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第一章『死の谷』

19話 スライムと浸透圧

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 塩化ナトリウムの水溶液が飽和して、析出が始まった頃、僕の説明は終わった。

 説明しながら、鍋の水位が低くなった鍋の中身を別の鍋にまとめて行って、空いた鍋に新しい温泉のお湯を注いでいたので、今析出が始まっている鍋は二つだ。

 その鍋底には、順調に薄いピンク色の粉が沈殿して行っている。

「これが『析出』ね。水は湯気になって、減っていって、塩分が濃くなって溶けきれなくなると『析出』するわけね……」

 マイナ先生は鍋を混ぜながら、増えて行く塩を面白そうに見ている。理解してもらえたようで何よりだ。

「で、ここからどうするの?」

 マイナ先生に問われて、考え込む。そういえば、ここからどうしたら良いのだろう。前世では塩は気密性の高い容器で保存していた。湿気が大敵だからだが、湿気るも何も鍋の中で煮ている時点で塩は濡れている。

(ちょっと天使さん、塩の乾燥法って知らない?)

『ふむ。残念ながらそんな記述は教科書で見た覚えがないのである』

 心の中で問いかけると、思ったとおりの答えが帰ってきた。僕も教科書に載っているのを見た覚えはない。だが、これで一つはっきりしたことがある。自称天使は教科書に載っていないことは教えてくれないらしい。

「とりあえず筵に広げて乾燥させようか」

 そもそも外気に晒したら湿気るから、密閉している気もするが、他に思いつかないのでしかたない。

「なるほど。水分を気化させるのね。干し肉が乾く原理と同じね! でも筵だと肉の臭いがつきそうよね」

 マイナ先生はそう言って考え込んだ。ここに常備されている筵は、肉を干す時に使われているものだ。肉の臭いがこびりついているし、異物もつきそうだ。

 他の方法を考えるしかない。そもそも、塩が湿気るメカニズムは何だろうか?教科書にそれが載っていた覚えはないけど、似たようなものとしては浸透圧がある。

 濃い水溶液と薄い水溶液を半透膜で挟むと、薄い水溶液側の水分だけが濃い方に染み出していく。逆はない。湿気る原理が同じようなメカニズムだとすると、何で乾いた状態で売っていたんだろうか?

「例えば、別の鍋で炒めて水分だけ飛ばすとかダメなのかな? こうやって塩だけが残るってことは、塩は蒸発しないんでしょ?」

 言われてハッとした。マイナ先生は僕が説明した事を完全に理解してくれているらしい。僕よりも理解が深いかもしれない。

(天使さん、塩化ナトリウムの融点を教えて)

『まったく、なんでも聞くのであるなぁ。融点はこの一覧にあるのである』

 また教科書が浮かんでくる。一覧表によると、塩化ナトリウムの融点は約800℃。水は100℃だから、800℃以内で炒めれば水分だけが気化するだろう。何の問題もない。

「いけそう」

「やった。じゃ早速、塩を炒るための竈をもう一個作ろっか。石拾ってくるね」

 マイナ先生はなぜかウキウキしている。スキップしそうな勢いで、どこかに行ってしまった。少し離れた位置では、シーピュさんも薪や温泉水の追加のためにウロウロしてくれている。

 みんなやる気マンマンだが、心配な事が一つある。塩が薄ピンクで白くないので、本当に塩が出きているかはわからないのだ。もし塩でなければ、頑張っている人に申し訳ないのだが―――

「ちょっと試しておいた方が良いかな?」

 前世でピンクの岩塩を見たことがあるので、ピンクだから塩でないとは限らない。組成の分析ができれば楽なんだろうけど、これを塩と証明する方法がわからない。思いつく方法は舐めてみることぐらいだろうか。

 沈澱している粉を少しだけ柄杓ですくって、覗き込む。かなり熱そうだ。

「あっつ」

 少しだけ手に取って舐めてみると、案の定熱かった。

「しょっぱ」

 舐めてみた感じは紛れもなく塩の味だった。変な臭いもしない。少し雑味があるような気がするが、これぐらいなら成功のうちだろう。むしろ美味しいかもしれない。

「ふむ。そろそろお昼も準備しないとなぁ」

 昨日の晩にしこたま食べたので、みんな朝食を食べていないっぽいけど、昼は食べるはずだ。この塩で何か作ってみても良いかもしれない。

 と、言っても、魔物の肉しかないので串焼きしか思いつかないが。

「ピイイイイ!!」

 お昼ごはんの事を考えていると、唐突に沢の方から呼子の笛が響き渡った。うちの村で使われている連絡用の笛で、意味するところは一つだけ。「集まれ!」だ。

 魔物を発見したり、よそ者が許可なく侵入している場合に吹かれるもので、マイナ先生やターナ先生にも渡してある。笛が鳴ったのは、沢の方角だ。沢には手頃な石がたくさんあったので、マイナ先生が拾いに行っているかもしれない。

 僕は慌てて短剣と弓矢を拾い上げると、そのまま駆け出す。

 視線の隅で、シーピュさんも同じように駆け出しているのが見えた。僕より少し遅れて動き出したが、僕とは違いしっかり革鎧を着こみながら走っているあたり、手慣れた感じがする。

 今さら取りに戻ってももう遅いので、そのまま全力疾走にうつった。8歳なのに高校生だった頃より遥かに速くて、体調不良のシーピュさんを軽々と引き離して沢に到着した。

「イ、イント君……」

 マイナ先生は一応無事だった。服、具体的には肩のあたりが少しだけ溶けている。

「大丈夫ですか?何があったんです?」

 マイナ先生は、震えながら地面を指さした。見ると、青いビニールシートのようなものが筵の上に乗っていた。

「あれがどうかしたんですか?」

「どうかしたんですかって、あれはスライムだよ? 気づかず踏んで、危うく死ぬところだったんだから!」

 スライム? あれ? スライムってシート状なんだっけ? 雫、もしくは丸っこい形ではなかっただろうか。

「スライムって危ないんでしたっけ?」

 僕のイメージは雑魚キャラなんだが。

「そりゃ危ないよ!斬っても液体みたいな身体ですぐ再生するし、神術もほとんど効かないし、近づいたら溶解液飛ばしてくるし、動きが遅いからマシだけど、踏んだら食べられちゃうんだから!」

 そう言えば、サンダルも少し溶けている。確かに背筋が寒くなる生き物だ。端っこがウゾウゾと触手のように動いている様子は、まるで青いナメクジの群れが動いているかのようだ。生物の授業で見た粘菌の移動の早送り動画があんな感じだった。

「それは無事で良かった」

 キャンプの周辺には義母さんやアブスさんが仕掛けた魔物用の罠があるはずだけど、どうやらスライムには罠も効かなかったらしい。

「もう。またそんな気楽な……」

 マイナ先生はブツブツ呟いているけど、ちょっとマズイ。スライムは一匹ではないらしく、森の奥から青いシート状のスライムがじわじわと這い出てきている。きっと、食物連鎖では下位の分解者なんだろう。動きが信じられないほど遅い。

「なんかいっぱい来てますけど、あれが押し寄せてきたらどうなります?」

「そうね。キャンプは撤収するしかないんじゃないかしら。熱いものを避ける性質はあるらしいけど、燃えはしないそうだし。あ、ジェクティ様のあの神術なら、燃やせるかもしれないけど」

 義母さんの火柱クラスの神術でないと燃やせないのか。思ったより厄介な魔物らしい。見た目はナメクジの大群の行進にしか見えないのに。

「ナメクジ? あ、浸透圧だ!」

 脳内をヒラメキが駆け抜ける。ナメクジは塩をかけると萎んで死んでしまう。理由は、体内の水分が濃い塩分の浸透圧で吸い出されて、干からびるからだ。

 スライムは見た目上は粘菌に近そうだけど、ナメクジに塩が効くなら、粘菌にも塩は効くはず。

「先生、ちょっと塩取って来ますんで待っててください。みんなが集まってきたら、近づかないように言って!」

「え? 塩? 何で?」

 納得していない様子のマイナ先生を放っておいて、ようやくたどり着いたシーピュさんに声をかけて、再び全力疾走で竈のところまで戻る。

 大きな鍋の中には、すでに小さな壺ならいっぱいにできそうなほどの塩が沈殿していた。熱いので、麻袋の中に柄杓ですくって流し込む。食べ物を入れる袋ではないから、もし効果がなくてもこれはもう食べられない。勿体ない。

「シーピュさん、こんな感じで塩を運んできてください。できているのはあるだけ全部!」

 また遅れて帰ってきたシーピュさんに一回だけやり方を見せて、先生のところに戻る。シーピュさんは息も絶え絶えで、かなり疲れている様子だ。まだ本調子ではないのだろうか?

「おかえりイント君。それで、その塩をどうするの?」

 元の場所に戻ると、マイナ先生が言われた通りに待っていた。キャンプの守備に当たっていた狩人さんたちも集まって来ていて、遠巻きにスライムを監視している。

「ちょっと試したいだけなんですけど、僕の推測が正しいなら……」

 袋の中から、塩を一掴み取り出して、相撲取りの土俵入りのようにスライムに向かって塩を振りかけた。

「え?なんで?」

 一瞬間を置いて、スライムがぞわぞわ動き出す。まるでもがいているように、白い粘液がにじみ出てきた。

「もいっちょ!」

 まだ動くので、二掴み目を振りかけた。するとさらに動きが早くなって、変な汁が飛び散りだしたので、少し距離をあける。もがいている様子から見て、これは効いてるに違いない。

「えええええ」

 マイナ先生をはじめ、狩人さんたちが驚いた顔でスライムを見ている。そしてスライムの動きはどんどん悪くなって、ついに動かなくなった。

 ふむ。僕の仮説は正しかったらしい。スライムは塩をかけると、少なくとも動かなくなる。死んだかどうかを確認する方法は、また考えなければならないけど。
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