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第一章『死の谷』

3話 心肺蘇生と出会い

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 狼は目の前をうろうろしながら、じりじりと距離を詰めてくる。

 僕が持っている棒きれを警戒しているのだろう。狼の視線は棒から離れない。さっきから仲間が剣で首を飛ばされたり、杖で燃やされたりしているので、それを警戒しているに違いない。

 僕は狼の前進に合わせて、じりじりと後ずさりする。

 もう充分時間は稼いだはずだ。そろそろリナはみんなのところまで辿りつけただろうか。そして、みんなは僕の窮地に気づいてくれただろうか。

「グルゥ!」
「うわっ!」

 狼が呻り声をあげて踏み込もうとしてきたので、反射的に棒を投げつけてしまう。狼は棒を警戒して大きく飛び退いて、棒を目で追う。

 今だ———!

 僕は踵を返すと、全速力で走り出す。こんなに全力で走ったのは体育祭以来だ。

「グルッ!!」

 僕に一瞬遅れて、狼が地面を蹴った音が聞こえた。

「イント様! こっちです!」

 声の方を見ると、若い女の子がこちらに走ってくるのが見えた。走りながら、ぶつぶつと何か呟いている。

 そんなに距離はない。僕は夢中で駆けて、女の子とすれ違った。

『……疾く焼き払え! 炎槍!』

 次の瞬間、女の子の声が聞こえ、続いてバチッという放電音が鳴った。

「え?」

 振り返ったら、すれ違った女の子が倒れるところだった。狼の方は火だるまになってもがいている。僕は助かったらしいけど、一体何が起きたんだろうか?

「マイナッ!」

 女の子から少し遅れて、こちらに駆けて来ていた女性が、倒れる女の子を見て悲鳴をあげた。

 駆け寄った女性は倒れた女の子の横に膝をついて、仰向けにする。女の子は小さく痙攣していた。

「やられた! 脈がない!」

 女性は悲痛な叫びをあげる。ああ、さっきの音はやっぱり電気のスパークの音だったか。

 学校の授業で、生き物の筋肉は電気信号で動いていると習った。ならば心臓あたりに電撃を食らえば、心臓が止まってもおかしくないだろう。

「誰か娘を助けて! マイナッ! マイナッ!!」

 女性は女の子の母親だったらしい。取り乱して、大声でまだ戦っている人たちに声をかけている。

 脈がないという事は心臓が止まっているということだ。このまま放置すれば、きっと死んでしまうだろう。なんせ僕は、それが原因でさっき死んだばかりだ。

 でも、急いで心臓マッサージをすれば、まだ助かるかもしれない。

「くそう! 心臓マッサージってどうするんだっけ!?」

 時間が経てば経つほど救命率が下がる。さっき先生や同級生を頼りないと思ったばかりだが、実は僕もどうやるか細かくは覚えていない。受験に関係ないので、テストが終わった時点で全部忘れてしまっていた。

「くそ! 教科書があれば!」

 娘を抱きしめて取り乱している女性の後ろで、僕も焦ってくる。あの子は、僕をかばって狼の攻撃を受けたのだ。なんとかして助けなければならない。

『ふむ。教科書であるか? 吾輩なら、汝のその願いを叶えることができるのである。汝は教科書を求めるか?』

「は?」

 唐突に現れた自称天使が、宙に浮かんだ状態で声をかけてくる。教科書を見れるなら、それはもちろんありがたいことだけど、ここはわけのわからない異世界で、教科書なんか存在していないはずだ。

『吾輩は叡智の天使。叡智の導きがあれば、汝の魂から教科書を取り出すなぞ造作もないのである。最後の願いは教科書で間違いないか?』

 3つの願いを叶えた後、僕がどうなるのかとか、気になる事はあったけど、もう時間がない。

「出来るんなら、お願いします」

 答えると、自称天使は黒い山羊の顔で、ニヤリと笑う。邪悪ささえ漂う笑顔だ。

『うむ。では汝の最後の願いを叶えよう!』

 自称天使が片手をあげると、キラキラと煌めく光が僕の身体からにじみ出て、それが手の上で本の形をとりはじめる。

『ほう。いろいろな科目があるのであるな。どの教科書にするのであるか?』

「まずは保健の教科書。心肺蘇生のページを」

 前世の僕は、多分心臓が止まって死んだ。意識を失って以降の事は分からないけど、記憶がないということは蘇生できなかったんだろう。
 みんな心肺蘇生の方法を忘れてやがった。僕も他人の事は言えないけれど、教科書があればやってやれないことはない。

『あったであるな。これで願いは叶えたのである』

 目の前に教科書が開いた状態で現れ、かわりに自称天使が薄れて消えようとする。

「ちょっと天使さん、まだ終わってませんよ。もう一回灯りをお願いします」

 天使は一瞬固まり、薄れていたところから急に実体化する。どうやら消えるのを諦めたらしい。

『汝は贅沢であるな。願いごとは3つであるぞ?』

「知ってますよ。でも2つ目の願いに、いつまでという期限はなかったでしょう?」

 3つの願いの対価を僕は知らない。とりあえず、引き延ばせるだけ引き延ばすのが良いだろう。とっさの閃きで、そんな返事をする。自称天使が小さく舌打ちしたような気がした。

『承知したのである』

 自称天使が頷いたのを確認して、教科書にざっと目を通す。

①傷病者を発見。
 もう見つけている。
②周辺の安全確認。
 変な狼がいるけど、安全な場所なんてない。
③反応を確認する。
 女の子はさっきから痙攣するだけで動いてない。
④応援を呼ぶ。
 女の子の母親が声をかけていたけど、多分医者はいない。
⑤呼吸を確認する。
 女の子の母親が確認していて、脈はないし呼吸も止まっている。
⑥胸骨圧迫を行う。
 胸骨を一分間に100回~120回5cm沈むように押す。
 必要に応じて気道確保と人工呼吸を行うっと。

 イラスト付きで分かりやすい。そう言えば学校に消防の人が来て、人形で実習したことがあったような気もする。とりあえず、やるしかないか。

「ちょっと失礼します。僕にやらせてもらえませんか?」

 思い切って母親の女性の肩に手を置くと、イライラした表情で振り返り、フッと表情が抜けた。

「イント様!? そのお姿は…」

「姿?」

 自分の身体を見て驚く。なぜか全身が強めに光っていて、周囲を照らしていた。自称天使に灯りを用意するようお願いしたが、それがまさか全身を光らせる事だとは……。後で抗議しよう。

「何か救う方法があるんですね?」

 光っている子どもというのは、怪しさから一周回って神々しく見えるらしい。うなずくと母親はすがるような顔で、僕に場所を開けた。

「まずは胸骨の位置だな…。」

 しゃがみこんで、胸に触れる。双丘が柔らかくて不謹慎な事を考えそうになるのを必死で抑えながら、両手を胸骨の上で組んで心臓マッサージを開始する。一分間に100から120回って事は、1秒間にだいたい2回。体重が軽いので力いっぱいやらないといけない上に、結構テンポが早い。

「イ、イント殿?? 娘に何を??」

 母親が何やらオロオロとしているが、今はそれどころではない。

 心臓マッサージを30回続けた後は、人工呼吸だ。座る位置を変えて、改めて顔を確認すると、とんでもない美少女だった。
 意表を突かれて、ちょっと固まるが、もちろん雑念を入れる余裕はないので、まずは顎を持ち上げて気道を確保する。それから、鼻をつまんで口移しで空気を吹き込む。唇がやけに柔らかい。

「イ、イント様!? なんでそんなことを!」

 オロオロを通り越して狼狽の域に入っているが、ここで止めるわけにもいかないので無視する。

 胸が持ち上がるのを確認しながら、前世から通して、これがファーストキスだという雑念が脳裏をよぎった。頬が熱くなるのがはっきりとわかってしまう。

 2呼吸目の人工呼吸も、雑念と戦いながら何とかこなし、再度、心臓マッサージに戻る。

 それを2回ぐらい繰り返したところで、女の子に反応があった。

「ゴホッゴホッ」

 咳き込みながらも、自発呼吸が戻ってくる。心肺蘇生はなんとかうまく行ったらしい。僕を守ろうとしてこうなったので、本当に助かって良かった。

「ああ、イント様、ありがとうございます!ありがとうございます!」

 何度か咳込んだ後、落ち着いて呼吸する女の子を目の当たりにした母親が、縋りつきながら泣き崩れた。

「良かった、で、す、ね?」

 急激に身体の力が抜けて、その場にへたり込んでしまう。あまりに急激な変化だ。

 これはもしかしたら、あの自称天使に何かされたのかもしれない。

「イ、イント様!?」

 意識も遠のいていく。怪我しないように女の子の隣に寝転がり、今度はちゃんと目覚められる事を祈りながら、意識を手放した。
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