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第12章 奈落の底に棲む悪魔

10 悪魔の問題

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 本来なら――綾那なら、すぐさま顔を上げて微笑んだ。
 機敏な動きで立ち上がって、あの逞しい体に遠慮なく飛びついたに違いない。「生きていて本当に良かった。颯月さんが生きているなら、なんでも良いです」と泣き笑い、キスのひとつやふたつやみっつを送ったかも知れない。

 しかし綾那は、顔を上げなかった。それどころか呼びかけに返事さえしなかった。いや、正確に言えば何もできなかったのだ。あの顔を見たら――下手に口を開けば最後、何もかも許してしまうのは分かり切っていたから。

「……綾? 怒ったのか?」

 すぐ近くに人がしゃがみ込む気配を感じて、身じろぐ。怒ったとか怒ってないとか、最早そんな次元の話ではない。そもそも、何故このような状況で声を弾ませているのか。綾那はますます自分の殻に閉じ篭るように、膝を抱える腕に力を込めた。

「――ねえ、君さあ……親しき中にも礼儀ありって知らないの? だから、こんな無謀な真似は辞めなさいって言ったんだよ……最初から全部話してあげれば良かったのに、すっかり不貞腐れちゃったじゃあないか」
「不貞腐れた? あの綾が……? なんだソレ、可愛いな――綾、顔を見せてくれ。綾になら、不愉快極まりないモノを見る眼差しでさげすまれてみたい」
「はあ……本当にビョーキが進行しちゃったな。もう僕の手には負えないよ」

 大きな手の平が頭の上に乗せられたかと思えば――激しい吹雪で乱れたせいか――手櫛で丁寧に撫でつけられる。綾那は、今にも「しゅき」と飛びつきそうになるのを、唇を噛み締めて必死に耐えた。

「なあ、綾。悪魔になった綾が見たい、顔を上げてくれないか? 髪色も肌色も新鮮だな、次は瞳の色を確かめたい」
「……まず初めに謝れば?」
「うん? ああ――そうか、色々と説明しないまま驚かせて悪かった。俺が死ぬ瞬間どんな顔をするのか、最期にどうしても知りたくて」
「メチャクチャな事言ってるよね」
「もう死ぬ気がないものだから、アレが最初で最後のチャンスだったんだ。それに勝手を言って悪いが、綾の死に顔だけは死んでも見たくなかった。あまりのショックで魔力制御を失えば、下水処理場を破壊する恐れがあるだろう? だから創造神にはあらかじめ、「俺が死んだ綾を殺せ」と頼んでおいた」

 ――本当にこの男、自分のやった事を棚上げしてとんでもない勝手を言っている。綾那とて、颯月のあんな死に様だけは、死んでも見たくなかったのに。
 しかも悪魔は不老なだけで、決して不死ではない。普通の人間と同じように傷病を負うし、威力の高い魔法を受ければ死んでしまうらしい。颯月は軽々しく「一生」なんて言葉を口にしたが、悪魔として永遠に生き続けるのは至難のわざだと思う。

 聖獣の竜禅や白虎は数千年と生きているようだが、そもそも彼らは土地の守り神として、人間から大事にされている節がある。そこいくと悪魔は、人類共通の敵だ。正体を隠して逃げ回れば長生きできるかも知れないが、しかし程よく人間を痛めつけなければ悪魔としての存在意義がなくなってしまう。

(シアさんが特別に、私達を不老不死の悪魔として蘇らせてくれたとか? うーん、でもそんな事をして、もし私達までヴィレオールさんみたいに増長したら面倒だよね――)

 そうして顔を伏せたまま思案していると、頭を撫でていた手が綾那の耳をくすぐった。たったそれだけの事で背筋に甘い痺れが走って、「ひゃあ」と短い悲鳴を上げる。
 思わず両手で耳を押さえれば、人間であった時とは違う細く尖った触り心地に驚いた。

 ――そういえばヴェゼルもヴィレオールも、まるでエルフのように尖った耳をしていた気がする。いや、それはそれとして、もしかすると耳は悪魔にとって弱点なのだろうか。弱点なのに隠しようがないのは如何いかがなものか。

「………………ああ、本当に可愛いな」

 耳を塞ぐのについ顔を上げてしまった綾那は、ハッとして声の主を見た。
 これでもかと甘く蕩けた赤い垂れ目に、何やらよく分からない羞恥心を覚えて顔が熱くなる。――彼が見慣れぬ姿をしているせいだろうか?

 悪魔になった颯月は、それはもう洗練されていると思う。金髪混じりの黒髪は銀一色になって、白い肌は褐色に。紫色の瞳は両目とも赤く染まり、右半身を覆っていた刺青は消えてしまったようだ。
 アイドクレース騎士団の黒い制服も調和しているというか、なんというか。銀髪が映えて良い。

 ただ、ふと目線を下げれば、騎士服の胸元には綾那と同じように穴が開いていた。そこから覗く胸板には傷がないようで安心したが、綾那が負った心の傷はまだ残っている。

 ――彼は今回の事で、綾那がどれだけショックを受けたか本当に理解しているのだろうか。
 動く颯月を見ているだけで目頭が熱くなってきて、瞳にじわりじわりと涙の膜が張る。
 しかし「泣き顔を見せても喜ばせるだけじゃないか」と思い至ると、ギュッと頬の内側を噛んで耐えた。

 すると、妖艶な眼差しをした颯月がうっそりと笑う。

「安心しろ、俺はもう二度と死なん。それに綾を死なせるつもりもない。綾はこれからリベリアスの悪魔として、俺と永遠に暮らすんだ」
「それは、どういう――」

 綾那の頭を撫でていた大きな手は、耳をくすぐった後に肩まで滑った。両肩を掴む力はやけに強く、息が詰まって言葉が出なくなる。
 好きで仕方なくて、今にも心が折れてしまいそうだ。とは言え、一応は颯月に対して「怒っている」という体裁を保たなければいけない。綾那は抗議の意味を込めて眉根を寄せると、ジロリと颯月を見上げた。そして、すぐさま後悔する。

 彼の赤い瞳には、綾那しか映っていない。そこに映り込んだ自分の姿を見ていると、なんだか瞳の中に閉じ込められて、もうどこへも逃げられない――という錯覚に陥った。
 目が合った瞬間に細められた深紅からは、どこか狂気を思わせる程に強い執着の色が見える。綾那は、まるで猛獣を前にした小動物のように委縮した。

「俺が死ねば、綾を遺して消える事になるだろう? 逆に綾が一人で逝くのも許容できん、俺は誰にもを渡したくないし……目の届かない場所へ行かれるのは耐えられないからな」

 綾那が何も答えられずにいると、颯月は優しく微笑んだ。しかし、目だけはあまり笑っていないように見える。

「俺を害そうとするのが誰であろうと退しりぞけるし、綾に触れようとする者が居ればすり潰す。だから俺達は、二度と死なない」
「は……」
「例え綾が生きるのに飽きて死にたくなっても、俺から逃げようとしても駄目だ。もし万が一綾が逃げ出そうとしたら、創造神が程よく魔法を封じて無力化する手筈になっている。これも契約についてきたのひとつだからな」
「――えっ? シ、シアさん……?」
「あと、綾は悪魔なのに氷魔法しか使えない体にされている。闇魔法を使えない、耐性もないとくれば、最悪頭の中を俺の好きに弄れるって事だ。――でも綾は、俺にそんな酷い事をさせないよな?」
「……シアさん。あの、ちょっと?」

 ただでさえ魔法に関しては門外漢もんがいかんなのに、その上もしもの時には無力化しようとは。しかも颯月だけ闇魔法を扱えるとなれば、綾那をいくらでも洗脳してしまえるではないか。ひと口に同じ悪魔と言っても、力量に大きな差があるのは一目瞭然だった。

 ――これは、あまりにも綾那に不利な契約なのではないか? 

 颯月越しにルシフェリアを見上げたが、仮面の天使はグリンと顔をそむけて何も言わない。普段ベラベラと喋りまくるくせに、都合が悪くなると口を閉じるなんて――綾那が目を細めていると、その視界を遮るように颯月が頭を傾けた。
 またしても赤い瞳と目が合って、ギクリとする。

「……悪魔になると、元々抱えていた欲に抑えが利かなくなるそうだ」
「元々抱えていた欲?」
「例えばヴィレオールなら、どんな手を使ってでも知的好奇心を満たしたい。ヴェゼルは遊び友達が欲しいってところじゃないか。それらが満たされた時、悪魔はこの上ない多幸感に包まれる。だから俺達の前任者は、欲に駆られてついやり過ぎちまったんだろう」

 颯月の話を聞いて、自分の欲とはなんだろうかと考える。しかし、そうかからない内に「颯月と離れたくない」であると思い至った。
 だとすれば、颯月の抱える欲とはなんなのか――まさか、「綾那を泣かせたい」ではないと思いたいが。

 まるで顔色を窺うように上目遣いになれば、ようやく颯月の目元が甘く緩んだ。その見慣れた目の形に、綾那はホッと肩の力を抜いた。しかし――。

「俺は、
「はい?」
「閉じ込めたくて仕方がないんだ。お前が俺以外に触れるのも、誰かと話すのも……誰かを見るのも、見られるのも虫唾が走る。創造神から事前に「悪魔になれば今までと同じ颯月では居られなくなる」と聞いていたんだが――まさか、ここまで抑えが利かなくなるとは」

 どこまでも優しい表情で、甘く蕩けた声色で。しかし口から飛び出てきたのは、「だから、あまり創造神を見てくれるな」と、正常とは言い難い物騒なセリフだった。
 綾那はひくりと頬を引きつらせると、一旦颯月から距離を取ろうと身をよじらせた――が、すぐさまギュウと強く抱きしめられたため、それは叶わなかった。
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