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第一章『死の谷』
2話 てこの原理と救助
しおりを挟む何の気配もないところから急に声がした。
ここには得体の知れないモノがたくさんいる。今声をかけてきたのが何者かはわからないが、もし害意があればただでは済まない可能性もある。
得体の知れない恐怖に、全身がキュッと萎縮してしまう。
いや、しかし、よく考えてみろ。この近さなら、声をかける前に攻撃できたはずで、それをしなかったということはこちらに害意はないはず。
そう自分に言い聞かせて、身体をの緊張を無理やり解いていく。
「え、ええと、ど、どちら様ですか?」
それでも、声が震えるのは抑えようがない。
『ふむ。怯えておるのか? これはすまなんだ』
フッと、目の前にぼんやりと光る、手のひらに乗せられるぐらいの小人が現れた。小人は黒い執事服をビシッと着込んでいて、頭に黒い山羊の被り物をかぶった状態で、優雅にお辞儀をしている。
『吾輩は叡智の天使である』
小人は滑らかに顔を上げた。黒山羊の口が動いて言葉を紡ぎ、暗闇の中で月光を反射して光る眼がギョロっと動いて、こちらと目が合う。
「て、天使、ですか? 黒いのに?」
滑らかに動く被り物。いや、それにしては滑らかすぎる。
『色で判断するのは、人間の悪い癖であるな。黒くとも我は天使である』
もしもこれが被りものではなく本物だとすると、彼は悪魔じゃなかろうか。確か山羊の頭の悪魔がいた気がする。
だが、今はそんな場合ではない。妹がいるであろうひっくり返った馬車の周辺は、馬の死体と馬車の破片、積み荷が散らばっていた。
そこに近づくために障害物を脇へどけて前へ進みながら、自称天使をうかがう。
「その天使様がなぜここへ?」
角のある犬みたいな生き物がいたり、魔法みたいに呪文一つでその生き物が燃え上がったのを見てきて、次は自称天使の山羊頭の小人。これは夢か何かだろうか? 僕は単なる受験生なんだが。
『事情を説明しに、であるな。汝が混乱しておるようであった故』
思ったより障害物が多い。障害物を踏みつけて行って、その下に妹がいたら大変なので、一つ一つどけていく。自称天使はテクテクとついてくるだけで、手伝おうとしない。
「事情というのは?」
自称天使が言うように、僕は確かに混乱している。情報は多ければ多い方がありがたい。
『先ほど、汝がレイスに魂の一部を食われた故、吾輩が契約に基づき、前世の魂から一部を補填して助けたのである。記憶が混乱しているのは、そのせいであるな。もう少ししたら馴染むので安心するのである』
前世、ときたか。不思議と納得してしまうのは、こちらがあまりに違う世界である事を痛感してきているからだろう。
「前世ということは、僕は死んでいるんですか?」
『死んでいるというのは正確ではないのであるな。前世の魂を補填しただけなのだからして、今の汝は生きているのである』
つまり今は生きているが、前世の僕はあのまま助からずに死んだという事か。先生といい、同級生といい、何て頼りにならない連中だろう。
自称天使の言うことは良く分からないし、胡散臭すぎて信じていいものかわからない。ともかく、もう少ししたら馴染むというのであれば、今は救助活動を優先すべきだろう。
そんな事を考えているうちに、馬車の残骸の横まで辿り着いた。
「ああ、暗くて見えない! これは灯りがないと無理だ」
ひっくり返った車体のすぐ側まで行って、手を地面について覗き込むが、残骸の下に月明かりは届いておらず、どこにいるか全く見えない。妹が声を出してくれれば話は早いが、望みは薄そうだ。
『灯りであるか? 吾輩ならばその願いを叶えることができるのである。汝の願いはあと2つ残っているのであるが、汝は灯りを求めるか?』
自称天使が、また訳のわからないことを言い出した。要約すると、灯りが出せるという意味だろう。
また離れた場所で戦闘が発生したらしい。獣の咆哮と金属音が響いてきている。
「出せるんならお願いします」
早く妹を救助してここを離れないと、僕の命も危なそうだ。僕は自称天使にお願いする。僕を助けられたのだから、それぐらいのことはできそうだ。
『うむ。では二つ目の願いを叶えよう』
原理はわからないが、自称天使の手元が急に明るくなった。懐中電灯のように、馬車の残骸の隙間が照らし出される。
「いたっ!」
その灯りに照らされて、地面と残骸の隙間から妹の姿が見えた。胸がゆっくり上下しているを確認して、少しホッとする。上の残骸は重そうだが、直接乗っているわけではなさそうだ。これなら残骸を横に転がせば何とかなるだろう。
「リナ! 大丈夫か!?」
大声で声をかけると、リナは少し呻いてうっすらと目を開けた。
「お、にいちゃん……?」
良かった。意識が戻ったようだ。
「待ってろ! 今助ける!」
少し触ってみたが、残骸はかなり重い。身体が子どもになっていることから考えて、普通に持ち上げるのは不可能だろう。となれば……
「てこの原理だ!」
自分の力より重いものを動かす方法として、教科書に載っていたのを原理を思い出す。
あたりを見回すと、金属製の棒を見つけた。確か父上のトレーニング用の武器の一つで『棍』という名前だったか。
重いのを我慢して棍を持ち上げる。
「作用点!」
棍をリナの横に差し込む。そして散らばっている頑丈そうな箱の一つを、棍の下に蹴り込んだ。
「支点!」
棍を箱の上に乗せる。作用点から支点は短めにして……よし、行けそうだ。
「力点! おらぁっ!」
棍の端に手をかけて、真下に思い切り体重をかける。ジワリと残骸が持ち上がり、妹の姿が現れた。そのまま棒を押し込むと、十分な空間が開く。
作用点と支点の距離と支点と力点の距離の比が、そのまま作用点での力の差になるので、子どもの力でも残骸を動かせるのだ。
「おにいちゃん!」
リナが広がった隙間から這い出してくる。小さなすり傷がたくさんあったり、服が傷んでいたりはあったが、ちゃんと動けているようだ。
「リナ、痛いところはない?」
残骸の下にリナ以外に誰もいないことを確認しながら、這い出してきたリナに訊ねる。
「いたいところいっぱい! でもだいじょうぶ!」
リナは涙を溜めたまま立ち上がった。気丈な子だ。6歳とは思えない。見たところ、表面的な傷や打ち身以外に大きな怪我もなさそうだったので、自力で避難できるだろう。
これで村に帰れる。最後に棍を押し込んで、残骸を横に転がす。
ドスンと、思ったより大きな音が響く。やっぱり自力で動かすのは無理そうだったので、てこの原理を覚えておいて本当に良かった。
「じゃあリナ、みんなの所に行くよ」
グルル!
リナの手を引いて、歩き出そうとした時、森の方から唸り声が聞こえた。そちらを見ると、森と道との境目あたりに犬のような生き物がいる。いや、牙を剥き出した威圧感は、犬のものではあり得なさそうなので、多分狼だろう。
額に縦に2本並んだ角が、 パチパチとスタンガンのような音を立てている。
「げ」
大きな物音を立てすぎたのかもしれない。弱そうな僕が集団から離れたので、みんなが戦っている場所を迂回してこちらに来たのだろう。
繋いだリナの手に力がこもる。
「リナ、みんなの所まで走れる?」
小声で尋ねると、リナが頷いたのが気配でわかった。
ならば、自分の仕事は時間を稼ぐ事だ。リナの手を拾い、散らばる折れた幌の骨組みの中から、手頃な棒を拾って構える。
「じゃあ、僕の陰に隠れて、ゆっくり離れて。」
足がすくむ。受験生が命のやり取りをするのは荷が重い。
自称天使の言うことが正しいのであれば、今の僕は前世の記憶が戻って混乱しているらしい。後ろで後ずさりする少女も、妹であるということと、ストリナ(愛称リナ)という名前しか思い出せないが、それでなぜこんな風に命をはって護ろうと思うのだろうか。
ドンっと腹に響く音がして、少し離れたところで火柱が上がった。狼の視線が一瞬音の方にそれる。
「リナ!走れ!」
狼のストリナへの視線を遮りつつ、指示を出す。ストリナが走り出した事を足音で確認し、僕も後ずさりを開始する。
狼は視線を僕に戻すと、怒りに満ちた表情で牙を剥きだした。
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