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第10章 奈落の底が大混乱

14 確認

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 維月から「おかしい」と評されても、渚は淡々と「よく言われます」とだけ答えて、特に気分を害した様子がない。
 その様子がまた異質に映るのか、維月はまるで正体不明の『異形』を前にするかのように目を細めた。濃い霧に隠されたモノの姿を確かめようと、紫色の目でじっと探っている。
 しかし渚は、彼から受ける視線を全く意に介しておらず――なんなら腹から「くぅ」と気の抜ける音を出してした。

 維月は途端に目元を緩めると、くつくつと低く笑った。

「そんなに腹が減っているなら、先に食べていて良いんだぞ? 義姉上も……近衛に言って、ここまで食事を運ばせようか」
「こ、近衛の仕事って、たぶんそういう事じゃないですよね? 食事なら私が取りに行きますから……それに維月くんは、颯月さんが来るまで待つつもりでしょう? 私達だけ先に食べるのは、ちょっとやりづらさが――」
「遠慮する事ないのに、律儀だな」

 維月はおもむろに席を立つと、扉まで歩いて行った。そして薄っすら扉を開くと、廊下で待機しているであろう近衛騎士に何事かを命じる。

「じゃあ、食事は揃ってからにしよう。空腹を紛らわせるために温かい茶を頼んだから……もうしばらく、それで繋いでくれ」

 笑いながら席へ戻って来た維月に、綾那と渚は揃って礼を言って、頭を下げた。

 ――勉強会は一時中断。法律関連の小難しい話も終わったところで、綾那はようやく安心して渚の隣の椅子に移動する。
 意見を求められたところで、綾那は「私もそう思います!」「仰る通りです!」「さすがですね!」ぐらいの薄っぺらい相槌しか打てない。そもそも彼らの話す内容をどれだけ理解できたかと言えば、恐らく二割も理解できていないだろう。
 綾那に分かったのは、ただ「二人は賢くて偉い」「今日はすごくいい天気」という事だけなのだから。

 特に何をやった訳でもないのに話を聞いただけで疲れてしまい、綾那は「やっと息ができる」と言わんばかりに小さな息を吐き出した。
 渚は綾那を横目で見た後に、眠たそうなジト目をそのまま維月へ向けた。

「――維月殿下は、颯月サンの義弟君おとうとぎみなんですよね」
「うん? ……ああ、そうだ。自慢の義兄だよ」
「これは個人的な好奇心なんですけど……その自慢の義兄に、ある日突然どこの馬の骨だか分からない綾が近付いて――殿下は、なんとも思わなかったんですか」
「……あの、渚? その質問はちょっと酷い気がする……」

 渚は横からツッコミが入っても気にせずに、ただ維月の目を見ている。彼は面食らったように目を瞬かせた後、フッと小さく噴き出した。

「なんとも思わないはずがない、多少は思った。何を、とは言わないがな。ただ、実際に会って話した結果、少なくとも毒にはならないと判断した。その上で義兄上の幸せを思えば――そこから先、俺がどうすべきかなんて事はおのずと見えてくる」
「まあ、そうですよね……なるほど。義兄の幸せを思って、この異分子を仕方なく見過ごしたと」
「異分子」
「そうだな」
「そうなんだ……」

 渚と維月、二人がかりに暴言を吐かれて、綾那はしょんぼりと肩を落とした。
 それは綾那とて、維月の大事な義兄を奪った――と言って良いものか、迷うが――のだ。手放しに祝福されようなんて思っていなかった。
 思っていなかったが、しかし、この義弟はなんだかんだでいつも優しく受け入れてくれるから、完全に油断していた。
 これまた綾那お得意の、無自覚に他人へ迷惑をかける悪癖が出たか――なんて打ちひしがれていると、維月がおかしそうに「いや、冗談だよ。許せ、義姉上」と笑う。

「殿下は、颯月サンの何にそこまで惹かれるのですか? ――ああ、いえ、嫌味でもなんでもなく、単なる知的好奇心です。正直に申しまして、私がほんの少し目を放した隙に綾を篭絡されたものですから……一体どのような人物なのか、計りかねておりまして」
「どのようなと聞かれても困るな、素晴らしい人物であるとしか言いようがない。俺がもつ義兄上の最初の記憶は――恐らく、俺が四つか五つの頃だ。母上が「唯一の義兄弟だ」と言って引き合わせてくれたのが、確かそれくらいだった」
「……その頃にはもう、颯月サンは勘当されていたのですか?」
「ああ、そうだ。義兄上は既に、史上最年少の騎士団長としてこの宿舎で過ごしていた」

 渚はウンウンと頷いていたが、しかしふと首を傾げた。

「――あれ? 颯月サン、確か今二十三歳でしたよね。それで騎士団長に就任したのが、十四歳の頃……まだ就任から九年しか経ってない。就任後に会って四、五歳って、維月殿下おいくつなんですか」
「十三だが」

 渚はたっぷりと無言の時間を楽しんだのち、ようやく口を開いたかと思えば「――オイ、こんな中坊が居て堪るか」と漏らした。
 そのあまりにもな言い草に、綾那が小声で「相手は王太子だよ!」とたしなめたが――渚はまたしても「こんな中坊が居て堪るか」と繰り返す。

「義兄上は家族、殊更血族に飢えておられたから……俺という存在が好ましくて仕方がないようだった。敵意も害意もなく、ただ無条件で庇護してくださってな。その頃俺の周りに居た人間と言えば――人の感情の機微に疎く滅多に姿を見せない父上と、自分が優秀過ぎるばかりに不出来な者の気持ちがひとつも理解できない母上だ。王太子は弱みを見せるなと厳しく言い含められていたため、俺は一人で思い悩んでばかりだった。そんな俺の苦しみが分かるのは、全く同じ育てられ方をした義兄上だけだ」

 維月はそこで一旦言葉を区切ると、こてんと首を傾げた。そして「いや、全く同じと言うと義兄上に失礼だな。俺よりもよほど苦労されていたようだから」と訂正する。
 それは、以前正妃も言っていた事だ。颯月の教育でしたため、維月の教育は割と甘めに設定してあるのだ――と。まあ、結局はその甘さも正妃基準に過ぎず、颯月は「どこが甘いんだ」と首を捻っていたが。

「義兄上は何を言うでもなく、何を聞くでもなく、ただ俺に寄り添い励ましてくださった。それは、今も変わらず――だからあの人は素晴らしいし、俺の自慢なんだ。俺が寄りかかれるのはあの人しか居ない」
「へえ……そうなんですね……」

 維月の話を聞いた渚は、納得したように頷いた。そして、そのまま何事か思案するように目を伏せる。
 しかし彼女が次の言葉を発するよりも先に、応接室の扉がノックされて開かれた。近衛騎士が茶を運んで来てくれたのかと思ったが、扉を開けたのは颯月だった。
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