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第一章『死の谷』
15話 流行病の正体 その1
しおりを挟む翼竜の騒ぎはあったものの、石鹸の壺は無事だった。
あの後、僕らが何をしているのか見に来た義母さんが、神術で壺の中身を攪拌してくれた。それを布で何度か漉して灰を取り除き、得られた液をさらに煮詰めて、わずかに沈殿物がで始めたところで温めておいた骨喰牛の獣脂を壺に少しだけ入れる。
「じゃ、混ぜるわね」
義母さんは楽しそうに杖で空中に図形を書いて、最後にポンと杖でタップする。
すると鍋の中身が高速でグルグルと回り出す。神術って便利すぎやしないだろうか? 前世もいろんな道具があって便利だったけど、こちらは杖一本で他の道具がいらない。もしやこちらの世界の方が便利なのではないだろうか?
「オリジナルの神術をこんなことのために……」
マイナ先生は、何を見てもやたらと驚いている気がする。神術士を見たことがないのだろうか?
壺の中では液体がグルグル回っていて、固まる様子はない。混ぜれば固まるかと思ったが、そうでもないらしい。
「この香水、いや、お酒はいつ入れたらいいんですの?」
ターナ先生が小さな壺を取り出す。薔薇とアルコールの香りがする香水で、マイナ先生とターナ先生からほのかに漂ってくる香りと同じものだ。
そう言えば忘れていた。石鹸作りで、アルコールは重要な触媒だと言われていた。アルコールは油脂も、本来の材料である水酸化ナトリウムも溶かすので、鹸化を促進できる。炭酸カリウムがアルコールに溶けるかどうかは覚えていないが、きっと似たようなものだろう。
「油と溶液の比率が重要なんですけど、わからないのでとりあえず入れてみましょうか」
グルグルと自動的に回る壺の中身に、さらに油を少しだけ注ぐ。油はたくさんあるけど、炭酸カリウムの水溶液はさほど量がない上にアルカリが水酸化ナトリウムより弱い。おそらくこの油を鹸化し切ることはできないだろう。
そんな事を思いながら、ターナ先生から受け取った香水を鍋に投入する。
神術の効果が切れ始めたのか、撹拌が少しずつ弱くなり始めた。授業でやった時は一時間で全部終わっていたけど、今回はどうだろう?
壺を火から降ろし、撹拌される壺を見ながら一息つく。それにしても暑い。熱帯夜と火の前にいたせいで全身じっとりと汗ばんでいる。
とっととお風呂に入って着替えたい。
「ジェクティ姐さん! シーピュの野郎が倒れやした! 例の流行り病かもしれやせん! 看てやってくだせえ」
後は待つだけと気を抜いた瞬間に、義母さんを呼びに狩人さんが駆け込んできた。また誰か倒れたらしい。
「わかったわ。イント、あなた院長から流行り病について聞かれてたわよね? 一緒に行くわよ」
そう言えばそんな話もあったっけ。僕は医者じゃないからなんとも言えないと思うけど。
嫌だったけど、義母さんが手を引いてくるのでやむを得ず後をついて行く。狩人さんが案内してくれた場所は、夕食の肉を焼いているあたりで、とても良い匂いがした。
「暑いわね」
いつの間にかついて来ていたマイナ先生がそう呟く。暫定の調理場になっていたそこは、確かに他よりもさらに暑くなっていた。たくさん火を使っているからだろうが、ちょっと尋常じゃないレベルで暑い。
作業している人たちも、汗だくになっていた。
「こいつでさ。ここについた時にはちょっとふらついてたんですが、さっき倒れやして」
案内された先では、顔面蒼白の若い男の人が地面に寝かされている。彼がシーピュさんなのだろう。
目が盛んに泳いで、全身が痙攣していて、明らかに異常な状態になっている。
「シーピュ? 大丈夫? 私の事がわかる?」
義母さんの呼びかけに、しばらくしてから、シーピュさんはうなずいた。反応はかなり鈍い。
「さっき、痙攣しながら吐いてやして……」
案内してくれた男が説明してくれる。この暑さの中ここまで走ってきて、魔物と連戦して、さらにこの暑さの中で調理をしていたのだ。けっこう過酷だったに違いない。
「ん? 暑い?」
何かひらめくものがあった。そう言えば学校では、暑い中運動する時は口が酸っぱくなるぐらい『水分補給』をしろと言われていた。それは熱中症予防のためだったはずだが、もしかして……
『ちょっと悪いんだけど、保健の教科書出してくれない? 熱中症について書いてあるとこお願い』
自称天使は会話の途中でちょくちょく出てきていたので、話を聞いているのはわかっている。なので日本語で声をかけてみた。
『熱中症、であるな? 了解したのである』
すぐに返事があり、見覚えのある教科書が、空中に出現してパラパラとめくられる。これは中学の頃の教科書だ。
ページが開かれた。熱中症対応のフローチャートのページだ。
「ちょっとイント君、さっきの言葉は何? 何で光ってるのよ?」
マイナ先生が驚いて声をかけてくる。
自分の手を見ると、確かにうっすら光っていた。夕暮れ時なので、光っているとちょっと目立つ。多分自称天使のイタズラだろうが、今光る必要がどこにあるんだろう?
「気にしないで。シーピュさんの病気の原因がわかるかもしれないんだ」
気がつくと、マイナ先生だけでなく、義母さんを含めた全員の視線が僕に集中している。期待に満ちた目だ。
その視線を無視して、教科書を読み込む。熱中症については、4ページほど記載があり、熱中症の原因、よくある症状と、対応のフローチャートも載っていた。
熱中症は、汗をかいて水分や塩分が不足すると発症するらしい。昨日村で塩が不足している話は聞いていたので、原因はおそらく塩不足だろう。
教科書には、手足や腹筋の痙攣や筋肉痛、倦怠感、めまい、嘔吐感、顔面蒼白、倦怠感、足がもつれる、立ち上がれなくなる、応答が鈍くなるなどが症状として紹介されていた。シーピュの症状と一致するので、これは熱中症の可能性が高い。
問題はフローチャートの行き先だ。ひどい時の対応は『救急車を呼ぶ』だけ。
こちらの世界で救急車と言われても困るし、その行き先になるであろう治療院の院長は、熱中症の存在を把握していなかった。
症状が軽い場合と、救急車到着までの応急処置については書かれているので、今はそれをやるしかないだろう。
「まずはシーピュさんを涼しいところにうつそう。運んでくれる? あと誰か水と布を持ってきて」
近くの狩人さんたちに指示を出すと、光っているせいかみんな異議を挟むことなく従ってくれる。子どもの言うことでも、光っていると聞いてしまうものらしい。親の七光りなのか、後光効果か、どちらにせよ今は都合が良い。
「義母さん、少しでも良いんだけど、塩は用意できる?」
義母さんは明らかに気圧されている様子でうなずく。
「ええ。ほんの少しだけならあるわ。必要なの?」
僕がうなずくと、義母さんは馬から降ろされた荷物がまとめて置いてある場所に走って行った。
僕は運ばれるシーピュさんの後ろについて行きながら、食塩水の作り方について考える。
通常の場合は0.1%~0.2%の食塩水、痙攣が起きている場合は生理食塩水と呼ばれる0.9%程度の食塩水を飲んでもらう必要がある。ざっくりいうと、1リットルに対して1~2グラムか、9グラムの食塩を入れる必要があるということだ。だが、それを量る道具をこちらの世界で見たことがない。
水分と塩分の補給に成功したら、あとは身体を冷やして休ませるだけだが、肝心の食塩水の作り方がわからない。味見しながら勘でどうにかするしかないだろう。
「イント君、もしかしてだけど、この病気の原因は塩不足ってこと?」
マイナ先生が小声で聞いてくる。僕の行動でだいたい察したのだろう。さすがマイナ先生だ。
「そう。正確には、水分と塩分、どっちが不足しても起きる病気らしいよ。汗ってしょっぱいでしょ?だから汗をかくと起きやすいんだって」
マイナ先生は嬉しそうに何度もうなずいている。
「すごいわ。今王国は塩不足だから、それで流行り病みたいになっちゃってるのね」
何がすごいのかさっぱりわからない。熱中症ぐらい、誰でも知っているだろう。知らないのは辺境の田舎だからだろうか? ちょっと不安になってくる。
「イント、塩を持って来たわ。これで良い?」
「坊ちゃん、布と水です。」
手元に必要なものが集まってきた。あとは試すだけだ。
「じゃあ水を二つに分けて、一つに布をつけて絞って、シーピュさんの身体を冷やしてあげて。全身だよ。残った水はこっちに持ってきて!」
義母さんが持ってきた塩の携帯用の小壺をのぞくと、多分一掴み分ぐらいはありそうな気配だ。
僕は二つに分けられた水がめのもう一つを受けとると、まず4分の1ほど塩を入れて味見をしてみる。味がわからないので、もう4分の1を投入する。
少ししょっぱくなった。よくわからんが、塩と水が補給できれば良いはずだから、こんなものだろう。
と同時に、倦怠感がやってくる。マイナ先生を助けた時にも感じた、霊力切れというやつだ。
『ちょっと天使さん、しんどいからもう光らせるのやめて!』
『もう良いのであるか?』
笑いを含んだ返事が返ってくる。やっぱり自称天使の仕業だったらしい。身体を包む光は、最後にパッと強く光るとそのまま消えた。
「坊ちゃん、その聖言は何の術なんで?」
介抱にあたっていた狩人さんの一人が聞いてくる。多分水がめに何か術をかけていたように見えたんだろうけど、日本語は聖言じゃない。
「いや、そういうのじゃないよ。単なる薄めの塩水だけど、これをゆっくり飲ませれば良くなるはずなんだ」
正直に答えるが、狩人さんは何か納得した顔で僕から水がめを受け取った。
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