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第一章『死の谷』

31話 カリウム石鹸と次亜塩素酸ナトリウム

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「え?あるの?」

 マイナ先生はうなずいて、中庭に置かれた荷物の中から壺を取り出した。ラベルが貼られた壺がいくつか箱に入って置かれている。

「うん。母さまいわく、イント君は検証が足りないんだって。だからあの後も色々試してたみたいなの。でね。あの石鹸、沢の水だとちゃんと泡立ったんだって」

 検証が足りない? 意味が分からない。水を変えただけで泡立つとか、そんな事がありえるのだろうか?

「え? でも温泉で一緒に試した時は……」

 マイナ先生は困ったように笑う。

「うん。塩水はダメみたい。あと、長い間お風呂に入っていないような人も泡立たないみたいって、母さま言ってたよ」

 なるほど。特定条件下では泡立たないという事か。

 何も言っていないのに、化学の教科書が浮かび上がってくる。そのままパラパラとめくれて、末尾の「探究活動の進め方」というページが開かれた。
 仮説を立てて、実験により検証し、まとめて、考察して、発表するという手順が記され、失敗した時はなぜ失敗したのか仮説を立てて分析すべきと書いてある。

 自称天使さん、嫌味だろうか。

 確かに僕は一回の実験で失敗と断定し、何が悪かったかの仮説は材料が悪かったぐらいしか考えなかった。これでは検証不足と言われても仕方がない。

「ということは、実は石鹸を作るのに成功してたってこと?」

「うん。母さまは油と炭酸カリウム?の配合比率をいろいろ試したり、いろんな混ぜ物を試したりしたみたい。で、こっちがイント君の作った石鹸で、こっちが母さまが色々試して一番泡立ったって言ってたやつ」

 マイナ先生が小さな壺を二つ渡してくる。昨日ターナ先生の姿を見かけなかったのは、この検証作業をしていたためだったのだろう。

 さすが本職の研究者。探究心がすごい。

「ちなみにターナ先生は何混ぜたの?」

 蓋を開けると、上澄みがゲル状になったものが出てきた。

「『黄泉の穴』の湧き水って言ってたかなぁ。息を吹き込むと白くなる不思議な水なんだ。ここにくる前に調査して、美容関係の効能は発見できなかったんだけど、カバンの中に紛れ込んでたみたい」

 『黄泉の穴』はシーゲン子爵の領内にあり、『死の谷』に次ぐ魔物の巣窟として知られている。どんなところかは知らないけど、次ぐと言われた時点で行きたくない場所であるのは間違いない。

 父上たちの露払いがあってなお、あの頻度で魔物に出くわすのだ。一人で近づいただけで命はないだろう。

 それにしても、息を吹き込むと白くなる水って、実験で使う石灰水みたいだ。

「効能はなかったのに、混ぜてみたんだ……」

 研究者というのは良く分からない。それで泡立つようになったというのも良く分からない。

「でもすごい泡立ってさっぱりして、気持ち良かったらしいよ? 帰ってきたら、植物から取った油でも試してみたいって言ってた」

 骨喰牛の油では飽き足らず、まだ試すつもりなのか。良く分からないが、今度はターナ先生に検証不足と言われないよう、ちゃんと試そう。

(天使さん天使さん、何で僕のより泡立つようになった思う?)

 とりあえず、何が起きたか、自称天使に聞いてみる。
 
『それはさすがに契約外なのである。まぁ、その湧き水が石灰水なら、正体は水酸化カルシウムなのであるな。あとは自力で考えるのである』

 ふむ。これは契約外か。でも律儀にヒントをくれるあたり、なかなかありがたい奴だ。
 
 石灰水に息を吹き込んで白くなるのは、二酸化炭素と結びつきやすいからだ。それを添加したとなると、元々入っていた炭酸カリウムの炭酸部分と水酸化カルシウムのカルシウムが結びついて、炭酸カルシウムが生成された可能性が高い。
 
 確か炭酸カルシウムは水に溶けないで沈澱したはずだから、石鹸となっている上澄み部分には残らない。
 
 化学式を書いてみると、残った元素から水酸化カリウムが生成されることがわかる。これもアルカリだから、鹸化は起きるだろう。むしろアルカリ性が強くなってるので、よりしっかりした石鹸になるはずだ。

 よし、僕が作ったものより泡立つ理由の仮説はできた。あとは検証だけだ。

 目的はウィルスだか細菌だかの消毒なので、手や顔、身体を洗って腹痛、下痢、嘔吐が起きなければ消毒できたと判断できる。

 問題は石鹸をすすぐ水だ。この水が汚染されていたら、元の木阿弥になりかねない。

「ねぇ、その記号は何かしら? 何で一人で納得してるの?」

 マイナ先生は、僕がチョークで小さな石板に化学式をメモをしているのを、ジト目で睨んでくる。何で声に棘があるのかはわからないけど、ちょっと気持ち良い。

「興味あるなら後で説明するよ。とりあえずその石鹸を使ってみよう」

 僕は物置部屋に戻ると、壺から電極を抜いて臭いを嗅いでみる。塩素系漂白剤、というよりはプールの臭いに近いので、やや薄いかもしれないが、次亜塩素酸ナトリウムは出来ているはずだ。

「それは何なんで? 何か妙な臭いがしやすが……」

 僕が持ち出した壺の臭いを嗅いで、シーピュさんは顔をしかめた。興味を持ったのか、マイナ先生も臭いを嗅いでいる。

「秘伝の消毒液だよ。石鹸で洗った後、これを混ぜた水ですすぐんだ」

 煮沸した水でも良いけど、冷まさないと火傷してしまう。今すぐやるならこれが一番良い方法だ。

 だが、シーピュさんたちはどうも理解できていないらしい。田舎すぎて石鹸が普及していないので、使い方がよくわからないのだろう。

「おや、皆さま到着されてたんですか? それにイント様? 何かされるんでしたらわたしにも声をかけてくださいよ」

 治療院のオバラ院長は奥の扉から顔を出して僕らを見つけると、そのままこちらにやってきた。ホクホクとした笑顔だ。

「ちょっと手を洗うだけだよ。オバラ院長を呼ぶほどの事でも……」

「それにしては、その壺からは変な刺激臭がしますね。こちらの壺は……牛脂ですか?」

 オバラ院長は目ざとく次亜塩素酸ナトリウムの壺と、ターナ先生の作った方の石鹸の壺を確認する。

「そちらは賢人ギルドの教授である母、ターナ・フォートランが精製した石鹸というものです。気をつけてくださいね?」

 揉み手をしかねない雰囲気のオバラ院長に、マイナ先生が冷たい声で返す。迫力ある笑顔で、ちょっと怖い。

「フォートラン? 失礼ですが、フォートラン伯爵家と何か関係が?」

 オバラ院長の声が堅くなる。世襲貴族の階級は、偉い方から順番で公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵だったはずだ。

「フォートラン伯爵は叔父で、母の弟に当たります」

 マイナ先生の言葉と同時に、ザッと、オバラ院長を含めた村人たちが平伏する。一糸乱れぬ動きだ。

 しかし先生が伯爵家の系譜って、マジか……。コンストラクタ家は男爵家だから、2つ上の階級だ。

 頭を下げるべきか迷った末に、タイミングを逸した僕は、棒立ちのまま様子を見守った。礼儀作法の勉強、今度からちゃんとしよう。

「知らぬ事とは言え、ご無礼をいたしました。石鹸についてはどのように気をつければ良いでしょうか?」

 オバラ院長は改まって顔を上げる。マイナ先生は落ち着いた様子でしゃがみ、オバラ院長の肩に手を置く。

「私たちはフォートラン家を名乗ることは許されていますが、貴族位ではない平民です。平伏は必要ありません。立ってください」

 オバラさんやシーピュさんたちは、素直に立ち上がる。

「石鹸については、改めてヴォイド様を交えて話し合いをしましょう。その話はまた今度にして、さ、イント君、続きを」

 マイナ先生に促されて全員の視線が僕に集中する。そうだった。まだ説明中なんだっけ。

「ああ、ええと、それじゃ説明するね。まずお腹を下す原因だけど、ウィルスや細菌といった、目に見えないほど小さな魔物みたいなものでーーー」

 僕は今日何回目かの講義を始めた。
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