した……
俺は負けたのだ。相手の選手が次の試合で敗れたため、敗者復活戦もなく一回戦敗退。
帰国するとバッシングの嵐だった。八年間公式戦で負けたことのなかったこの俺が、たった一敗しただけで……これまでどれだけ過酷な練習を重ね、どれだけ多くのものを諦めて俺が柔道だけに取り組んできたのかを知りもしない奴らに、負け犬のレッテルをはられて嘲笑の的にされた。
それでも言い訳は出来なかった。審判の誤審で無理やり負けにされたわけじゃない。あそこで気を抜かなければ、問題なく勝てた試合だったのだ。そもそもあのときの俺は相手選手と対峙しながら、別のものと戦おうとしていた。俺は負けるべくして負けたのだ。
それからの俺は今まで以上に柔道に全てを捧げた。絶望に浸っている暇なんてなかった。全てが終わってしまったわけではない。俺にはまだ四年後があった。次のオリンピックでこの汚名を返上したかった。
そのためだけに生きてきた。毎日、毎日、吐くまで練習した。どれだけ練習しても、次ぎ勝てる確信が持てなくてひたすらに練習を続けた。食事にも気を使い、好物だったチョコレートなどの甘いものも、あの敗戦以来一度も口にしてはいない。
どれだけ勝利を重ねても、どんな大会で優勝しても、オリンピックでの汚名はオリンピックでしか晴らすことが出来なかった。
そのオリンピックが来年だった。すでに選考は始まっている。来月には選考に影響する大会も控えていた。その大会には工藤選手も出場する。
それなのに……それなのにだ。
世界が終わる。オリンピックの前に終わってしまう。俺は負け犬のまま、この人生を終える。汚名を返上するチャンスは訪れなかった。
「ふざけんなよ……」
そんなの許されない……そんなことがあっていいわけがない……
心の中で様々な感情が入り乱れていた。後悔、怒り、悲しみ、絶望……様々な負の感情が溢れ出してくる。その溢れる思いを吐き出そうと、叫び声を上げようとしたそのとき、電話が鳴った。携帯ではなく、家の電話だ。
家の電話なので誰からかはわからないが、俺はつい反射的に電話をとってしまった。
「俺だ……」
それはよく知った声だった。
「新手の詐欺かなんかですか? どうしたんです? 工藤さん。こんなときに」
工藤選手だった。
「はっ、残念だったな。オリンピックどころじゃなくなっちまったな」
少し笑いながら、工藤選手はそう言った。
「ですね……これ、ドッキリとかじゃ、ないんですよね?」
「ああ……もうすぐ世界が滅びるんだってよ。本当……ありえねえよな」
「俺は……俺なんか、大口叩いてたのに、オリンピックで一回戦負けの、負け犬野郎のままエンディングですよ……」
「そうだな……まぁ、でも、俺が知っているさ。お前は誰よりも強いって……」
そう言ってまた少し笑った後、ため息まじりに工藤選手は言葉を続けた。
「俺はな、オリンピックで三回も金メダルを取ってるんだぜ。それなのに、お前には一度も勝てなかった。オリンピック前に二回、後に二回。四戦とも一本負けだ。お前はいっつも、自分は誰よりも練習してるって言うけど、お前はまだ二十一だろ。俺は三十五だ。総合的な練習量じゃあ、圧倒的に俺のほうが多いからな。その俺が十八だったときのお前にすら、手も足も出なかった。どんだけくやしかったかわかってんのか? 俺はもともと前回のオリンピックの後、引退するつもりだったんだ。それなのにまだ続けてるのはな、一度だけでもお前に勝ちたかったからだ。あーー! くっそ! 来月の試合楽しみだったのにな。対お前用の必殺技を用意してたんだぞ。そうだな……お前、ちょっと今から一試合やらねえか? 今どこにいるよ?」
「奈良です」
「くそっ……遠いな。無理か。あー! ちくしょう。もし、あれだぞ。天国みたいなのがあったらそこで勝負すんぞ。勝ち逃げなんて絶対に許さねえからな」
「はは……わかりました。やりましょう。天国で天使が審判なら、あんなヘボい判定しないでしょうしね」
「おい……ちょっと待てよ。あれじゃねえか? 天国だったら俺、全盛期の状態でやれるんじゃねえ?」
「それでも返り討ちにしてやりますよ」
なんだろう……少し楽しくなってきた。
工藤選手と話していたら、負の感情は全部どっかに行ってしまった。やっぱり工藤選手はかっこいい。俺と違って他人の目なんて気にしていなかった。きっと、ただ自分のやりたいようにやっているだけなんだ。
そうだ。俺だって汚名なんて気にする必要なんてない。俺は強い。俺は柔道が大好きだ。
試合がしたくてたまらなくなってきた。
もういい。はやく世界なんて滅びてしまえ。そして俺は天国で工藤選手と戦うんだ。必殺技とやらがどんな技なのか楽しみでしかたがない。工藤選手が必殺技だというくらいだから凄い技に違いない。それでも俺は負けない。絶対に勝つ。
なんせ俺は最強だからな。
誰がなんと言おうと俺はそう信じている。
それで、それだけで充分だったんだ。
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込み、拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。
これは儀式だ。心を落ち着かせて集中力を高めるための儀式。意識して呼吸を整えながら、落ち着いた頭で考える。
世界が終わるということの意味を。
と……いうことはだ、来年……オリンピックはない。俺は……今の俺のまま死ぬことになる。
「……くそっ」
思い出す。
それは小学二年生のときだった。
その頃の俺は特撮ヒーローが大好きだった。五人組のヒーローが一人の怪人を倒すやつじゃなくて、ヒーローと悪役がサシで戦うやつが好きだった。
ヒーローごっこもやった。父さんが仕事から帰ってくると悪役をやってもらって、ほとんど毎日のようにやっていた。でもそれは所詮ごっこ遊び。父さんがわざと大げさに負けてくれるのが、いつの頃からか気に食わないと思うようになった。
それで俺は本当に強くなりたいと考えた。ヒーローがやっていた空手が習いたくて、思い立ったその日のうちに父さんにお願いした。しかし近所には空手の道場がなくて、結局俺は柔道を習うことになった。
それが俺と柔道の出会いだった。
柔道は楽しかった。自分より大きい相手を投げたり、押さえ込んだりと、どんどん夢中になっていった。それでも小学五年生になるまで、俺は道場に遊びに通っていた。
柔道に対する意識に変化が訪れたのは、小学五年生のときに見たオリンピックの影響だった。それまで三年間柔道をやっていたが、柔道をテレビで見るのはそれが初めての機会だった。
衝撃的だったのは軽量級の工藤竜司選手。初戦から決勝戦まで全て背負い投げで一本勝ち。このとき工藤選手は二大会連続の金メダルだった。
めちゃくちゃかっこいいと思った。大好きだった特撮ヒーローよりもずっとかっこよかった。その日から俺のヒーローは工藤選手になった。そして俺は柔道でオリンピックを目指すことを決めた。
それからずっと俺は人生の全てを柔道に捧げてきた。
初めて大会で優勝したのは小学五年生の十一月、地元で行われる食品メーカーの名を冠した小さな大会だった。それから俺は十八歳まで、出場した大会で一度も負けたことはなかった。インターハイ、国体はもちろん、年齢制限のない選抜選手権や世界大会であるワールドカップでも優勝した。高校三年生のときには憧れであった工藤選手とも二度対戦し、二度とも一本勝ちで勝利した。
それも二度目の試合はオリンピックの選手選考に大きく影響する、選抜選手権の決勝戦だった。
その試合、開始まもなく組み手を取ったところで、俺は先にポイントを奪われた。工藤選手の戦い方は柔道をかじったことのある者なら誰だって知っていた。彼はひたすらに背負い投げにこだわりを持っていた。もちろん足技も使う。しかしそれは牽制や相手の体勢を崩すためのものか、背負いにつなげるための予備動作でしかなかった。もし相手を背負いで投げて、それが技ありだったなら、彼は寝技を避け、次の背負いで一本を狙っていった。彼が求めるのはただ一つ、背負い投げによる一本勝ちだけだった。誰もが彼の背負いを警戒していた。それでも背負いで投げてしまうのが彼の強みだった。その工藤選手が開始直後の組み手争いの中、足技の小内巻き込みでポイントをとりにきたのだ。俺は完全に虚を突かれ、背中こそつかなかったが倒されてしまった。判定は有効。その後、工藤選手はいつも避けていた寝技で押さえ込みまで狙ってきた。試合は結局内股で俺の一本勝ちだったが、工藤選手は巴投げまでやってきた。必死さこそ伝わってきたが、正直いつものスタイルのほうが恐さがあった。
そして俺はオリンピックの軽量級代表として選ばれた。三大会連続優勝中、三十二歳の工藤竜司選手ではなく、十八歳で高校生の俺がオリンピックの日本代表に選出されたのだ。
それは日本中を騒がす大きなニュースになった。工藤選手は国民的ヒーローだったから。
柔道をよく知っている人たちは俺の選出を好意的に受け止めてくれた。しかしオリンピックくらいでしか柔道を見ないような人たちの中には俺を否定する者が多かった。
経験が足りないとか若すぎるとか……俺のことを何も知らないような奴らが、口々に俺を否定した。
だから俺は取材に対して言ったんだ。
俺は試合で負けたことがない。世界大会で優勝するより工藤選手に勝つほうが難しい。工藤選手に勝てた時点で金メダルは貰ったようなもんだ。だからぐだぐだ文句を言ってないで安心してくれと。
この発言で俺はまた叩かれた。ビッグマウスだとか天狗になっているだとか、いろいろ言われた。
それでも俺は全く気にしなかった。オリンピックで優勝して黙らせてやればいい。そう思っていた。
そしてオリンピック。
初戦だった。相手はデンマーク代表のクリスティアン・エリクセン選手。以前に一度対戦したことのある相手だった。軽量級の割には背が高く力が強い。四肢も長くやりにくい相手ではあるが、恐れるような一発を持っているわけではない。
俺は畳の上で彼と対峙した。
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込みながら拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。相手を真っ直ぐに見据えて、審判の合図で礼をする。
そして試合が始まった。
「せい!」
声を出して組み手争いのために手を構える。
この試合でまず俺を否定する奴を黙らせてやる。一分以内、いや一撃で倒す。そんなことを考えていた。
俺は組み手争いも強い。開始数秒で俺は自分の組み手を取った。そして相手の呼吸に合わせて、軽くこちらに引き寄せる。相手はそれに反発する。そこに一歩踏み込んで足技に行くそぶりを見せる。またそれに合わせて相手の重心が移動する。
そこに内股を仕掛けた。
完璧だった。相手はおもしろいくらい簡単に浮き上がる。俺は自分ごと回転し相手を投げ飛ばした。少し勢いがつきすぎたため相手の背中は畳についていないかもしれない。それでも完全に投げ飛ばした。スーパー一本で問題ないだろう。
そんなふうに考えながら、投げ飛ばした姿勢のままで審判を見上げた。審判の手は水平に上げられていた。技ありだ。目を疑って電光掲示板を見る。技ありが点滅していた。
そのとき視界から電光掲示板が消えた。
あ、やばい……
そう思ったときには、すでに押さえ込まれていた。一本と技ありの違いもわからないヘボ審判が押さえ込みを宣言する。
二十秒で逃げなければ、俺は負ける。
完全な形で押さえ込まれていた。それでも負けるわけにはいかない。必死にブリッジして体を回転させようともがいた。
やばい、やばい、やばい……頭の中がその言葉だけで埋め尽くされていく。焦りが募る。それでも俺は必死に暴れ、押さえ込みから逃れようとした。
そしてやっと逃げ出した。
そう思ったそのとき……相手は座ったまま両拳を天へと突き上げて、歓喜の声を上げていた。そして審判が一本を宣言した……
俺は負けたのだ。相手の選手が次の試合で敗れたため、敗者復活戦もなく一回戦敗退。
帰国するとバッシングの嵐だった。八年間公式戦で負けたことのなかったこの俺が、たった一敗しただけで……これまでどれだけ過酷な練習を重ね、どれだけ多くのものを諦めて俺が柔道だけに取り組んできたのかを知りもしない奴らに、負け犬のレッテルをはられて嘲笑の的にされた。
それでも言い訳は出来なかった。審判の誤審で無理やり負けにされたわけじゃない。あそこで気を抜かなければ、問題なく勝てた試合だったのだ。そもそもあのときの俺は相手選手と対峙しながら、別のものと戦おうとしていた。俺は負けるべくして負けたのだ。
それからの俺は今まで以上に柔道に全てを捧げた。絶望に浸っている暇なんてなかった。全てが終わってしまったわけではない。俺にはまだ四年後があった。次のオリンピックでこの汚名を返上したかった。
そのためだけに生きてきた。毎日、毎日、吐くまで練習した。どれだけ練習しても、次ぎ勝てる確信が持てなくてひたすらに練習を続けた。食事にも気を使い、好物だったチョコレートなどの甘いものも、あの敗戦以来一度も口にしてはいない。
どれだけ勝利を重ねても、どんな大会で優勝しても、オリンピックでの汚名はオリンピックでしか晴らすことが出来なかった。
そのオリンピックが来年だった。すでに選考は始まっている。来月には選考に影響する大会も控えていた。その大会には工藤選手も出場する。
それなのに……それなのにだ。
世界が終わる。オリンピックの前に終わってしまう。俺は負け犬のまま、この人生を終える。汚名を返上するチャンスは訪れなかった。
「ふざけんなよ……」
そんなの許されない……そんなことがあっていいわけがない……
心の中で様々な感情が入り乱れていた。後悔、怒り、悲しみ、絶望……様々な負の感情が溢れ出してくる。その溢れる思いを吐き出そうと、叫び声を上げようとしたそのとき、電話が鳴った。携帯ではなく、家の電話だ。
家の電話なので誰からかはわからないが、俺はつい反射的に電話をとってしまった。
「俺だ……」
それはよく知った声だった。
「新手の詐欺かなんかですか? どうしたんです? 工藤さん。こんなときに」
工藤選手だった。
「はっ、残念だったな。オリンピックどころじゃなくなっちまったな」
少し笑いながら、工藤選手はそう言った。
「ですね……これ、ドッキリとかじゃ、ないんですよね?」
「ああ……もうすぐ世界が滅びるんだってよ。本当……ありえねえよな」
「俺は……俺なんか、大口叩いてたのに、オリンピックで一回戦負けの、負け犬野郎のままエンディングですよ……」
「そうだな……まぁ、でも、俺が知っているさ。お前は誰よりも強いって……」
そう言ってまた少し笑った後、ため息まじりに工藤選手は言葉を続けた。
「俺はな、オリンピックで三回も金メダルを取ってるんだぜ。それなのに、お前には一度も勝てなかった。オリンピック前に二回、後に二回。四戦とも一本負けだ。お前はいっつも、自分は誰よりも練習してるって言うけど、お前はまだ二十一だろ。俺は三十五だ。総合的な練習量じゃあ、圧倒的に俺のほうが多いからな。その俺が十八だったときのお前にすら、手も足も出なかった。どんだけくやしかったかわかってんのか? 俺はもともと前回のオリンピックの後、引退するつもりだったんだ。それなのにまだ続けてるのはな、一度だけでもお前に勝ちたかったからだ。あーー! くっそ! 来月の試合楽しみだったのにな。対お前用の必殺技を用意してたんだぞ。そうだな……お前、ちょっと今から一試合やらねえか? 今どこにいるよ?」
「奈良です」
「くそっ……遠いな。無理か。あー! ちくしょう。もし、あれだぞ。天国みたいなのがあったらそこで勝負すんぞ。勝ち逃げなんて絶対に許さねえからな」
「はは……わかりました。やりましょう。天国で天使が審判なら、あんなヘボい判定しないでしょうしね」
「おい……ちょっと待てよ。あれじゃねえか? 天国だったら俺、全盛期の状態でやれるんじゃねえ?」
「それでも返り討ちにしてやりますよ」
なんだろう……少し楽しくなってきた。
工藤選手と話していたら、負の感情は全部どっかに行ってしまった。やっぱり工藤選手はかっこいい。俺と違って他人の目なんて気にしていなかった。きっと、ただ自分のやりたいようにやっているだけなんだ。
そうだ。俺だって汚名なんて気にする必要なんてない。俺は強い。俺は柔道が大好きだ。
試合がしたくてたまらなくなってきた。
もういい。はやく世界なんて滅びてしまえ。そして俺は天国で工藤選手と戦うんだ。必殺技とやらがどんな技なのか楽しみでしかたがない。工藤選手が必殺技だというくらいだから凄い技に違いない。それでも俺は負けない。絶対に勝つ。
なんせ俺は最強だからな。
誰がなんと言おうと俺はそう信じている。
それで、それだけで充分だったんだ。
0
お気に入りに追加
259
あなたにおすすめの小説

少し冷めた村人少年の冒険記
mizuno sei
ファンタジー
辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。
トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。
優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。

ユニークスキルで異世界マイホーム ~俺と共に育つ家~
楠富 つかさ
ファンタジー
地震で倒壊した我が家にて絶命した俺、家入竜也は自分の死因だとしても家が好きで……。
そんな俺に転生を司る女神が提案してくれたのは、俺の成長に応じて育つ異空間を創造する力。この力で俺は生まれ育った家を再び取り戻す。
できれば引きこもりたい俺と異世界の冒険者たちが織りなすソード&ソーサリー、開幕!!
第17回ファンタジー小説大賞にエントリーしました!

スライムと異世界冒険〜追い出されたが実は強かった
Miiya
ファンタジー
学校に一人で残ってた時、突然光りだし、目を開けたら、王宮にいた。どうやら異世界召喚されたらしい。けど鑑定結果で俺は『成長』 『テイム』しかなく、弱いと追い出されたが、実はこれが神クラスだった。そんな彼、多田真司が森で出会ったスライムと旅するお話。
*ちょっとネタばれ
水が大好きなスライム、シンジの世話好きなスライム、建築もしてしまうスライム、小さいけど鉱石仕分けたり探索もするスライム、寝るのが大好きな白いスライム等多種多様で個性的なスライム達も登場!!
*11月にHOTランキング一位獲得しました。
*なるべく毎日投稿ですが日によって変わってきますのでご了承ください。一話2000~2500で投稿しています。
*パソコンからの投稿をメインに切り替えました。ですので字体が違ったり点が変わったりしてますがご了承ください。

暗殺者から始まる異世界満喫生活
暇人太一
ファンタジー
異世界に転生したが、欲に目がくらんだ伯爵により嬰児取り違え計画に巻き込まれることに。
流されるままに極貧幽閉生活を過ごし、気づけば暗殺者として優秀な功績を上げていた。
しかし、暗殺者生活は急な終りを迎える。
同僚たちの裏切りによって自分が殺されるはめに。
ところが捨てる神あれば拾う神ありと言うかのように、森で助けてくれた男性の家に迎えられた。
新たな生活は異世界を満喫したい。

おっさんなのに異世界召喚されたらしいので適当に生きてみることにした
高鉢 健太
ファンタジー
ふと気づけば見知らぬ石造りの建物の中に居た。どうやら召喚によって異世界転移させられたらしかった。
ラノベでよくある展開に、俺は呆れたね。
もし、あと20年早ければ喜んだかもしれん。だが、アラフォーだぞ?こんなおっさんを召喚させて何をやらせる気だ。
とは思ったが、召喚した連中は俺に生贄の美少女を差し出してくれるらしいじゃないか、その役得を存分に味わいながら異世界の冒険を楽しんでやろう!

元チート大賢者の転生幼女物語
こずえ
ファンタジー
(※不定期更新なので、毎回忘れた頃に更新すると思います。)
とある孤児院で私は暮らしていた。
ある日、いつものように孤児院の畑に水を撒き、孤児院の中で掃除をしていた。
そして、そんないつも通りの日々を過ごすはずだった私は目が覚めると前世の記憶を思い出していた。
「あれ?私って…」
そんな前世で最強だった小さな少女の気ままな冒険のお話である。


俺しか使えない『アイテムボックス』がバグってる
十本スイ
ファンタジー
俗にいう神様転生とやらを経験することになった主人公――札月沖長。ただしよくあるような最強でチートな能力をもらい、異世界ではしゃぐつもりなど到底なかった沖長は、丈夫な身体と便利なアイテムボックスだけを望んだ。しかしこの二つ、神がどういう解釈をしていたのか、特にアイテムボックスについてはバグっているのではと思うほどの能力を有していた。これはこれで便利に使えばいいかと思っていたが、どうも自分だけが転生者ではなく、一緒に同世界へ転生した者たちがいるようで……。しかもそいつらは自分が主人公で、沖長をイレギュラーだの踏み台だなどと言ってくる。これは異世界ではなく現代ファンタジーの世界に転生することになった男が、その世界の真実を知りながらもマイペースに生きる物語である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる