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第一章『死の谷』
29話 感染ルートの分析と対策
しおりを挟む感染ルートを特定するため、館の中を見て回った結果、可能性が高そうな場所をいくつか見つける事が出来た。
まずは僕も駆け込む羽目になったトイレ。当たり前かもしれないが、この館のトイレは水洗ではない。汲み取り式の、いわゆるボットン便所だ。
各階のトイレから1階に落ちるようにできていて。そこで溜める構造になっている。
構造上どうしても臭いは漏れるので、館の中はどこもちょっとトイレ臭い。
こんなのを掃除していたら、そりゃ感染するだろう。
さらに、今は60人程度の村人が集まってお腹を壊しているので、館内のトイレだけでは足りず、堀の外にも仮設トイレが並んでいる。こちらも頻繁に壺の中身を捨てる必要があり、リスクはかなり高い。
その他、聞き取りしてみると、最近は掃除当番をしていない人にも感染が広がっていることが判明した。その大部分は患者の衣類の洗濯を担当した人たちだったらしい。
この館の水源は中庭の井戸だけなので、洗濯も中庭で行われている。そして困ったことに、洗濯に使われた水は、中庭に撒かれたようだ。
あんなところに撒いたら、その水は石畳の隙間から地面に染み込んで、再び井戸水に混入してしまう。
「と、言うわけで、もう井戸の水は汚染済みと考えた方が良いですね」
館の一室で、僕は頭を抱えた。アブス先生とパッケ、それにアンが同じテーブルを囲んでいる。
「あらあら。坊っちゃまは難しい言葉を知っているんですねぇ」
真面目に話しているのに、アンは首を傾げて楽しそうにしている。あんまり緊張感がない。
一方、パッケは腕を組んで、深刻な表情だ。
「あの井戸が使えないとなると、川までいって汲んでこないといけませんね。体力がある健康な者はほとんど残っていませんから、新たに村人を呼んで来なければなりません」
パッケの言葉に、オバラ先生が異論を唱える。
「そうやって手伝ってもらった村人が、家にウィルスとやらを持ち帰ったらどうします? 村全体に感染が広がったら取り返しがつきませんよ。下痢を出し切って一度回復した者が再度体調を崩しているのも、ここの汚染された水を飲んで再感染している可能性があります。同じように感染源が村中の水源に広がったら、村を捨てる以外なくなりませんか?」
確かにお腹を下す水しかない村になったら、もう生活なんてできない。
にしても、再感染ってどういう意味だろう? 免疫ができれば再感染することはなくなるはずだったのでは。
「いや、そこは多分大丈夫だと思う。水は一回沸騰させれば、ウィルスは死ぬはずなんだ」
僕は少しだけ口を挟んだ。煮沸消毒。教科書にも載っている飲み水の衛生管理の基本である。まぁ、こちらの世界でも通じるかはやってみないとわからないけど。
「坊っちゃまは『白湯』もご存知なんですか。古来、口に入れるものは、すべて火を入れると良いと言われていますからねぇ。私はいつもやってますよ」
アンが感心した様子で頷いている。つまり、アンとストリナが感染していないのは、そのおかげなのだろう。
「なるほど。アンさんに私の食事をお願いしたのは正解でしたね。他の方は確かに井戸から直接水を飲んでいました」
オバラさんの分もアンが用意していたのか。それで全員感染していないと言うことは、煮沸消毒に効果があるのはもう間違いないだろう。
「煮て問題がなくなるんでしたら、洗濯物を鍋で煮る『煮洗い』って方法を祖母さんから聞いたことがありますよ。どうしても取れない臭いを取るためにやるんですけどねぇ」
アンが提案してくる。さすがメイド。臭いの原因は雑菌なので、煮たら雑菌は死ぬだろう。理に適っている。
「それいいなぁ」
僕が呟くと、オバラさんが勢いよく頷いた。テンションが少しずつ上がってきている。
「では、水も洗濯物も煮れば良いということで、解決ですね! でも、衣服にそのウィルスとやらが付着していたとするなら、当然身体にもついていますよね? まさか熱湯をかけるわけにもいきませんし、どうしましょう?」
確かに、トイレ掃除後、水で手を洗っても感染したなら、身体を拭う程度ではウィルスは残ってしまうということだ。風呂という手も考えられるが、みんなでお湯を共有するのは逆効果かもしれない。
教科書の通りにやるために必要なものは、手洗い、身体洗い用の石鹸とトイレの消毒液だが、こちらではそもそも入手が難しい。お店で色々買えた前世は、やっぱり便利だったのだろう。
「あと、トイレ掃除もだよね。それについてはちょっと考えるから、とりあえずこれまで以上に丁寧に手を洗わせようか」
これで今できる感染症対策は全部だろう。
「わかりました。イント様がいてくれて良かった。ああ、そうだ、今食事が取れなくなっている重症の患者がいるのですが、全部吐いてしまうので衰弱が激しく……。何か方法はないものでしょうか?」
オバラ先生はまた無茶を言う。仕方ないので、少し考えてみる。
吐いてしまうということは、胃液も同時に失っていると言うことだ。胃液は塩酸と習ったので、体内での原料は塩だろうというのは推測できる。だから塩分の補給は不可欠として、他にも最低限カロリーも必要だ。
すぐに考えつくのは、教科書で熱中症対策として出てきたスポーツドリンクだろう。
「水に溶ける甘いものって、何がある?」
だがこちらの世界で砂糖を見た記憶がない。
「それなら坊っちゃま、ハチミツがありますよ」
ふむ。じゃあそれで良いか。
「じゃあ患者さんの飲み物は、水を沸騰させて、そこに塩とハチミツ入れよう。味は薄めで、作る人が美味しいと思うくらいで作って、あとは患者さんの意見聞いて濃さ調整して」
正直、細かい比率はわからない。そのあたりは現場で何とかしてもらおう。
「わかりました。塩とハチミツは館にあるものを使わせてもらってよろしいですか? あと、生姜も入れて良いでしょうか?」
オバラ先生は少し考えて、生姜の追加を提案してくる。
「そこは任すよ。僕は医者じゃないし」
何で僕に聞くんだろう?その辺は医者の領分のはずだ。
「んじゃ、僕はちょっと試してみたいことあるから」
後の事をみんなに任せて、僕は部屋を出た。
その足で一階の資材置き場に向かう。
「天使さん、ちょっと化学の教科書お願い」
『またであるか。教科書を持たずに呼び出されても困るのであるな』
声だけが聞こえてきて、天井をすり抜けて教科書が降ってくる。
『教科書召喚の分は霊力をいただくのである。さて、何が知りたいのであるか?』
少し体がだるくなった。本当に霊力を抜いたのだろう。まったく容赦がない。
「塩を電気分解する時の電極を教えて?」
パラパラとページがめくられて、該当ページが出てくる。
「陰極はFe、確か鉄か。陽極はC、炭素ね」
良かった。鉄の棒も炭の棒も簡単に手に入る素材だ。
ありがとう、イケメンじゃない化学の先生。ありがとう、無駄話。
僕らは、あの話に救われるかもしれない。
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