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第五章『開戦』
163話 液体ガラス
しおりを挟む冬も深まってきて、フロートの街は雪に沈んでいた。
「いやー、暖かくて良いなぁ」
しかし、窓の外の景色とは裏腹に、僕らの執務室はポカポカしていた。
「溶錬水晶の窓って、明るいし、暖炉の熱は逃げないし、とっても良いよね」
マイナ先生は、僕の言葉に反応して国語の教科書から顔を上げた。最近は僕の前世の言葉を習得しようと、国語に熱心だ。この調子なら、教科書の翻訳が僕専属の仕事じゃなくなる日も近いだろう。
とはいえ、まだ小学二年生の教科書に入ったばかりだが。
「マイナ先生の実家にも、フロートガラスを職人付きで送っておくよ」
窓の外を眺めながら、お茶を一口飲む。王都滞在中と比較すると、領地では穏やかに時間がすぎる。
まぁ、こんな時間は休憩時間だけだが、休憩時間を取れるだけでも随分な進化だ。
「大丈夫。こないだ貰った給料でもう工事をお願いしたわ」
フロートガラスはまだ安くない。マイナ先生、親孝行だなぁ。
「村の領主館も建て替えたいよね。冬のスキマ風とか最悪なんだ」
去年の冬を思い出して、身震いする。村の領主館は、窓を閉めても風が入ってくる上に、雨季にカビが生えるせいか、閉め切るとちょっと臭い。
その点、新しい館はそういった不快が一切ない。石はセメントで固定されて隙間がないので風が吹き込まないし、ガラスのおかげで熱も逃げない。
部屋の暖炉では、パチパチと音を立てて、薪が燃えていた。この暖炉の熱気は、風呂の水を沸かしたり、床を温めたり、屋根の雪を解かすためにも使われている。
「潰すのはもったいないから、改修のほうがいいんじゃない? セメントで石の隙間を埋めるだけでもだいぶ違うと思うけど」
マイナ先生はわかっていない。前世、清潔な家に慣らされた僕が、水洗でないトイレに戻れると思っているのだろうか。
湯舟もなく、冬場も井戸の水で身体を拭く生活に戻れると思っているのだろうか。
「うちの村、下水道もないしなぁ」
フロートの街には、歩道の地下に下水道が完備されている。各家の排水をまとめ、処理場へ送り込んでいるのだ。いや、処理場は工事中で、今はまだ下流の川に垂れ流しだけど。
「そういえば、下水道でスライムと腐ネズミがさらに増えてるらしいわ」
腐ネズミというのは、ネズミ型の魔物、というよりネズミのゾンビである。さほど強くないが、疫病の発生源になることもあるレイスに進化する厄介な魔物だ。
オバラ先生は、最近この腐ネズミを熱心に観察しているらしい。
「まぁ下水から害獣が侵入しないようにはしてあるし、大丈夫じゃない?」
この街では、物理で習うサイフォンの原理を利用したトラップを、各排水口に設置することを義務づけている。まぁ、しばらく使わない空き家だと、水が蒸発して魔物があがってきてしまうこともありそうだが、今のところ問題は起きていない。
「定期的に、下水にさらし粉を撒いて消毒するとかどうかしら」
相当ネズミが嫌いらしい。マイナ先生の提案を、少し吟味する。
「うーん。それだと汚水を浄化しているスライムまで殺しそうじゃない?」
オバラ先生の仮説によれば、スライムとアンデッドは同じものらしいし。
「それもそうね」
アイデアが途切れて、会話も途切れる。
窓ガラス越しに、熱気球がゆっくり上昇していくのが見えた。王都から来た騎士団の訓練用に作った、4人乗りの熱気球だ。
今日は風がないので、よい降下訓練ができるだろう。
「あの熱気球っていうのもすごいよね。熱したら空気が軽くなる話は聞いたけど、それであんな高く飛べるとか考えても見なかった」
マイナ先生が隣にきて、僕の視線を追って熱気急を見上げる。どんどん高度を上げて、もう麦粒ほどのサイズだ。
「飛行船と仕組み自体は変わらないけどね」
机の上の望遠鏡を持ってきて、気球に向ける。
「あ、飛び降りた」
残念なことに、望遠鏡で飛び降りた人を追うことはできなかった。あれなら、『断罪の光』に狙われても大丈夫だろう。
「ホントに飛猿みたいだわ」
降下している騎士たちは、魔物の飛猿の姿を彷彿とさせる服を着ている。
マイナ先生はメガネをかけているので、降下中の人を追うことができているようだ。
「飛猿はちょっと苦手なんだけど」
飛猿は前世でいうモモンガやムササビのような特徴がある猿で、大きさは大型犬程度だ。だが知能が高いのか、石器を武器として好んで使い、上空からいきなり襲い掛かってくる恐ろしい魔物である。
僕が最初に戦った魔物であり、大泣きさせられた相手。
「あ、こっちくる」
マイナ先生が言うように、滑空して近づいてくる人影がある。そのまま街上空を旋回して空港予定区画に戻り、そこで花が咲くように次々パラシュートが展開された。
「けっこう低い位置まで粘れるようになったね」
ここからは見えないが、手順通りならパラシュート展開後携帯した小型の投げ矢を上空からばらまいて牽制し、降下後は即座に戦闘訓練に入ったはずだ。
「そうね。あんな風に奇襲されたら、きっと驚くでしょうね」
驚く程度で済んだらよいんだけどね。
さんざん嫌がっていたシーピュも、騎士団とうまくやっているようだ。舐められないよう模擬戦をやってみたら? とすすめたところ、本気でやって二十人抜きした末に、今回派遣された部隊の指揮官であるフラスク・パイソン卿に負けたらしい。だが、それで教官として認められたのだから大したものだ。
ちなみにフラスク卿は、オーニィさんの兄でもある。オーニィさんと同じく小人族の血をひき、体格は小柄だ。武闘大会でシーゲンおじさんと戦っているのを見たことがあるが、この降下部隊を率いるにはこれ以上ない適任者だろう。
「さて、じゃあ設計図の選定、やっちゃおうか」
僕たちが前に作った飛行船は、一応は空を飛んで移動もできたけど、急いで作ったので行き当たりばったりだった。今度はもっと大きなものをちゃんと作る。
そう思っていたのだが、僕らが留守の間に宿題として技術者たちに命じた設計図を一通りみたところで、大きな壁にぶつかった。
「全然無理そう。やっぱり、戦争に使うってイメージのせいかな? これなんか装甲付きだし」
浮力については十分に説明したはずなのだが、こちらの世界の技術者が設計すると、浮力と重量のバランスに大きな問題がありそうなものばかり。
「重量計算がわかりにくいせいじゃないかな。度量衡の統一、もう国に任せるんじゃなくて、イント君が勝手に決めたら良いんじゃない?」
国には長さや重さ、面積や体積などの統一を何度か提案したけど、僕の案待ちになっている可能性が高い。
多分この設計図も、計算せず感覚で書いているからこんなことになった気がする。マイナ先生の言うとおりだ。
「そうだよね。国が作ってるもので、分かりやすくて、重さが一定のものって何かある?」
「市場では、銅貨が基準になってるかな」
確かに、銅貨は材質も形もそろっている。多分重さも。
財布から銅貨を出して、手のひらに置いてみた。
「う~ん。これで多分五グラムぐらいかなぁ。最近はみんな持ってるから、これが分かりやすくて良いかも」
「じゃ、それでいきましょう。早速、教科書に書かなくちゃ」
「ちょっと待って。重さって、水の体積と重さに連動するから、教科書に載せるなら合わせないと」
水一ミリリットルで一グラム、一辺十センチの立方体が一リットルで1キロ。相関性があるので、厳密に計算しなくてはならない。前世では各単位がうまく連動していたことに何の疑問も持っていなかったが、あれをちゃんと定めたのは画期的なことだったと思う。
「むう。じゃあ、飛行船向けの重量計算だけ、やり方を公開しちゃう?」
「いや、水素ガスの浮力を計算しようと思ったら、体積計算が必要だから、やっぱり他の単位も統一が必要じゃないかな?」
駄目だ。前世の知識を持ち込むにも、単位がそろっていることが前提になる。そろそろ限界だろう。
「だよね。公式はだいたい把握してるから、それは賢人ギルドにお願いしとくよ。あと、飛行船の神術防御なんだけど、面白い新素材ができたらしいよ」
神術を防御する方法は3種類ある。仙術士や魔物が体内の霊力を圧縮して外部からの干渉を遮断する方法、ミスリルを使って神術や仙術を構成する霊力を散らして術そのものを成立させなくする方法、水晶で反射させてしまう方法だ。
「へえ。どんな素材なの?」
素材というからには、魔物の毛皮類、ミスリルメッキを含むミスリル、あとは水晶系、というよりケイ素系の素材ぐらいだろう
城壁に使われている花崗岩は石英を含むし、僕が戦場に盾として持ち込んだ鏡は、石英や水晶と同じ、ケイ素でできたガラスだった。
まぁ、あれを飛行船に持ち込むのはちょっと重すぎるだろうが。
「なんでも、液体のガラスらしいよ」
教科書で見た記憶がない物体が飛び出てきて、少し驚く。ガラスが液体にできるなんて聞いたこともないが、もし本当なら表面に塗るだけで効果がありそうだ。
「どうやって作ったの?」
「ショーン君が連れてきたガラス職人さんが、炭酸ナトリウムと砂の分量間違えて加熱したみたい。それで水に溶けるガラスができたらしいの。現場では水ガラスって呼ばれてるよ」
最近、僕の周辺では溶錬水晶のことがガラスと呼ばれるようになってきた。最近生産されるものが古来からの溶錬水晶と性質が違い、区別しないといけなくなったからだ。僕がたまにガラスと間違えて呼んでいたせいで、その名が定着したらしい。
「つまりケイ酸ナトリウムってことね。触ると危なかったりしない?」
炭酸ナトリウムは炭素と酸素とナトリウムでできている。水晶浜の砂はおそらく二酸化ケイ素。反応式から考えて、できたのはケイ素とナトリウムと酸素でできた物質だろう。
未知の化学物質だ。多分アルカリ性だと思うが、危険性はあるのだろうか? せめてリトマス試験紙が欲しいところだ。
「今いろいろ研究中。害がなくて、本当に防御効果があれば、遠くから狙い撃たれる心配もなくなるんだけどね」
もし実現したら、ショーン兄さんに相応のお礼をしなくちゃならないだろう。この発見の応用先は、多分飛行船だけに留まらない―――
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